悟浄歎異/中島敦=傷つくことをおそれずに人と接してみようということ。

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

悟浄歎異-中島敦-イメージ

今回は『悟浄ごじょう歎異たんに/中島敦』です。

文字数15000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約48分。

『悟浄歎異』というよりも『悟浄讃美』。

悟浄がとにかく悟空を褒めちぎります。
悟空のように、また悟浄のようになりたいと思いました。

傷つくことをおそれずに人と接してみようということ。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

三蔵一行に加わって、いよいよ流沙河りゅうさがを出た沙悟浄さごじょう。悟浄は旅の途中、個性的な仲間たちそれぞれについて考察する。

孫悟空は天才だ。まぬけな猿面も立派だと感じさせるほどに。彼は生命力に溢れている。自分にも他人にも嘘がつけない。この男の中には常に火が燃えている。豊かで激しい火はすぐに傍らにいる者に移る。外の世界に意味を与える。我々にとっては何の変哲もない日常が、悟空にとってはすばらしい冒険の端緒となる。毎日の日の出さえ、彼はそれをはじめて見る者の驚嘆をもってその美に感じ入る。

普段は無邪気だが闘いになればそのなんと強いことか。たとえば牛魔王との一戦。それは助太刀をためらうほどの闘いだった。孫行者そんぎょうじゃの負ける心配がない、という気持ちからではなくて、それは完全なる名画の上から拙い筆を加えるのを恥じる気持ちからだ、とでもいえばもっとも適切なように悟浄は思う。

平穏無事なときはおかしいほどしょげている。が、困難な現実に直面したとき、悟空にはその困難な現実が最短ルートが引かれた地図に映るらしい。迷いなく目的地まで一直線に突き進んでいく。

悟空は読み書きができない。動物・植物・天文の知識はかなりのものである。動物であれば一目でその性質と強さを見抜き、薬草と毒草をよく見分け、星によって方角や時刻や季節を正確に知る。悟浄は星の名前をことごとく知っていながら、実物を見分けることのできない己との違いを思う。

猿は人真似ひとまねをするが悟空はそんなことはしない。むしろ自分が納得しなければ、どんなに古くから万人に認められる考えであっても、頑として受け付けない。決して過去を語らず、いまをいきいきと生きている。そんな悟空をまずは規範にしたいと悟浄はひそかに考えている。

三蔵法師は不思議な方だ。驚くほどに弱い。しかしすべてをあるがままに受け入れること、己の哀れさととうとさとをハッキリと悟っている。みなその悲劇性に惹かれている。とくに動的な悟空と静的な三蔵のふたりの関係性は興味深い。互いに敬愛し合っていて、しかしてその明確な理由を互いに理解していない。まったく違うふたりだが、静と動の本質的な部分については同じだということに悟浄は気づいている。それはダイヤモンドと炭とが同じ物質からできているのと同じことなのだ。

猪八戒は享楽主義者である。天竺に行っても、仙人のように霞みを食べるのはごめんだ、焼き肉を食う楽しみがないと生きる意味がないと平然と言う。だが、悟浄は彼の中にもある種の真理を垣間見る。夏の木蔭こかげの午睡、渓流の水浴、月夜の吹笛すいてき、春暁の朝寐あさね、冬夜の炉辺歓談、……。この世の楽しみを挙げさせれば切りがなく、八戒ほど生きることを楽しんでいる者はほかにいない。楽しむにも才能が要ることに気づき、以来悟浄は彼を軽蔑するのをやめた。

猪八戒の享楽主義の底には不気味な影が見られる。だがそれを気にするのはいまはやめよう。とにかくいまは悟空からすべてを学ばなければならない。三蔵法師の智慧ちえや八戒の生き方については、孫行者を卒業してからだ――。

今夜は野宿、山の夜気はさすがに寒く、木の葉の隙間から覗く星を見上げて、悟浄はひどい寂しさを覚える。が、師父の寝顔を見、仲間たちの寝息を聞いていると、心の奥にポッと点る温かさを感じる。

