狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『満願/太宰治』です。
太宰治 さんの『満願』は文字数1500字ほど。このブログで全文読めます。人間の本能的な部分を美しく爽やかに描いた短編小説。今回の感想は「『満願』二つの疑問」を解釈、解説! お医者の奥さんの深謀遠慮! やっぱり女性は強し!
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
酔っ払い、けがをしたのをきっかけに、仲良くなった医者夫婦。「私」は、新聞を読みに、毎朝お宅にお邪魔するようになる。そこで目にした女性の姿がとても美しかったのだ。
(短く、パブリックドメイン、ということでどうぞ)
『満願/太宰治』
これは、いまから、四年まえの話である。私が伊豆の三島の知り合いのうちの二階で一夏を暮し、ロマネスクという小説を書いていたころの話である。或る夜、酔いながら自転車に乗りまちを走って、怪我をした。右足のくるぶしの上のほうを裂いた。疵は深いものではなかったが、それでも酒をのんでいたために、出血がたいへんで、あわててお医者に駈けつけた。まち医者は三十二歳の、大きくふとり、西郷隆盛に似ていた。たいへん酔っていた。私と同じくらいにふらふら酔って診察室に現われたので、私は、おかしかった。治療を受けながら、私がくすくす笑ってしまった。するとお医者もくすくす笑い出し、とうとうたまりかねて、ふたり声を合せて大笑いした。
その夜から私たちは仲良くなった。お医者は、文学よりも哲学を好んだ。私もそのほうを語るのが、気が楽で、話がはずんだ。お医者の世界観は、原始二元論ともいうべきもので、世の中の有様をすべて善玉悪玉の合戦と見て、なかなか歯切れがよかった。私は愛という単一神を信じたく内心つとめていたのであるが、それでもお医者の善玉悪玉の説を聞くと、うっとうしい胸のうちが、一味爽涼を覚えるのだ。たとえば、宵の私の訪問をもてなすのに、ただちに奥さんにビールを命ずるお医者自身は善玉であり、今宵はビールでなくブリッジ(トランプ遊戯の一種)いたしましょう、と笑いながら提議する奥さんこそは悪玉である、というお医者の例証には、私も素直に賛成した。奥さんは、小がらの、おたふくがおであったが、色が白く上品であった。子供はなかったが、奥さんの弟で沼津の商業学校にかよっているおとなしい少年がひとり、二階にいた。
お医者の家では、五種類の新聞をとっていたので、私はそれを読ませてもらいにほとんど毎朝、散歩の途中に立ち寄って、三十分か一時間お邪魔した。裏口からまわって、座敷の縁側に腰をかけ、奥さんの持って来る冷い麦茶を飲みながら、風に吹かれてぱらぱら騒ぐ新聞を片手でしっかり押えつけて読むのであるが、縁側から二間と離れていない、青草原のあいだを水量たっぷりの小川がゆるゆる流れていて、その小川に沿った細い道を自転車で通る牛乳配達の青年が、毎朝きまって、おはようございます、と旅の私に挨拶した。その時刻に、薬をとりに来る若い女のひとがあった。簡単服に下駄をはき、清潔な感じのひとで、よくお医者と診察室で笑い合っていて、ときたまお医者が、玄関までそのひとを見送り、
「奥さま、もうすこしのご辛棒ですよ。」と大声で叱咤することがある。
お医者の奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。小学校の先生の奥さまで、先生は、三年まえに肺をわるくし、このごろずんずんよくなった。お医者は一所懸命で、その若い奥さまに、いまがだいじのところと、固く禁じた。奥さまは言いつけを守った。それでも、ときどき、なんだか、ふびんに伺うことがある。お医者は、その都度、心を鬼にして、奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、と言外に意味をふくめて叱咤するのだそうである。
八月のおわり、私は美しいものを見た。朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでいると、私の傍に横坐りに坐っていた奥さんが、
「ああ、うれしそうね。」と小声でそっと囁いた。
ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。
「けさ、おゆるしが出たのよ。」奥さんは、また、囁く。
三年、と一口にいっても、――胸が一ぱいになった。年つき経つほど、私には、あの女性の姿が美しく思われる。あれは、お医者の奥さんのさしがねかも知れない。
狐人的読書感想
人間の本能的な部分を美しく爽やかに描いている
さて、いかがでしたでしょうか。
酔っ払っていた、というきっかけがあったとはいえ、いとも容易くお医者さんと仲良くなってしまった「私」、満願成就した女性の姿を美しく感じる感性――なんとなく魅力を感じさせる主人公です。
『満願』は、何気ない日常の風景が、どこか美しく感じられる小説ではないでしょうか? ワンピースを着て、白いパラソルをくるくるっと回す女性の姿は、写真を撮ったらとても絵になるだろうなあ……、と鮮やかにイメージさせられる描写です。
突然ですが、食事は他の命を食らう行為であり、睡眠は惰眠を貪るとも表現されます。
人間の本能的な部分を題材にして、美しさや爽やかさを描くのは、結構難しいように思うのですが(僕だけ?)、太宰治 さんはその点、『満願』の中で見事に表現されていて、唸らされてしまいます。
短く、リズムが良いので、すらすら読めて、とくに疑問も残らず爽快な読後感――と、言いたいところですが、二点ほどちょっと読み解くのが難しい部分がありましたので、綴っておきたいと思います。
『満願』二つの疑問その1「辛抱とお許しとは」
一つは、タイトルにもある『満願』の意味にも通じることです。
「私」が美しいと思った女性は、お医者さんの患者であるところの、小学校の先生の奥さまで、お医者さんはこの女性に「もう少しの辛抱ですよ」と叱咤し、お医者さんの奥さんは「今朝、お許しが出たのよ」と「私」に教えています。
女性は何を辛抱し、何のお許しを得たのか?
まあ、これはあえて言うまでもないことかもしれませんが、夫婦生活のことですよね、きっと。
『満願』は「願望が満たされること」を意味する言葉なので、ラストのこの女性の姿と合致します。
うーん、こう綴ってみると、改めて良いタイトルだなあ、と思わされてしまうのですが。
『満願』二つの疑問その2-1「お許しのこと」
もう一つは、ラストの一行です。
あれは、お医者の奥さんのさしがねかも知れない。
「あれ」とは何を指し、「さしがね(陰から人を操ること)」とは何のことをいっているのか?
複数の解釈ができて、これが正しい解釈だと、確定できないところがあるなあ、と思ってしまったのは、僕だけなのでしょうか?
一応書き残しておきたいと思います。
おそらく一番ストレートな解釈は、「あれ」とはお医者さんの出した「お許し」のことで、この「お許し」がお医者さんの奥さんの「さしがね」だった、というものではないでしょうか。
夫が病気で、辛抱しなければならない若い女性の切ない気持ちを、同じ女性としてとてもよくわかる奥さんのさしがねだったとすると、読者としてもすんなり理解できるように思います。
『満願』二つの疑問その2-2「叱咤すること」
つぎに思ったのは、「あれ」とはお医者さんが「もう少しの辛抱ですよ」と女性を叱咤した行為のことを指し、この行為こそが奥さんの「さしがね」だった、という解釈です。
この根拠は、お医者さんが「善玉悪玉の説」を説く場面で、自身を「善玉」奥さんを「悪玉」に例えている笑い話にあります。
ひょっとしてお医者さんは「まあ、あまり激しくしなければ……」程度に考えていたのを、あえて奥さんが禁止するよう促したのかもしれません。
この構図もまた、お医者さんの説く「お医者さん=善玉」「奥さん=悪玉」の構図に合致します。
この禁止を、女性目線で捉えるならば、夫の肺病の悪化を防ぐためだけでなく、妊娠することで増すであろう女性の負担を、慮る奥さんの意図があったのかもしれない、と読み取れそうです。
ただ、ちょっと引っかかったのは、最後の一行、その前の一行なのです。
年つき経つほど、私には、あの女性の姿が美しく思われる。
この「年つき経つほど」というところに、何か意味があるように感じてしまうのは、僕だけなのでしょうか?
