狐/新美南吉=お母さんは号泣必至、未読のままだと後悔します。

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

狐-新美南吉-イメージ

今回は『狐/新美南吉』です。

新美南吉さんの『狐』は文字数6800字ほどの童話。
狐人的読書時間は約14分。

狐になった文六ちゃんは人の孤独と母の愛を知る。
お母さんは号泣必至、未読のままだと後悔します。
こんなお母さんがいてくれるなら僕も狐になりたい。
狐人が新美南吉さんの童話『狐』をおすすめ。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

月夜。

村の七人の子供たちが歩いている。
本郷へ、お祭りを見に行くためだ。

道中、文六ぶんろくちゃんの下駄を買うために、子供たちは下駄屋に立ち寄る。下駄屋の小母さんに、文六ちゃんの下駄を見繕ってもらっていると、一人のお婆さんが入ってきて言う。曰く、晩に新しい下駄をおろすと狐が憑くらしい。子供たちは驚くも、小母さんのおまじないにより安心して下駄屋を出る。

子供たちはお祭りを楽しんだ。しかし夜が更けるにつれて漠然とした不安を感じ始める。昼間ならなんてことない三番叟さんばそうを舞う人形も、本当に生きている人間のような気がして、不気味になってくる。そして文六ちゃんの下駄のこと、狐に憑かれるといったお婆さんのことを思い出す。

お祭りからの帰り道、子供たちがひっそりして歩く中、文六ちゃんが「コン」と咳をする。文六ちゃんは狐になってしまった、とみんなが恐れる。

文六ちゃんの家はみんなの家とは少し離れたところにある。普段なら、樽屋たるやの一人息子で、大事なお坊ちゃんで、甘えん坊な文六ちゃんを、子供たちは門口かどぐちまで送ってやる。しかし今夜は……。

祭に行くまではあんなに親切にしてくれたみんなが、自分が狐に憑かれたかもしれないために、いまや誰一人顧みてくれなくなった――文六ちゃんは情けない気持ちを抱えながら、一人家までの道を辿った。

甘えん坊の文六ちゃんは、初等科三年生になってもまだお母さんと一緒に寝ていた。そしてお母さんにその日一日の出来事を話すのが日課だった。

文六ちゃんは「もし自分が狐になったらどうする?」とお母さんに問う。お母さんは「自分たちも狐になって一緒に山で暮らそう」と笑って言う。さらに文六ちゃんは訊く。「猟師の犬に見つかったらどうしよう?」お母さんは真面目な顔でそれに答える。「母ちゃんが囮になっている隙にお父ちゃんと逃げなさい」

いやだ、と言って泣き喚く文六ちゃん。お母さんは寝間着の袖をこっそり目のふちに当てた。そして文六ちゃんがはね飛ばした小さな枕をそっと頭の下にあてがってやった。

狐人的読書感想

狐-新美南吉-狐人的読書感想-イメージ

あののイ、いかがでしたでしょうかのイ。

「あののイ! 僕は狐人だけどのイ!」

……失礼しました。

作中、文六ちゃんの一番の世話焼き、義則よしのり君が使っていたのですが、なんか気に入ってしまいました(ほぼ使い方を間違っていますが)。

「のイ」ってどこかの方言なのでしょうかねえ……(新美南吉さんの出身地を思えばギア方言―岐阜・愛知方言―なのでしょうか? ご存知の方いらっしゃいますか?)。

しかし、そんな狐人的お気に入りキャラ義則君も、狐憑きの呪縛にとらわれ、文六ちゃんを見捨ててしまったのは、ちょっと寂しく思いましたが。

とはいえラスト、文六ちゃんとお母さんの会話は、空想の話にもかかわらず――いえ、空想の話だからこそ心打たれてしまいました。正直、泣いてしまうレベルです。

これは本文六章ということになりますが、ここだけでもぜひぜひ読んでいただきたい! とくに現在進行形で子育て奮闘中のお母さん、お父さんに間違いなくおすすめできます。絵本などで子どもと一緒に読んだら最高!