沙悟浄の、三蔵一行の旅は続く……。

狐人的読書感想

キャラクターCD 最遊記~沙悟浄~

前回の『悟浄出世』に続いて今回は『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』を読んでみましたが、やっぱり中島敦さんの『わが西遊記』はおもしろいですね。おもしろすぎます。

「悟浄、悟空褒めすぎ」

――とか思ってしまい、作品タイトルも『悟浄歎異』というよりも『悟浄讃美』といった感じで、とにかく悟浄が仲間たち(とくに悟空)を褒めちぎります。そしてそんな褒め悟浄がすてきです。

「歎異」という言葉は、現在では聞きなれないもののように思いますが、読んで字のごとく「異議・異端」といったものを「嘆く」意味があるそうです。

日本の仏教書に『歎異抄たんにしょう』というものがあって、これは親鸞さんが没した後の浄土真宗教団内部において、師説(親鸞さんの教え)に背く異議・異端がいろいろと湧き上がり、そのことを批判し嘆いている内容となっています。

前作『悟浄出世』でその思考派っぷり、鬱っぷりを披露した悟浄も、最後には何かを吹っ切れたように見受けられましたが、今作でもインテリ的な思考は健在で、一人称視点になっているあたり、悟浄のキャラクターがより感じられて、狐人的には共感できる部分や唸らされるところがとてもたくさんありました。

今作でも相変わらず思考派っぷりは健在でしたが、「鬱」についてはだいぶ鳴りを潜めていたように思いました(やはり前作の経験からくるものだと思いますが)。――というか非常に前向きです。

悟空のいいところを独自の語り口でひとつひとつ上げ連ね、そこから学ぼうとする悟浄の姿勢はすばらしいものだと感じました。

自分に足りないものがあると自覚しているからこそ、ひとのいいところが見つけられて、そこから学び取ろうとする悟浄の態度はとても見習いたいものです。

もちろん悟浄の仲間である孫悟空、三蔵法師、猪八戒はみないずれも傑物といえる人物(うちふたりは妖怪)ですが、「自分の至らなさ」というものを自覚することで、きっとどんなひとからだって学ぶべきいいところを見つけられるのだと思いました。

僕もぜひそんな人に(狐人だけに妖怪に?)なりたいものですが、現実はなかなかうまくいかないということを実感する毎日です。

ラストほうに悟浄が、他者との関係の仕方について、自省している部分があるのですが、おそらくこれが今回悟浄の悟ったいちばん大きな教訓であり、僕としても今回の読書でもっとも思わされた部分だったので以下に引用しておきます。

八戒はいつもすごしたりなまけたり化けそこなったりして、怒られどおしである。俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていて彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。こんなことではいつまでっても学べるわけがない。もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどんしかられなぐられののしられ、こちらからも罵り返して、身をもってあのさるからすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。

これは人との付き合い方について、とても重要なことをいっているのだと、僕は感じました(会社や学校や家庭や――最近は怒られる機会がなくなったという話を聞いて、そちらのことも思いましたが、以下はそれとは別の話です)。

いまやご存知の方も多いと思う心理学用語に「ヤマアラシのジレンマ」というものがあります。これは、近寄りすぎると自分の針毛で相手を傷つけてしまうので、互いにうまく近づくことができないという、ドイツの哲学者ショーペンハウアーさんのヤマアラシの寓話からきている言葉です。

まさに上の引用からは、このことを思わされてしまいます。

人と人との心の距離の取り方というのは非常に難しいもののように感じます。相手を傷つけないために、離れていったり、あるいは自分自身を傷つけてしまったりするひとは、「本当にやさしい人」だといわれたりすることもありますが、僕としてはやはり悟浄と同じように、「自分が傷つきたくないから相手に近づかないだけなのだ」という思いのほうが強いです。

実際に殴ったり殴られたりといった、少年漫画的な展開になることは現実にはあまりないように思いますが、それでもちょっとした一言で知らないうちに相手を怒らせてしまったり、傷つけてしまったりして、その結果無視されたり、距離を置かれてしまったりするようなことは往々にしてある、という気がします。