つまり、年つき経つほど……、「私」は美しい女性の姿に深い意味を見出すようになっている、ということなのですが。
『満願』二つの疑問その2-3「奥さんの行動」
そう考えてみると、「あれ」とはお医者さんの奥さんが、毎日ただ新聞を読みに来る「私」を、冷たい麦茶を出して丁寧にもてなし、女性の事情を語って聞かせ、「私」に満願成就した女性の美しい姿を見せるように仕向けた一連の行動の全てを指し、これが「さしがね」だったという解釈も成り立つように思います。
そして、その意図も複数考えられます。
まず、太宰治 さんといえば、私生活は退廃的で、女性関係についてもあまり褒められたものではなかった、というのは有名なお話でしょう。そんな「私」に、一人の相手を想い、その想いが満願する姿を、ある種の戒めとして示しているように捉えることができます。
また、女性にモテモテだった太宰治 さんは、ひょっとしてこの女性を狙っていたのかもしれません(!?)。夫を愛するがゆえに、夫を愛することを耐えねばならなかった女性――自分なら慰めてやれるのに……、といったような邪な心があったとしたら、女性の『満願』の姿は、さぞかし眩しく「私」の目に映ったことでしょう。
作品の時代背景から文学の持つパワーを実感した
さらに、これはちょっと深読みのし過ぎかなあ、と自分でも思わないわけではないのですが。
この『満願』という小説の、どこか牧歌的ともいえる情景に、言いようのない不安感があるように思うのは、はたして僕だけなのでしょうか?
『満願』は1938年(昭和13年)の9月に発表された小説です。国家総動員法が公布されたのはこの年の4月のことでした。
こうした時代背景を鑑みるに、この小説は、どこか現実から目を背けているふうにも感じられて……。
もちろん、それが悪いことだとか言いたいわけではありません。
小説の中の美しい情景に触れて、つらく厳しい現実から逃避する――というのも、一つ文学の持つパワーなんじゃないかなあ、といったようなことを思いました、というお話でした。
以上述べてきた解釈は、主観的なものなので、必ずしもどれが正しいというお話ではありませんが、しかし最後の解釈が正しかったと仮定すると、お医者さんの奥さんの深謀遠慮っぷりには脱帽するしかありません(僕には一番おもしろい読み方でした)。
この読書感想の冒頭で、主人公を魅力的な人物と語りましたが、こうなってくると、真に魅力的な人物は、じつはお医者さんの奥さんだった――となって、やっぱり女性は強し! みたいなお話(?)なのでした。
読書感想まとめ
『満願』二つの疑問。
- 女性は何を辛抱し、何のお許しを得たのか?
夫婦生活
- ラスト一行の解釈。「あれ」とは何を指し、「さしがね」とは何のことをいっているのか?
- お医者さんの「お許し」
- お医者さんが「もう少しの辛抱ですよ」と女性を叱咤した行為
- お医者さんの奥さんの一連の行動
→その意図は「私」への二つの戒め
作品の背景から文学の持つパワーを実感!
そしてやっぱり女性は強し!
狐人的読書メモ
人間の本能的な部分を美しく爽やかに描くということ。とくに短編小説を読んできて感じたこと、想像力で補完する余地をあえて残したほうがおもしろいような気がする……、とはいえ、作品としての完成と未完成のバランスを取るのが難しそう、ということも。
・『満願/太宰治』の概要
1938年(昭和13年)9月、「文筆」にて初出。太宰治 さん作品中期の短編小説。
・簡単服
ワンピースのこと。
以上、『満願/太宰治』の読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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