狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『頭ならびに腹/横光利一』です。
横光利一 さんの『頭ならびに腹』は文字数3000字ほどの短編小説。冒頭のレトリックが有名な作品です。レトリックは「伝えたいことをわかりやすく伝えるための表現技法」。なんでもこれが当時の文壇に大きな衝撃を与えて話題になったのだとか。狐人的には「集団心理」から「ハンター×ハンター」の一場面を彷彿とさせられた作品でした(後述しますが、グリードアイランド(G.I)編の……、わかる方いらっしゃいますか?)。横光利一 さんの小説について読書感想を書くのは、未熟者の僕には少し難しく感じるのですが、それだけに学ぶべきところも多いように思います。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
その特急列車にはたくさんの乗客がいて、横着そうな小僧もその中の一人だった。小僧は、手拭いで頭に鉢巻をすると、窓枠を叩きながら大声で歌い始める。そんな小僧の様子に、人々は笑うも、当人は少しも頓着せず、大胆不敵に歌い続ける。
……やがて人々は、次第に小僧から興味を失っていく。退屈と眠気が車内を包む――そのとき、列車が突然停車する。人々は騒ぎ立つ。そこへ車掌が現れて告げる。線路故障、列車はここより進みません。
人々は一度、停車した駅に降りる。小僧一人だけが無人となった列車の中で歌い続けている。
迂回線の列車が出ることになった。しかし故障線の列車と迂回線の列車――どちらが先に目的地へ到着するかはわからないという。
迷い、動けずにいる乗客たち――すると、一人の肥った紳士が前に進み出る。紳士の腹は、巨万の富と一世の自信を包蔵しているように、すばらしく前に突き出していた。腹の下には一条の金の鎖が光っている。それを見て、一斉に迂回線の振替に殺到する人々。
……しばらくして迂回線の列車は乗客を満載して発車した。
それから間もなく、故障線の復旧が告げられる。特急列車は、鉢巻頭一つを乗せて、全速力で馳け出した。
「ア――
梅よ、
桜よ、
牡丹よ、
桃よ、
さうは
一人で
持ち切れぬ
ヨイヨイ。」
狐人的読書感想
さて、いかがでしたでしょうか。
ぎゅうぎゅう詰めの特急列車と聞けば、やはりお盆休みやお正月などの帰省ラッシュをイメージしますが、たとえば新幹線のあの速度を、「全速力で馳けてゐた」「沿線の小駅は石のやうに黙殺された」といわれると、普通に「全速力で通過した」といわれるよりも、そのスピード感を実感できるように思います。
特急列車と新幹線の違い(いきなり余談でごめんなさい)
とはいえ、新幹線が開業したのは1964年(昭和39年)のことで、横光利一 さんが『頭ならびに腹』を発表したのは1924年(大正13年)のことなので、作中の特急列車は新幹線のことではなさそうです。
ちなみに新幹線と特急列車には、運行システム、レール幅(新幹線のほうが広い)、走行速度(新幹線のほうが早い)、法律(新幹線のみ専用の法律がある)という4点において違いがあるそうです。しかしながら言葉の上では、新幹線も特急に含まれるので、そこがちょっとややこしいですね。
新幹線といえば、先日(2017年2月10日)に行われた日米首脳会談を前に、アメリカのトランプ大統領がこれについて発言したのが取り沙汰されていました。この発言に対して、日本の安倍首相は、高速鉄道計画に関する政策を提示したと見られていて、日本の「鉄道ビジネス」の追い風となるのか、期待が集まるところです。
当時話題となった3つのレトリック(萌えない擬人化も)
ちょっと話が横道に逸れましたが、『頭ならびに腹』では、特急列車のスピード感を表すために、冒頭の一文でレトリックを用いていて、これが新感覚派表現として、当時の文壇に新鮮な驚きを与えたのは前述のとおりですが、レトリックが進歩して、当たり前のように使われている僕ら現代人からしてみると、さほどに感銘を受けることはないかもしれません。
何事においても、発表された当初は真新しく新鮮に感じられても、その技術が普及してしまえば当たり前になってしまう――といったようなことを考えさせられてしまいましたが、これを想像力で補完するのはなかなか難しく思います。パソコン、インターネット、携帯電話、スマートフォン――といった新技術に触れたときの感動を思えば、イメージできないこともない気はしますが(文学でたとえられず……)。
真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
あらすじにも引用した上記冒頭の一文ですが、これには三つのレトリックが用いられています。
すなわち――
- 擬人法(「特別急行列車は・馳けてゐた」「小駅は・黙殺された」)
- 隠喩法(「通過」=「黙殺」)
- 直喩法(「石のように」)
――です。
擬人法(擬人化)については、これまでもいろいろな作品で触れてきましたが、その歴史は古代ギリシャや紀元前1万年の壁画にまで遡って見られるともいわれています。近年の日本では萌え擬人化ブームの訪れなどあって、これはなかなか身近なものといえるのではないでしょうか?