むしろあとで知ったら、読まなかったことを後悔します。

てか、かく言う僕が後悔しています。

小説でも童話でも、文芸作品を読んでいると、「なんでもっと早くこの作品に出合わなかったんだろう?」と思うことが、ときどきあります。

それを読んでいたからといって、のちの人生を左右したかもしれない――とまでは、すでにどうしようもなくひねくれものな僕としては、なかなか思えないわけなのですが、それでも「もっと早くに読んでいたら……」と、思わず思わされてしまう作品はあります。

(もっと早くに読んでいたら……)

とくに「狐人」を(勝手に)名乗っている以上、新美南吉さんの「狐」作品は優先して読むべきだったとかなり反省(なぜこの作品をもっと早くに取り上げなかったのか――狐人としてあるまじきミス!)。

(僕が既読の新美南吉さん「狐」作品)

……こうして並べてみるまでもなく、新美南吉さんにとって「狐」はかなり重要な意味を持つモチーフだったことが想像できます。狐人的にはちょっとシンパシーなところです。

話が横道に逸れてしまいましたが、軌道修正して、新美南吉さんの『狐』という作品から僕が読み取ることができたのは、簡単に言うと以下の二つです。

「人の孤独」と「母の愛」

まずは「人の孤独」ということですが、これは二つの点から感じ取った感想です。

一つは、義則君に代表される(義則君叩き過ぎ?)子供たちが、文六ちゃんを見捨てたことです。

これは、「コン」という文六ちゃんの咳をきっかけに、「まさか本当に狐にとり憑かれたんじゃ……」という疑心と恐怖心とが堰を切った結果出た子供たちの行動でした。

大人の社会でも子供の社会でも、些細なきっかけで個人を敬遠してしまう、あるいは敬遠されてしまう、ということは往々にして起こり得る事象です。ただこの傾向は、子供の社会のほうが顕著であり、なおかつ、やられるときついと思ってしまうのですが、いかがでしょうか?

大人であればある程度の分別があるので、あからさまに排斥されることは少ないように思いますが(陰で知らないうちに排斥されるのもそれはそれできついですが)、分別の足りない子供の場合は容赦がなく、それがいじめ問題の一つ要因のように思えるのです。

人生経験の長い大人であれば、こちらもある程度人間の孤独性みたいなものを理解できている(あるいは諦観している)でしょうが、子供にはその免疫がないので、なぜ自分が阻害されているのかわからない場合もあるでしょうし、今回の文六ちゃんの場合のように、初めてそれを知って、人間不信に陥ることもあるのではないでしょうか?

まあ、それがトラウマで悲観的な性格になり、僕のようなひねくれものの狐人になってもいけないのでしょうが……(強く生きて! 文六ちゃん!)。

さらにもう一点、文六ちゃんのお母さんの発言にも、「人の孤独」を思わされるところがありますよね。これは後述する「母の愛」ゆえに、ということを考えると、一種の矛盾を孕んでいて、ちょっと難しくも感じましたが。

お母さんは、我が子のためを思って、「母ちゃんが囮になっている隙にお父ちゃんと逃げなさい」というようなことを言ったわけなのですが、文六ちゃんからすれば、それはとても許容できないことのように思います。

もちろんそれは、文六ちゃんの「母親に対する愛情」からくるものというより「保護者を失うことによる自己の損失(この言い方はひねくれすぎかなあ……)」を、無意識的に思っての感情かと推察できます(僕だけ?)。

大好きなお母さん、というと、これは子が母を想う愛情のようにも感じますが、甘えさせてくれる大好きなお母さん、とすれば、それはやはり「母の愛」とは別種のものと考えてよいのではないでしょうか。

そう考えてみると、やはり「母の愛」というものは別格で、恋愛などと比べてみても、人間の愛情というもののなかで至上のものののように思えてきます。

しかしながら、文六ちゃんからしてみれば、この「母の愛」は理解できないのではないでしょうか。たとえ理解できたとしても、それを認めるわけにはいきません。なぜなら文六ちゃんは、これからもずっと大好きなお母さんに傍にいてもらって、甘えさせてほしいからです。だから文六ちゃんは、お母さんの発言を聞いて、友達の子供たちに見捨てられたのとは別な思いで、やはりお母さんにも見捨てられたのだ、と感じられたのではないでしょうか。

