狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『土神と狐/宮沢賢治』です。
文字数10000字ほどの童話。
狐人的読書時間は約25分。
美しい樺の木を巡る土神と狐の葛藤。
仲良し3人組でも
「どちらかといえば」〇〇のほうが好き、
ってことある?
男女の友情は成立する、って思う?
ウソが1番苦しめるのは自分?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
ある野原の丘には美しい女の樺の木があった。彼女にはふたりの友達がいた。ひとりは土神で、もうひとりは狐だ。
土神は乱暴で、がさつで、髪もボロボロで汚かった。狐は穏やかで、賢くて、上品だった。樺の木はどちらかといえば狐のほうが好きだった。
しかしよく二人を見比べた場合、土神のほうが正直で、狐は少しばかり不正直だったかもしれない――。
夏のはじめのある晩、樺の木と狐は星空を見上げながら話をしていた。狐は天体について詳しく、樺の木の質問にスマートに答えていた。
狐は、いまちょうど望遠鏡を取り寄せていることを樺の木に話し、今度持ってきて星を見せてあげましょうと言う。樺の木は無邪気にそれを喜ぶ。
しかしそれは狐のウソで、狐はウソをついたことを後ろめたく思うが、相手を喜ばせようとしただけ、あとで本当のことを話せばいい、と自分自身を納得させる。
翌朝、土神が樺の木を訪ねる。土神は雑談の中でふと日頃疑問に思っていることを口にするのだが、樺の木は昨夜の狐の博識ぶりを思い出し、うっかり「狐さんに聞いてみたらいかがでしょう?」と漏らしてしまう。土神の顔色が変わる。
土神は怒って棲み処に帰る。そして考える。
自分は神なのに誰も自分を顧みてくれない、樺の木だって狐のことばかり、一番悪いのは狐だ、どうして神である自分が狐などを気にかけねばならんのか、樺の木を気にしなければ狐などなおさらどうでもよくなるはずだ、しかしどうしても樺の木を忘れることができない……。
八月のある晩、土神は何ともいえないさびしさを感じて樺の木のところへ向かう。すると樺の木と狐が楽しそうに話しているのを見てしまう。
狐の書斎にはたくさんの本、顕微鏡、ロンドンタイムス――望遠鏡はまだきませんが、今度必ずお目にかけます。
土神は一目散に走り出し、泣き疲れると棲み処に帰った。
秋になると、土神の心に変化が訪れる。不思議と意地の悪い考えも浮かんではこない。樺の木と狐のことを受け入れよう。
土神は樺の木のところへ行って気軽に挨拶をした。そこに狐がやってきた。狐は上機嫌で挨拶をする土神を妬ましく思い、土神に挨拶も返さず踵を返す。土神は急に言い知れぬ怒りを感じて狐のあとを追う。
狐はどうにか自分の棲み処まで逃げたが、結局土神に捕まってしまい、その命を奪われてしまう。我に返った土神は、狐の巣穴を見て言葉を失う。
見えるのはただ土壁ばかり、巣穴の中はがらんとしていた。ぐったり横たわる狐のコートのポケットには、ただカモガヤの穂が二本入っているばかり……。
狐も自分と同じだった。
何も持っていやしなかったのだ。
土神は泣いた。
狐は笑っていた。
まるで自分を笑うかのように。
狐人的読書感想
おもしろかったです。これまでに読んできた宮沢賢治作品の中でもトップクラスにおもしろかったような気がしています。
ひとりの女性(樺の木)を巡るふたりの男性(土神と狐)の葛藤というのは、現代の小説、マンガ、映画などでもよく見られる構図ですよね。
ふたりの男性が親友同士だったりするとなおさら熱いシチュエーションです。
「男女の友情は成立しない」などといわれて、けっこうそう思ってる人多いんじゃないかな、などと思っていたのですが、調べてみると男女ともに8割くらいが「男女の友情は成立する」と回答しているアンケート調査の結果を見つけて、ちょっと驚いてしまいました。
『土神と狐』は男女の三角関係、恋愛における苦悩を描いた作品とみなされているようですが、樺の木・土神・狐とそれぞれ擬人化されている影響でしょうか、僕はあまり恋愛要素を感じられませんでした。
むしろ単純に友人関係を描いているように思えました。
人が3人集まって、みんなで仲良くできればそれに越したことはないわけですが、実際の人間関係でそんなことは稀なような気がしています。
仲良し3人組みたいなグループになっても、樺の木が「どちらかといえば」狐が好きだったように、実際の友情関係でも同じようなことが言えるんじゃなかろうか、などとひねくれたことを考えてしまいます。
