狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『お菓子の大舞踏会/夢野久作』です。
文字数2500字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約7分。
親の言うことを聞かず、
お菓子を食べ過ぎた五郎君のお腹に異変が。
文豪にはお菓子好きが多いのをご存知ですか?
人間は痛い目をみないとわからない、
だけど痛い目はみたくない。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
五郎君はお菓子が大好きで、ごはんも食べずにお菓子ばかり食べていた。すると両親は五郎君を心配して、ある日家中のお菓子をすべて処分してしまった。
五郎君は泣きわめいた。しかしどうにもならなかった。ついに怒ってごはんも食べずに寝てしまった。
翌日は学校が休みだったので、いまだ怒りの収まらない五郎君は朝ごはんになってもふて寝していた。両親はそんな五郎君を放っておいてそれぞれに出かけて行った。
しばらくすると郵便が届いた。五郎君が受け取ると、それはお菓子の詰め合わせだった。もちろん全部食べた後、五郎君は空箱や包み紙を見つからないよう家の裏に捨てて何食わぬ顔で布団の中にもぐり込んだ。
なんだか苦しくなって、五郎君が目を開けると、あたりは真っ暗になっていた。その暗闇の中に、ドロップ、ミンツ、キャラメル、チョコレート、ウエハース、ワッフル、ドーナツ、ケーキ――先程食べたお菓子たちが、擬人化して大勢居並んでいるのがはっきりと見えた。
「こんなに大勢のお菓子がお腹の中で一堂に会したことはない」と言って、お菓子たちはみんないっせいに踊り出した。
五郎君がお腹の痛みに目を覚ますと、時刻はまだお昼過ぎで、おかあさんが心配そうにしていた。すぐにお医者さんが呼ばれた。
お医者さんは「これからは決してお菓子を食べ過ぎてはいけません」という言葉と、苦い薬を置いていった。
以来、五郎君はお菓子を欲しがらなくなった。
狐人的読書感想
キャラメルと飴玉の些細な口論から始まり、まわりのお菓子たちをつぎつぎと巻き込んで大戦争が勃発し、最後愚かなお菓子たちに裁きの鉄槌を下すのは神か(?)、あるいは――という同じく夢野久作さんの「九州日報シリーズ」に『キャラメルと飴玉』という掌編があるのですが、夢野久作さん、お菓子好きだったのかなあ、と思いました(……どんな感想だよ、ですが、汗)。
タイトルで検索してみたら『デスノート』のLの画像が出てきたのが狐人的にウケましたが、お菓子好きの名探偵についてはわかりませんが、お菓子好きな文豪というのはけっこういらっしゃいます(有名なお話かもしれませんが)。
夏目漱石さんはおしるこ、ようかん、駄菓子、とくにアイスクリームが大好物だったそうで、家には業務用のアイスクリーム製造機を設置していたほどだったとか。
芥川龍之介さんは『しるこ』という随筆を残しているほどの甘党だったそうですし、江戸川乱歩さんは「じょうよ饅頭」が好物でこれは現在でもおみやげとして人気なのだそうです(……そういえば、『文豪ストレイドッグス』の江戸川乱歩さんも駄菓子が好きでしたね、実際の甘いもの好きを反映しているのでしょうか?)。
気になったので調べてみたのですが、夢野久作さんもやはり甘党だったそうで、長男・杉山龍丸さんの回想録『わが父・夢野久作』には「しるこ、ぜんざい、ぼたもちなどは大鍋に作っても一人で食べてしまう」ほどの甘党だったことが記されています。
――と、毎度のごとく内容には関係のない、文豪雑学をほとばしらせてしまいましたが、『お菓子の大舞踏会』の内容は至ってシンプルです。
「人間は痛い目をみないとわからない」
――ということではないかなあ、と僕は読み取ったのですが、いかがでしょうか?(当然ながらほかの読み方もできるとは思いますが)
主人公の五郎君が親の言うことも聞かずにお菓子を食べ過ぎてしまい、その結果激しい腹痛に襲われて、それからお菓子を欲しがらなくなった、という「人間は痛い目をみないとわからない」教訓話で、まさに子供に読み聞かせるのにぴったりの作品ですが、ひねくれものの僕はこれ、大人の人に読んでほしいと、ついつい思ってしまいました。一部の大人の人に、ということなのですが。
最近多過ぎませんかねえ……、政治家の方々の不祥事とか問題発言。