ですがお母さんの発言は真理です。

生物である限り、母子でも恋人でも友人でも、いずれは別れのときが訪れます。一緒に生まれ、ずっと一緒にいて、最後も一緒に、ということは、現実的にありえないと断言してよいでしょう。

その意味で「人の孤独」というものを感じさせられる作品でした。

狐人的な意見ですが、このようなことはできるだけ早くに知っておいたほうがいいような気がします。

「あらゆる残酷な空想に耐えておけ」とはいいますが、こうした意味において、子供に対する物語の意義は大きいように思うのです。

(あらゆる残酷な空想に耐えておけ)

なので、文六ちゃんのお母さんが、文六ちゃんのたとえ話を真面目に受け止めて、狐になった家族が猟師に見つかったときの対処法について、子ども相手のことだから、どうとでも言い繕えるにもかかわらず、現実的な話しをして、自分が犠牲になると言い出したのには感動を覚えました。

子どもを傷つけないために、また悲しませないために、「猟師がきてもお母さんがやっつけてあげる!」的な空想話で安心させてあげるのも、一つ素敵な「母の愛」だとは思うのですが、子どものたとえ話を真剣に受け止め、自分の想いを真剣に話して聞かせる母親の姿に感動しました。

(……まあ、話していて、ただただ自分の感情が高まってしまい、ついつい本音を漏らしてしまっただけで、やっぱり子どものことを考えるなら、ごまかしてあげたほうが悲しませずにすんで、そっちのほうが母親の正しい在り方だとする見方もあるでしょうか? 当然子どもの年齢によるという意見も)

こんなお母さんが一緒にいてくれるなら、すでに狐人な僕も、「狐になりたい」と思わず思ってしまうのですが、みなさんはいかがでしょうか?

(そんな方はいないでしょうが、もちろん狐人になりたい方も大歓迎)

新美南吉さんの『狐』はぜひ一読していただきたい作品。
おすすめです。

読書感想まとめ

狐-新美南吉-読書感想まとめ-イメージあののイ、
人の孤独と母の愛、
僕は狐になりたい。

狐人的読書メモ

……しかしながら、もしも自分がお母さんになったとして(!?)、我が身を犠牲にしてまで我が子を救いたい、と思えるものなのだろうか?

――という疑問を抱いてしまう僕はもうダメなのだろうか?

――とか訊かれても……。

・『狐/新美南吉』の概要

1943年(昭和18年)1月8日執筆。新美南吉さんの「狐童話シリーズ」。新美南吉さんが幼くして実母を亡くし、一度は養子に出され、実家に戻ってからも継母に馴染めなかったというのは有名な話。ここから理想の母親像を求めているかのような作品が見られるが、『狐』もそんな作品群のひとつだと見てよいかもしれない(「人の孤独」という点で、必ずしもそれだけとは言い切れないところはあるが)。「狐」は新美南吉さんの分身、自己の投影である、といった見方もできるだろうか。この作品が新美南吉さんの亡くなる3か月前に執筆されたという点も非常に興味深い。

・狐憑きの迷信について

作中でも重要な狐憑きの迷信について。
下駄にかかわらず、夕方に新しい履き物をおろすと、狐に化かされる、といった迷信は日本のかなり広範囲の地域で信じられてきた。そのため、新しい履き物をおろす際は朝が良く、どうしても夕方におろさなければならないときは、底に灰か墨を塗らなければならない。このことは、下駄屋の小母さんがマッチを擦るマネをして、文六ちゃんの下駄裏に触ったことに通じている。

・人形の三番叟について

三番叟は能(日本の伝統芸能)。式三番(能の翁)という演目で、翁の舞に続けて舞う役、またはその舞事。親沢の人形三番叟というのがある。

以上、『狐/新美南吉』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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