そうなることが怖くて、仲良くしたくても不用意には近づかない……、自分からは話しかけない……、誰にも話しかけられないような空気を出してしまう……。

それじゃダメだと思ってはみても、なかなか直せないところが始末に負えないのですが、それじゃダメだと思えるときはまだいいほうで、鬱々とした気持ちのときなどはそう思うことさえなかなかできず、誰も話してくれないのは相手が悪いのだと決めつけて、自分のうちにひきこもってしまう……。

気分が澄んでいるときに、ふとこのことを考えてみれば、明らかに自分のひとと接する態度にこそ問題があるのだと気づけるのですが、そう思えばまた気分が沈み込んでしまい、そうなりたくないから考えないようになってしまい……。

――なんだかとりとめがなくなってきてしまいましたが、とにかく自分がつらいとか苦しいとか考えているとき、自分の姿勢について振り返ることは難しく(「知るか」とかついつい呟いてしまう)、だけどそういったときにこの小説を読めば、またしっかりと自分を見つめ直すことができるのではなかろうかとか、そんなふうに思いました。

自分が傷つくことをおそれず、悟浄のように「自分もあんなふうになりたい」と思えるすてきな仲間たちに出会って仲良くしたい、そして自分も「あんなふうになりたい」と思ってもらえるようなひとになりたいと思いました。

――この思いを実際に活かせなければなんの意味もないのでしょうが……。とにかく、いまはこの気持ちを書き残しておくことに意味があるのだと信じて(信じるだけじゃダメなんだよ?)、書き残しておくような次第です。

お目汚し大変失礼いたしました(ホントだよ……)。

読書感想まとめ

自分が傷つくことをおそれず、ひとに接するということ。そうすれば、悟浄のようにすてきな仲間たちと出会い仲良くできるということ。そして自分も「あんなふうになりたい」と思ってもらえるような自分になること。

狐人的読書メモ

悟浄歎異-中島敦-狐人的読書メモ-イメージ

最後にもう一度だけ。中島敦さんの『わが西遊記』は本当におもしろい。もう続きが読めないのが本当に残念でならない。

・『悟浄歎異/中島敦』の概要

1942年(昭和17年)『新鋭文学全集2 南島譚』(今日の問題社)にて初出。『わが西遊記』として連作が予定されていたが、著者没により2編しか残っていない。さっき最後って言ったけれど本当におもしろかった。続きが読めないのが本当に残念すぎる。自信を持っておすすめできる(と思う)。

・気になったところ引用集

「だめだめ。てんで気持がらないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」

――……ドラゴラム!

悟空によれば、変化へんげの法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持がそこまで至っていないからだ。法術の修行とは、かくのごとくおのれの気持を純一無垢むく、かつ強烈なものに統一する法を学ぶにる。この修行は、かなりむずかしいものには違いないが、いったんその境に達したのちは、もはや以前のような大努力を必要とせず、ただ心をその形に置くことによって容易に目的を達しうる。これは、他の諸芸におけると同様である。変化へんげの術が人間にできずして狐狸こりにできるのは、つまり、人間には関心すべき種々の事柄があまりに多いがゆえに精神統一が至難であるに反し、野獣は心を労すべき多くの瑣事さじたず、したがってこの統一が容易だからである、云々うんぬん

――……僕にもできるだろうか?

二十八宿しゅくの名をことごとくそらんじていながら実物ほんものを見分けることのできぬ俺と比べて、なんという相異だろう! 目に一丁字いっていじのないこのさるの前にいるときほど、文字による教養の哀れさを感じさせられることはない。

――名を知り実を知らないということ。含蓄がある。

困難な現実も、悟空にとっては、一つの地図――目的地への最短の路がハッキリと太く線を引かれた一つの地図として映るらしい。現実の事態の認識と同時に、その中にあって自己の目的に到達すべき道が、実に明瞭めいりょうに、彼には見えるのだ。あるいは、そのみち以外の一切が見えない、といったほうがほんとうかもしれぬ。闇夜やみよの発光文字のごとくに、必要なみちだけがハッキリ浮かび上がり、他は一切見えないのだ。

