猿ヶ島/太宰治=夢を追うか、安定を求めるか?社畜か、転職か?

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

猿ヶ島-太宰治-イメージ

今回は『猿ヶ島/太宰治』です。

文字6000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約21分。

私達を見て楽しいか? 私達だって君達を見て楽しいさ。妻は夫のおもちゃか支配者か。女優は舞台と素顔どっちが芝居上手か。家畜が何言ってんだって? 君達だって社畜だろ? うっきっき。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

海を越えて、その島に着いた。「私」は憂愁に沈んでいた。島は深い霧に包まれていた。「私」は島をめぐり歩き、岩山の上の滝口に一本の木を見つけ、そこで「彼」と出会った。

話をする「私」と「彼」。ふたりは同じ日本の出身だった。どうやらここは日本ではないらしい。この島にはたくさんの猿がいる。「彼」はこの木の場所を勝ち取った。ひとりぼっちだが、その木を「私」と「彼」、ふたりの場所にしてもいいと言った。

霧が晴れると、瞳の青い人たちが、流れるようにぞろぞろ歩いていくのが見えた。驚く「私」を「彼」がなだめた。「彼」は、青い目の人たちが自分たちの見世物であり、おもしろいと言ってさまざまに批評する。

人妻は、亭主のおもちゃか、亭主の支配者。学者は、過去の天才に注釈をつけ、いまの天才をたしなめて飯を食ってるおかしなやつ。女優は、舞台よりも素顔のほうが芝居が上手。地主は「自分も労働している」と弁明ばかりして働いた気になっている。……。

「私」はふと、こちらを見つめる子供を見た。何を言っているかわかるか、「私」が「彼」に尋ねると、彼はぎょっとして、沈んだ様子で教えてくれた。

「いつ来て見ても変らない、とほざいたのだよ」

「私」ははっとして知った。「彼」は「私」にウソをついていた。あの人たちは見世物じゃない。「私」たちが見世物なんだ! 「私」は、彼に対する激しい怒り、自分の無知に対する羞恥を感じた。それは見世物にされることへの怒りと羞恥だった。

みんなそれを知らずに生きている。「私」と「彼」だけはそれを知っている。「私」は「逃げる」と彼に言う。「こわくないか」と彼は聞く。ここはいいところだ。日が当たる、木がある、水の音、なにより飯の心配がいらない。

その誘惑は真実だ。それでも「私」は執拗に叫んだ――否!

――1896年、6月なかば、ロンドン博物館附属動物園から、日本猿が脱走した。しかも、1匹ではなく、2匹だった。

狐人的読書感想

すごくおもしろかったです。普通に人間の話だと思って読んでいたので、途中で猿の話だと気づいたときには驚きましたし、島にかかっていた深い霧は「霧の都ロンドン」にかかっていたとは……すごい叙述トリックでした。

猿の話でしたが、普通に人間の話として読んでも、すごく興味深い話ですよね。

(そういう趣旨を含んだ話なのでしょうが)

高校の現代文の教科書に載ったこともあるようで、狐人的にはいいチョイスだと思います。

作中で「私」が言っているのは「家畜として動物園に囚われ、見世物にされる」ことへの怒り、羞恥、悲しみ――不自然な物事に対しての当然の感情だといえそうですね。

愛玩や観賞用の家畜やペットの賛否について単純に語れそうですが、しかしこれ、「人間社会に生きる人間」にも同じことが当てはめられそうで、おそらくそちらに結びつけて考える人のほうが多いような気がします。

現代には「社畜」という言葉があったりします。「会社に飼い慣らされてしまった」と感じている人たちを指す言葉で、自虐的に使っている人が多い印象を持ちます。

(狐人的には「社会に飼い慣らされている人間」を表すのに、「社畜」という言葉がぴったりって気がします……人間という生き物を皮肉る、より大きな意味での自虐になってしまいそうですが……)

低賃金や長時間労働、会社に不満はあっても、現状ごはんが食べられて、趣味に使える時間も少しはあって……そうなるとなかなかよりよい条件の職を探して、転職しようとする気にはなれない、みたいな?

あるいは、夢を追うか、安定を求めるのか、みたいな。

そんな感じに連想してみると、はたして自分は「私」なのか「彼」なのか、とか考えてしまうんですよね。

「私」はそういうことに人並み以上の屈辱感を感じる「行動派タイプの人(猿)」のようで、「彼」は屈辱感は感じていてもいまの安定を捨てる気にまではなれず「現状に甘んじちゃう理論派タイプの人(猿)」ではないでしょうか。

いま、自分は「不満を打開しようと行動しているだろうか?」それとも「何もせず現状に甘んじているんだろうか?」……考えてみると、前者だと言いたいけれど、結果的に後者のなのかな――って気がします。

(みなさんはどうでしょうね?)

何かに不満を持ったとき、それに激しい憤りを覚え、さらに行動できる人はすごいと思いますし、何かを変えてくれるって期待して、ついていきたくなるような――きっと「彼」もそんな感じで「私」についていったのかなぁ……って想像します。

もちろん、行動が必ずしも報われるとは限らず、動物園を脱走した「私」と「彼」がどうなったか、それは誰にもわかりません。

もともとふたりは山で暮らす野生の猿だったようなので、案外動物園を出ても自然に帰って自由にのびのび生きていけたのかもしれませんが、もしも動物園で生まれた猿だったら、自然で生き延びるのは簡単ではないでしょう。

(まあ、普通に考えて……いわずもがな)

そもそも動物園生まれの猿は自然の山とか知らないんですよね。知らなければ不満を感じることもなくて、現状だけに満足して生きていくことができる……無知は本当に恥なのか、本当に知なのか、考えさせられてしまいます。

まあ、動物は、適度な広さのなわばりがあって、命の危険がなくて、適当に遊べて食事ができて、そうやって暮らしていければ「すべて世はこともなし」と言えるのかもしれず、それはひょっとしたら人間だって同じなのかもしれません。

夢を追うか、安定を求めるか。
社畜でいいのか、転職するか。

いろいろ考えさせられた、今回の狐人的読書感想でした。

読書感想まとめ

夢を追うか、安定を求めるか?社畜か、転職か?

狐人的読書メモ

・『進撃の巨人』でこれに近いテーマが扱われていた気がした。「一生壁の中から出られなくても……メシ食って寝てりゃ生きていけるよ…でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか…」ってエレンが言ってた(たぶん)。

・でも、あの世界は、巨人に食べられてしまうという命の危険があるから、より立ち上がりやすい環境だったということは言えるのかもしれない。

・人が行動するには何か強い理由や動機が必要なんだ! って話。

・もっと大きな視野でみれば、現在のところ生物は地球の中でしか生きられない。結局みんな何かしらに縛られて生きているのだと、いえるのではなかろうか。

・『猿ヶ島/太宰治』の概要

1935年(昭和10年)『文學界』にて初出。初期短編集『晩年』収録作。文壇への批判、太宰自身の生き方とその姿勢、作品の象徴性をどのように読むか、興味深い小説。単純にミステリー的に読んでもおもしろい。

以上、『猿ヶ島/太宰治』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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