そういったニュースを見ていていつも思うことは、この人たちはエリートと呼ばれる人たちで、本当につらいこととか、本当に苦しいこととか、本当の挫折だとか、本当に痛い目をみたことがないのかなあ、ということです。
ある意味自分という者を犠牲にしてでも、国民という他人のために働きたいと志して政治家になった人たちの発言だとは感じられないほどに、自分本位な言動が目立っているような気がしてしまいます。
政治にはお金がかかり、政治家になるにもお金がかかり、だから本当に人の痛みを知るような境遇にある人というのは、なかなか政治家にはなれないもので、これはずっと昔からそういうことなのかもしれませんが、そういったニュースを見るたびに痛感させられることなのです。
ただしここまで書いていてなんなのですが、同時にこういうことを考えてしまう自分にも矛盾を感じてしまうのです。
そこまで思ってるんだったら自分が政治家になって、腐り切った政治の世界を変えてみればいいじゃないか、少なくともその努力をすべきじゃないか、ということを思わされるのですが、そこまでの気概も能力もなく、だったら言う資格もないのかなあ、とか考えてしまいます。
さきほど偉そうに言った「人の痛み」についてだって、自分がどこまで理解できているのだろうか、と考えてみれば、「僕は人の痛みがわかるし、人の痛みをまず考えての言動を心がけている!」とは自信を持って言えないところがあります。
もちろん心がけているつもりですが、知らず知らずのうちに人を傷つけてしまっていることだってあります(正確にはそのことにさえ気づいていないこともあると思うわけで、知らず知らずのうちに人を傷つけてしまっていることだってあると思います)。
そしてこのことは、何も不祥事政治家の方々ばかりではなくて、凶悪犯罪を犯してしまう犯罪者の方々などにもいえることではないでしょうか?
平和な現代日本、人と人とのつながりが希薄化してきている現代日本だからこそ、人の痛みを知るための「痛い目をみる」機会というのは減ってきているように思い、そのことが人を傷つけるような凶悪犯罪にも通じているような気がします。
とはいえ、痛いのはいやだし、痛い目をみるのは誰だっていやなものですよね。
さらに、現実に痛い目にあって、メタメタに打ちのめされて、そこから立ち直って人にやさしくできる自分になれれば、結果的にはよかったといえるのかもしれませんが、そうなる保証はどこにもありませんし。
メタメタに打ちのめされたまま、立ち直ることもできず、それこそ凶悪犯罪に走ってしまったり、失意のうちに人生を終えてしまったり……、そういうことを想像してみると、本当の本当に痛い目をみるのも考えものだなあ、という気がしてきます。
だからこそ読書で、疑似的に痛い目をみて、それを教訓として人にやさしく生きられればいいなあ、とか考えるのですが、しかし結局現実の傷を伴わない痛みがどこまで有効なのか、とか問われてしまえば、僕もそれには疑義を呈さざるを得ません。
では現実に、人に痛みを与えて教訓とするために、どの程度の痛みが有効的で、人が絶望から立ち直ることができる範囲はどこまでの痛みなのか――みたいな、そんなことまで考慮して人に痛みを与えたり与えられたりすることは不可能ですし、いうまでもなくすべきことではないでしょう。
痛い目にはあいたくない、だけど痛い目にあわないと本当に人にはやさしくなれないのかもしれない、けれど痛い目にあったとしてそこから立ち直り人にやさしくなれる保証はどこにもない……。
どうしたらいいんでしょうねえ……(とかいわれてもねえ……)。
読書感想まとめ
最初は文豪雑学をひけらかそうと思っていただけなのに、なんだかとてもとても考えさせられてしまった作品でした。
狐人的読書メモ
さらに、人間は痛い目をみても懲りないし、すぐに忘れてしまうということも考慮すべきだったかもしれない――傷かぬうちに、傷つかぬままに、傷つけていなければ、よいのですが。
・『お菓子の大舞踏会/夢野久作』の概要
1923年(大正12年)『九州日報』にて初出。九州日報シリーズ。初出時の署名は「海若藍平」。人間は痛い目をみないとわからない。子供にも大人にも読んでほしい教訓が含まれている(ように感じた)。
以上、『お菓子の大舞踏会/夢野久作』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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