――迷いがないというのは本当に羨ましい。

悟空には自分の運命に対する無限の自信があるのだ(自分ではその自信を意識していないらしいが。)

――やっぱり羨ましい。まさしくそれが天才といえる。

悟空ごくうの今一つの特色は、けっして過去を語らぬことである。というより、彼は、過去すぎさったことは一切忘れてしまうらしい。少なくとも個々の出来事は忘れてしまうのだ。その代わり、一つ一つの経験の与えた教訓はその都度つど、彼の血液の中に吸収され、ただちに彼の精神および肉体の一部と化してしまう。いまさら、個々の出来事を一つ一つ記憶している必要はなくなるのである。彼が戦略上の同じ誤りをけっして二度と繰返さないのを見ても、これはわかる。しかも彼はその教訓を、いつ、どんな苦い経験によって得たのかは、すっかり忘れ果てている。無意識のうちに体験を完全に吸収する不思議な力をこのさるっているのだ。

――やっぱりやっぱり羨ましい(後悔してばかり)。

我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものにかれるのではないか。これこそ、我々・妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさととうとさとをハッキリ悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。確かにこれだ、我々になくて師にるものは。なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。しかし、いったんおのれの位置の悲劇性を悟ったが最後、金輪際こんりんざい、正しく美しい生活を真面目まじめに続けていくことができないに違いない。あの弱い師父しふの中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。内なる貴さがそとの弱さに包まれているところに、師父の魅力があるのだと、おれは考える。もっとも、あの不埒ふらち八戒はっかいの解釈によれば、俺たちの――少なくとも悟空ごくうの師父に対する敬愛の中には、多分に男色的要素が含まれているというのだが。

――三蔵法師の魅力。カリスマ性。これはある種の指導者に見られる資質だと思う。『三国志』の劉備とか。最後の部分は……BL要素?

おかしいことに、悟空は、師の自分よりまさっているこの点を理解していない。ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。機嫌きげんの悪いときには、自分が三蔵法師にしたがっているのは、ただ緊箍咒きんそうじゅ(悟空の頭にめられている金の輪で、悟空が三蔵法師の命に従わぬときにはこの輪が肉にい入って彼の頭をめ付け、堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、妖怪に捕えられた師父を救い出しに行くのだ。「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍れんびんだと自惚うぬぼれているらしいが、実は、悟空の師に対する気持の中に、生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的な畏敬いけい、美と貴さへの憧憬どうけいがたぶんに加わっていることを、彼はみずから知らぬのである。

もっとおかしいのは、師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。「お前が助けてくれなかったら、わしの生命はなかったろうに!」と。

二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、ときにはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。およそ対蹠たいせき的なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、おれは気がついた。それは、二人がその生き方において、ともに、所与しょよを必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做みなしていることだ。金剛石こんごうせきと炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置とうち」こそ、彼らが天才であることのしるしでなくてなんであろうか?

――なぜ相手を好きなのか理解しておらず、それでも相手を好きで大切に思う気持ち。これは師弟関係のみならず、親子、友人、恋人関係にもあてはめることのできるすてきな関係性だと思う。人はどうしても己の感情に理由を求めてしまいがち。だけどそれをせずに純粋に相手を好きになれるというのはすごいことだし大切なことだし難しいこと。同性であれ異性であれ、陰陽一致のように自分の片割れ(アンドロギュノス)だと思える相手に出会えるというのは大変な幸運であり幸福である。

