鵜飼/横光利一=人と神と運命と…鵜飼は運命論…つまり鵜命論?

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

鵜飼-横光利一-イメージ

今回は『鵜飼/横光利一』です。

文字数1700字ほどの随筆。
狐人的読書時間は約6分。

魚を丸のみにする鵜の首に綱をつないで、漁夫がそれを操る漁法の一つ。鵜は人、漁夫は神、綱は運命を表していて…これは横光利一の運命論?鵜は綱に首を絞められるしかないのか、あるいは…

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

(今回は全文です)

『鵜飼/横光利一』

どこかで計画しているだろうと思うようなこと、想像で計り知られるようなこと、実際これはこうなる、あれはああなると思うような何んでもない、簡単なことが渦巻き返して来ると、ルーレットの盤の停止点を見詰めるように、停るまでは動きが分らなくなるという魔力に人はかかってしまう。動くのと停るのと、どこでどんなに違うのかと思う暇もなく、停ると同時に早や次の運動が波立ち上り巻き返す――これは鵜飼の舟が矢のように下ってくる篝火の下で、演じられた光景を見たときも感じたことだが、一人のものが十二羽の鵜の首を縛った綱を握り、水流の波紋と闘いつつ、それぞれに競い合う本能的な力の乱れを捌き下る、間断のない注意力で鮎を漁る熟練のさ中で、ふと私は流れる人生の火を見た思いになり遠く行き過ぎてしまった篝火の後の闇に没し、手さぐりながらまた考えた。思想の体系が一つの物体と化して撃ち合う今世紀の音響というものは、このように爆薬の音響と等しくなったということは、この度が初めでありまた最後ではないだろうかと。それぞれ人人は何らかの思想の体系の中に自分を編入したり、されたりしたことを意識しているにちがいない現在、――いかなるものも、自分が戦争に関係がないと云えたものなど一人もいない現在の宿命の中で、何を考え、何の不平を云おうとしているのであろうか。鵜のように人人の首に締った綱を握っているものは世界でただ一人である。また、このものは誰かということも、誰も知ることなど出来る筈はない。合理がこれを動かすのか、非合理がこれを動かすのかそれさえ分らぬ。ただ分っていることは、人人は神を信じるか、それとも自分の頭を信じるかという難問のうちの、一つを選ぶ能力に頼るだけである。他の文句など全く不必要なこんなときでも、まだ何とかかとか人は云い出す運動体だということ、停ったかと思うと直ちに動き出すこのルーレットが、どの人間の中にも一つずつあるという鵜飼い――およそ誰でも、自分が鵜であるか、鵜の首を握っている漁夫であるか考えるにちがいない人間の世界で、秘密はただ一つ、綱にあるということを私は見て来た。綱は漁夫でもなければ鵜でもない。その二つをつなぐものである。この綱は二本の繊維素で出来ている所謂いわゆる綱であり、この綱は捻じれたままの方向に捻じればますます強くなるだけだが、一たび逆に捻じれば直ちに断ち切れ、鵜の首を自由にしてその生命を救う仕掛けを持った綱であった。

私は物の運動というものの理想を鵜飼で初めて見たと思ったが、綱を切る切らぬの判断は、鵜を使う漁夫の手にあるのもまた知った。私は世界の運動を鵜飼と同様だとは思わないが、急流を下り競いながら、獲物を捕る動作を赤赤と照す篝火の円光を眼にすると、その火の中を貫いてなお灼かれず、しなやかに揺れたわみ、張り切りつつ錯綜する綱の動きもまた、世界の運動の法則とどことなく似ているものを感じた。

世界は鵜飼の遊楽か、鮎を捕る生業かということよりも、その楽しさと後の寂しさとの沈みゆくところ、自らそれぞれ自分の胸に帰って来るという、得も云われぬ動と静との結婚の祭りを、私はただ合掌するばかりに眺めただけだ。一度、人は心から自分の手の平を合して見るが良い。とどの詰りはそれより無く、もし有ったところで、それは物があるということだけかも知れぬ。人人の認識というものはただ見たことだけだ。雑念はすべて誤りという不可思議な中で、しきりに人は思わねばならぬ。思いを殺し、腰蓑の鋭さに水滴を弾いて、夢、まぼろしのごとく闇から来り、闇に没してゆく鵜飼の灯の燃え流れる瞬間の美しさ、儚なさの通過する舞台で、私らの舟も舷舷相摩すきしみを立て、競り合い揺れ合い鵜飼の後を追う。目的を問う愚もなさず、過去を眺める弱さもない。ただ一点を見詰めた感覚のつば競り合いに身を任せて、停止するところまで行くのである。未来は鵜の描く猛猛たけだけしい緊張の態勢にあって、やがて口から吐き流れる無数の鮎の銀線が火に映る。私は翌日鵜匠から鵜をあやつった綱を貰ったが、火にもやけぬこの綱は、逆に捻じればぽろりと切れた。この微妙な考案力はどこから来たのかいまだに私は不思議である。

3狐人的読書感想

……ふ~む。横光利一さんが、運命というものについて、ルーレットや鵜飼を例に語っている随筆なんですかね?