(擬人化の歴史、文豪の擬人化作品についての読書感想も書いています)
また、オノマトペ(擬態語、擬音語、擬声語)もレトリックの一つですね。宮沢賢治 さんや新美南吉 さんの童話などには、印象的なオノマトペが多く見られます。
(オノマトペについての読書感想はこちら)
レトリックは、調べてみると、とてもおもしろく、じっくりと勉強したいテーマです。
集団心理について書いてみるも…(的外れ感が否めない)
突然ですが、乗っている電車が急停止して、「人身事故が発生しました――」といったアナウンスが流れてきて、「振替輸送をご利用ください」という経験はないでしょうか? 遠回りするのと、復旧を待つのと、どちらが早く目的地に到着できるのか、悩んだ経験は?
『頭ならびに腹』の作中でも、同じような事態が持ち上がっています。悩んですぐには動けない乗客たちをよそに、肥った紳士が迂回線の列車に乗ることを選択し、それに他の乗客たちがこぞって続いていく様子が描かれていますが、さきほど例に挙げた「人身事故」のとき、周りの人の反応を見て動く、といった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ここに、集団心理が描写されているように、僕には感じられました。
集団心理とは、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というフレーズがありますが、一人であれば冷静に判断できる物事も、集団になるとそれができず、人につられて危険な、あるいは不合理な行動をとってしまう心理状態を指していいます。
本作のケースでは、さすがに不合理とまではいえませんが、肥った紳士の行動をきっかけにして、多くの人が多数派に流された形といえるのではないでしょうか。
漫画『HUNTER×HUNTER』(ハンター×ハンター)の「グリードアイランド(G.I)編」のプレイヤー選考会にて、開始同時とともに迷わず席を立った者と、慌てず席を立たなかった者に合格の見込みがあり、それ以外の周囲の状況に流されている者がダメ、みたいな話がありました。この場合、合格見込みのある前者が肥った紳士を、後者が小僧を指しているように思います。ただし、この試験ではとあるカラクリがあって、それを見抜いている者たちが、適切な行動をしているだけであって、『頭ならびに腹』の紳士と小僧に、それぞれ深い考えはなかったように見えますが。
……とか、書きながら、だんだんとこれは集団心理は関係ないかもしれないなあ、失敗したなあ――と感じ始めてきたわけなのですが、せっかくここまで書いてしまったので一応(おいおい)。
ま、まあ、集団に流されず、自分の意思を持って行動することは大切ですよね!? ――というお話だったということで(おいおいおいおい)。
作品の意味を解説しようとしてみるも…(いわずもがな)
さて、前項は、この作品の見方としてはちょっと外れていたかもしれませんが。もっと正当な見方をするならば、タイトル『頭ならびに腹』の「頭」は、手拭い鉢巻の小僧の頭を、あるいは他の乗客たちの頭を、「腹」は、肥った紳士の腹を、それぞれ示しているのだと捉えられます。
いかにもお金持ちそうな、また自信ありげな肥った紳士の「腹」は、「お金」や「権威」、「資本主義社会」といったものを象徴しているように見えます。それに追従するかのような乗客たちの「頭」は、資本主義社会で生きる人々を示しているのではないでしょうか。そんな人々の中で、飄々としている小僧だけが自分の道を貫いているようにも映ります。
人々は時間に追われ、お金ばかりを追い求めている――資本主義、近代化が進むにつれて、お金や時間のみがもてはやされる世の中において、決してそれだけではない、人が忘れてはいけない大切な何かを、小僧の頭が体現しているように思います。
それは、集団に流されない自我であるかもしれないし、小僧の歌に象徴されるような精神であるかもしれません。
「ア――
梅よ、
桜よ、
牡丹よ、
桃よ、
さうは
一人で
持ち切れぬ
ヨイヨイ。」
小僧の最後の歌には、そうしたものを大切にしてきた者が、最後には勝つんだ! ――といったような思いのようなものを感じずにはいられなかったわけなのですが、しかし現実的にはどうでしょうねえ……、といった感じです。単純に、ラッキーボーイが独り占めした己の幸運を謳歌している歌だ、と捉えたほうが、いまの現実には即しているようにも思えますが、それじゃダメなんだよ、という気もして、はたして。
読書感想まとめ
横光利一 さんの『頭ならびに腹』は、新幹線(?)と、レトリックと、集団心理と、「人に流されない強さを持とう!」といったようなことを学ばされた小説でした。
狐人的読書メモ
今回は結構的外れなことを書いてしまった感が否めませんが、こんなときもある!(?) ……精進します。
・『頭ならびに腹/横光利一』の概要
1924年(大正13年)、『文藝時代』にて発表された短編小説。冒頭の一文に代表されるレトリックが、当時文学界の話題となった。
・都々逸
七・七・七・五の詩。こういう詩があるのを初めて知りました。厳密には違うと思いますが、小僧の歌に似ているということで、チェック。……なんか技名とかに使えそうな予感。「どどん波!」みたいな……、あるいは「孤孤狸固 」みたいな(中二病とかいわないように)。
以上、『頭ならびに腹/横光利一』の読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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