生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 生きものの生き方ほどおもしろいものはない。

――そう思える個性的な面々がそろうというのは現実には結構稀なのでは? といったうがった見方をしてしまった……(ひねくれものが出てしまった)。

孫行者そんぎょうじゃはなやかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、猪悟能八戒ちょごのうはっかいもまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚きゅうかく・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世にしゅうしておる。あるとき八戒はっかいおれに言ったことがある。「我々が天竺てんじくへ行くのはなんのためだ? 善業をして来世に極楽に生まれんがためだろうか? ところで、その極楽ごくらくとはどんなところだろう。はすの葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしようがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つあつものをフウフウ吹きながら吸う楽しみや、こりこり皮のげた香ばしい焼肉を頬張ほおばる楽しみがあるのだろうか? そうでなくて、話に聞く仙人のようにただかすみを吸って生きていくだけだったら、ああ、いやだ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! たとえ、つらいことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬたのしさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくともおれにはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木蔭こかげの午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛すいてき。春暁の朝寐あさね。冬夜の炉辺歓談。……なんとたのしげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまでっても尽きぬもののように思われた。俺はたまげてしまった。この世にかくも多くのたのしきことがあり、それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、考えもしなかったからである。なるほど、楽しむにも才能のるものだなとおれは気がつき、爾来じらい、この豚を軽蔑けいべつすることをめた。だが、八戒はっかいと語ることがしげくなるにつれ、最近妙なことに気がついてきた。それは、八戒の享楽主義の底に、ときどき、妙に不気味なものの影がちらりのぞくことだ。「師父しふに対する尊敬と、孫行者そんぎょうじゃへの畏怖いふとがなかったら、俺はとっくにこんなつらい旅なんかめてしまっていたろう。」などと口では言っている癖に、実際はその享楽家的な外貌がいぼうの下に戦々兢々せんせんきょうきょうとして薄氷はくひょうむような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。いわば、天竺てんじくへのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、幻滅と絶望との果てに、最後にすがり付いたただ一筋の糸に違いないと思われるふしが確かにあるのだ。

――ここが悟浄の八戒についての考察のほぼすべて。ただただ人生を楽しめる人というのは本当に羨ましい。それは悟浄と同じように僕も思考派であって考えすぎるがために人生を楽しめていない証左なのかもしれない。そこから八戒への考え方を改めた悟浄の態度もすばらしいと思った。いいところは素直にいいと認めて、一度定着した相手への負のイメージを払しょくするのはなかなか難しく思う。やはり見習うべき思考。そして「八戒の享楽主義の秘密」が気になるところ。このあたりももし続編が書かれていれば明かされていたのかもしれない。本当に残念である。

孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」と。悟空ごくう闊達無碍かったつむげの働きを見ながらおれはいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、おのずと外に現われる行為のいいだ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気ふんいきの持つ桁違けたちがいの大きさに、また、悟空的なるものの肌合はだあいのあらさに、恐れをなして近づけないのだ。実際、正直なところを言えば、悟空は、どう考えてもあまり有難ありがた朋輩ほうばいとは言えない。人の気持に思いりがなく、ただもう頭からガミガミ怒鳴り付ける。自己の能力を標準にして他人ひとにもそれを要求し、それができないからとておこりつけるのだからたまらない。彼は自分の才能の非凡さについての自覚がないのだとも言える。彼が意地悪でないことだけは、確かに俺たちにもよくわかる。ただ彼には弱者の能力の程度がうまくみ込めず、したがって、弱者の狐疑こぎ躊躇ちゅうちょ・不安などにいっこう同情がないので、つい、あまりのじれったさ疳癪かんしゃくを起こすのだ。俺たちの無能力が彼を怒らせさえしなければ、彼は実に人の善い無邪気な子供のような男だ。

――自身のふがいなさ。他人の無能が理解できない天才の在り方。最近は怒られることがなくなっているという世の中。

以上、『悟浄歎異/中島敦』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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コメント

  1. いいんちょ より:

    あなたの感想を見る限り多分読まれていないと思うのですが、同じく中島敦の「かめれおん日記」「狼疾記」「弟子」「李陵」「北方行」「和歌でない歌」あたりは読まれました?
    ここら辺の(中島敦お得意の外国をモチーフにした短編ではないある意味で内省的な)作品(とできれば彼の触れているスピノザやルクレティウスの哲学など)を読むと、彼の一生貫いているテーマが分かり、今より読み方が深まっていくと思いますよ。

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