なんだか興味深いことをいっていることだけはわかるのですが、それを的確につかむことはできなかったように思います。

(漠然とした調子で書くことで、運命とは適確にとらえることのできないものであると、そこまで表現されているのだとしたら、なんか凄いという気もしますが、そもそもはっきりしない概念について書いたら、自然とそうなるのかと思えば、それもそうなんですかねえ……むずかしい、というか、ただ僕の読解力不足?)

ともあれ、僕が感じたように、もしもこの作品が運命について書かれているのだとしたら、ルーレットや鵜飼の例示は案外的を射ているような印象を受けます。

ルーレットが回っているとき、すなわち運命が動いているとき、いかに人がそれを一所懸命眺めていても、ボールがポケットに入るまでは、誰にもその数字はわかりません。

これはまさに運命を言い表すのに最適なツールで、ひょっとするとどこかで似たような話を聞いたことがあるのかもしれません(思い出せませんが)。

しかし鵜飼については、いままでに聞いたことのない、独創的な発想で、しかもなんとなく実感しやすい気がしているんですよね。

そもそも鵜飼とは、鵜という魚を丸のみにする鳥に綱をつけて操り、鮎などの魚を獲る漁法を指しています。

なんでも鵜は、のどの圧力で魚を一瞬で失神させるため、釣りのように魚が暴れたりして味が落ちることがないんだそうで、中国や日本といったアジアでは漁、ヨーロッパではスポーツとして、鵜飼は古くから行われていたのだといいます。

横光利一さんは鵜飼をする様子、一人が十二羽の綱を操って鳥たちの本能的な力の乱れを制御し、さらに暗闇の中、舟の先に赤々と燃えるかがり火に、人生の火を見た思いになった――と書かれていて、たしかに運命とか人生とかを、イメージできるように感じるんですよね。

たぶんですが、鵜を人間として、鵜の首に締まった綱を握る漁夫を神として、そして鵜(人間)と漁夫(神)とをつなぐ綱を運命としてとらえるならば、たしかに何かしっくりくるものがあります。

『人人は神を信じるか、それとも自分の頭を信じるか』というフレーズが印象に残っていますが、たしかにこれはむずかしい命題のように、僕も思っています。

人は運命には逆らえないともいうし、人は自らの手で運命を変えることができるともいいますよね。この2つは対照的で典型的な、運命についての見方だと思いますが、どちらを信じるかは人によってけっこう差が出るのではないでしょうか?

やっぱり運命には抗えなかったという人もいれば、自分の能力ひとつで運命を切り開いてきたという人もいて――狐人的な現実の実感としては前者のほうが多いような気がしてしまいますね(青年マンガ的な実感は前者で、少年マンガ的な実感は後者が多いような気がしてしまいますね-?-)。

鵜飼の綱(運命)というものは、捻じれた方向に締めれば鵜(人間)の首を強く絞めることができ、また逆に捻じれば簡単に綱を断ち切ることができるそうです。

そして、それは漁夫(神)の手によって握られていると書かれていることから、横光利一さんはこの作品で前者の、すなわち「人は運命には逆らえない」ということを描いているのだと思います。

(こうした「抗いようのない運命」というものについては、中島敦さんの『牛人』とか、国木田独歩さんの『運命論者』に描かれていた運命を、狐人的には思い起こすんですよね……他にもこれが描かれている作品はたくさんあるのですが、ぱっと出てくるものとして)

しかしながら、もしも鵜が水中で体を(頭を)上手く捻れば、綱を自分の手で断ち切ることもできるのではなかろうか、などと想像してみると、そこに運命に抗う人の姿を、見ることができるようにも思えるのですが、これは作品には描かれていない、僕の勝手な思い込みであるかもしれません。

「世界は鵜飼の遊楽か、鮎を捕る生業か……」と始まる最後の件は、人はどのように運命を見つめるべきか、ということについて書かれているように感じられましたが、自分の手の平を合わしてみても、僕にはそれがまったくわからないのですが、横光利一さんには見えていたんですかねえ……、なんだかポジティブっぽいことが書かれているような気はするのですが。

またいつかこの作品を読み直してみて、そのとき最後の実感を得られるような生き方をしてこれたならいいなと思いましたが、いまのぼくにはそれがなかなかにむずかしく感じられてしまう、今回の読書感想でした。

読書感想まとめ

横光利一の鵜命論うんめいろん

狐人的読書メモ

・『人人の認識というものはただ見たことだけだ。』という一文もまた印象に残っている。たしかに人間は見たもの、触れたもの、感じたものを信じるしかないのだろうが、それも突き詰めれば脳を流れる電気信号に過ぎない。体が眠っていても、あるいは体がなくとも、脳に電気信号を送るだけで、生を実感できる世界が、やがて訪れるのではなかろうか――なんてSFっぽいことを考えてしまっただけの話。

・『鵜飼/横光利一』の概要。

初出不明。『日本の名随筆2 鳥』(作品社、1983-昭和58-年)収録。横光利一の運命論か? 正直あんまり自信はない。

以上、『鵜飼/横光利一』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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