どっちも同じくらい好き、なんてことが現実にありえるのかな、と穿った見方をしてしまいます。どうしてもふたりの友達を比べてしまって、「どちらかといえば」〇〇のほうが好きということは誰にでも言えるのではなかろうかと勘ぐってしまうのです。
「どちらかといえば」というところがポイントですよね。
ふたりとも嫌いなわけじゃないんだけれど「どちらかといえば」……、ということは誰にでも言えるんじゃなかろうか、などと考えてしまうあたり、ああ僕はほんとうにだめなやつだ、などと狐と同じように思ってしまいます。
そんな感じで(?)、狐と土神の葛藤はとてもリアルな心情で、この作品の大きな見どころとなっています。
狐は樺の木(友達)の気を引くために、本来の自分を偽り、望遠鏡やたくさんの本を持っているとウソをつき、そのことをうしろめたく思いつつも、「他人を喜ばせようと思って言ったこと」だと自分に言い訳をしています。
このあたりはすごく共感してしまいました。
友達の気を引くために、物で釣ろうとしてしまうことって、けっこう誰にでも経験があるんじゃないですかね?(ひょっとして僕だけ?)
ウソをつくことは基本的にはよくないことですが、「やさしいウソ」とか「人を傷つけないウソ」だとかいわれるように、ときには必要なウソというのもある気がするんですよね。
とはいえ狐の場合には「必要なウソ」だったとまではいえず、しかしながら悪気がなかったというところは充分に理解できて、まあ樺の木もこのくらいなら許容してくれるかな、とは思います。
しかしいくら相手が許してくれるかもしれないと思えたとしても、ウソをついたときの罪悪感ってけっこう苦しいですよね。
しかも時間が経つほど言い出しずらくなってしまって、そのウソを塗り固めるためにさらなるウソをついてしまい、また罪悪感に苛まれて――みたいな負のスパイラルを思うとやっぱりウソはいけないなあ、などと再認識させられてしまいます。
そして土神の葛藤にはもっと共感を抱きました。
好きな友達には自分を一番好きになってほしい、みたいな感情ってなんなんでしょうね?
執着心とでもいうのでしょうか、正直そんなものなくなってほしいと願わずにはいられないときがあります。
何事においても執着心を持たなければ、もっと楽に生きられるのではないか、と思う場面がけっこうあるんですよね。
『誰だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ』と土神が言う場面があるのですが、まさにそのとおりだと思わされてしまいます。
常に平常心を心がけたいと思うのですが、これほど難しいこともないと思うんですよねえ。
全然怒らない人を見ると本当にすごいなと感じるのですが、よく考えてみると怒っていないわけではなくて、怒っているのを表に出さないようにしているわけで、それはなおさらすごいことのようにいつも感じてしまいます。
土神も一度は心を入れ替えることができたかに見えましたが、結局衝動的に行動した結果過ちを犯してしまいました。
似た者同士だった土神と狐は、何かちょっとした違いで友達になれたんじゃないか、ということはどうしても考えてしまいますね。
あのとき、狐が妬ましさのあまり土神を無視しなければ、樺の木と土神と狐と、本当の仲良し3人組として楽しくやっていけたんじゃないかな、などと想像してみると残念な結末に思ってしまいます。
ウソをつかないこと、執着心を捨てること、衝動的に行動しないこと、人間関係に大切なことを教えてくれた童話でした。
読書感想まとめ
ウソをつかないこと、
執着心を捨てること、
衝動的に行動しないこと。
狐人的読書メモ
じつは一読では「二本のカモガヤの穂」の意味がわからなかった。まだまだ読解力が足りない。読んでみると当然のように共感できる人間の葛藤は、自分で書いてみようとすると驚くほどに書けない。まだまだ勉強が足りない。
・『土神と狐/宮沢賢治』の概要
1934年、宮沢賢治の亡くなった翌年に発表された作品。悲劇的。人間の男女を擬人化して三角関係を描いている。狐人的にはあまり恋愛を感じられず、むしろ友達関係について思わされるところが大きかった。いまのところ読んだ宮沢賢治作品の中ではトップクラスにお気に入りの作品。
以上、『土神と狐/宮沢賢治』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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