狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『フォスフォレッスセンス/太宰治』です。
太宰治 さんの『フォスフォレッスセンス』は文字数4500字ほど。
狐人的読書時間は約11分。
戦後太宰の最高傑作、との感想もある短編小説。
涙と鳥とフォスフォレッスセンスの意味。
胡蝶の夢、俺の嫁、ソードアート・オンライン。
噛みまみたのは僕だけ?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
夢の中の妻と逢瀬を楽しむ「私」。
夢の中で流す涙は、現実の涙よりも現実らしい。
すると一羽の鳥が舞ってきて言う。
「私」は夢と現実、二つの世界に生きると知る。
夢の中の妻と現実のあのひと。
太宰治の語る夢と現実。
狐人的読書感想
さて、いかがでしたでしょうか。
狐人的にはまずタイトルからして興味を惹かれてしまいましたが。
「フォスフォレッスセンス」、……ってどこ?
「フォスフォレッスセンス」
……って何?
といった感じですが、どうでしょう?
作中では、綺麗な花を見た編集者に、「なんて花でしょう?」と尋ねられた「私」が、「Phosphorescence」と答えているので、花の名前だったのかあ、と納得したのですが、実際に調べてみると、そのような名前の花は実在していないようです。
太宰治 さんの夢想の中にだけ存在する花だったのかもしれません。
しかしながら、「Phosphorescence」という英単語はたしかに存在していて、これは「燐光」を表す言葉です。燐光は、物質が発する光、あるいはその現象のことを指していて、製造業技術用語では「蓄光」とも訳されます。
僕の身近な物だと、部屋の電気を消すと、そのリモコンの「常夜灯ボタン」が、淡くグリーンに光るのですが、そんな感じで、夜光塗料の光などが「Phosphorescence」であるといえそうです。
そんなわけで、僕の夢想する「フォスフォレッスセンス」としては、「暗闇の中で発光する鈴蘭」を思い浮かべてみたのですが、いかがでしょうか(雪ミク2015のイメージ? ……光ってたっけ? ちなみに鈴蘭には「谷間の姫百合」という別名があります。「私」が「百合でしょう」と訊いているところとも通じる? ――といったこじつけ)。
読んだ人がそれぞれの「フォスフォレッスセンス」を夢想する楽しさのある小説だと思いました(これが言いたいがためだけに長々語ってしまいましたが)。
ちなみに、この「フォスフォレッスセンス」ですが、東京都三鷹市に同名のブックカフェがあります。三鷹市は、太宰治 さんが暮らしていた、太宰治ゆかりの地です。
ブックカフェ「Phosphorescence」は、太宰治 さん好きの女性店主の方が経営されている、太宰治カフェといった趣の、こじんまりとした喫茶店、といった感じ。
先年『火花』で芥川賞を受賞され話題となり、先日新作『劇場』を発表されてやはり話題となっている又吉直樹 さんも訪れたことがあるらしく、そのサインも飾られています。
(又吉直樹 さんの『火花』の読書感想はこちら)
――とか、あたかも行って見てきたがごとく書いていますが、もちろんひきこもりがちの僕が行っているわけもなく、全部インターネット情報によるものなのですが、今度機会があればぜひ……(行ってみてください、という人任せ)。
「噛みまみた」してしまいそうなタイトルです
さて、この『フォスフォレッスセンス』(ところで、書いているだけだと気付きにくいですが、ちょっと「噛みまみた」してしまいそうな言葉ですよねえ)という作品ですが、知名度のほうはどうなのでしょう?
(他の「噛みまみた」してしまいそうなタイトルはこちら)
当然ながら、最近になって文豪作品を読み漁り出した僕としては、聞いたこともなかったのですが、調べてみると、「戦後太宰の最高傑作」という感想もあるみたいなので、ひょっとしたら既読の方も、結構多いのかもしれません。
「戦後太宰の最高傑作」なのか否か、については、いずれ太宰治 さん作品をすべて読破してから判断したいと、できないかもしれないことを、それらしく理由にして、先送りにしてみるわけなのですが(自分で言っていて「豊洲市場移転判断の先送り」を彷彿とさせる言になってしまったわけなのですが)。
狐人的には、まず導入部分は『胡蝶の夢』を彷彿とさせるなあ、と思いました(もしかすると、これは読んだ方の大部分が感じる感想かもしれません)。
『胡蝶の夢』は、道教の始祖の一人として有名な荘子 さんの説話で、簡単にいうと、「ひらひら飛んでいた蝶々が、ハッと目を覚ますと人間で、だけど自分は、蝶々の夢を見ていた人間なのか、あるいは人間の夢を見ている蝶々なのか、わからなくなってきた……」といったお話です。
「まあ、綺麗。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ。」
「あら、お母さん、それは夢よ。」
この二人の会話に於いて、一体どちらが夢想家で、どちらが現実家なのであろうか。
上に引用した冒頭部分――この小説は、母娘の他愛のない会話から始まっています。
「王子様と結婚」発言をしちゃう夢見がちの少女みたいな母親は、じつはそんなことまったくありえないと思っているからこそ、簡単にそれを言えちゃうわけで、案外あっさり否定している娘のほうが、「ちょっとは期待しちゃってんじゃないの?」とか。
物語の主人公である「私」は、この会話を考えたとき、現実家と夢想家の区別がわからなくなってきていて、ひねくれてるなあ、とか思いつつも、ひねくれものの僕としては、共感できるところでもあって、とてもおもしろかったです。
胡蝶の夢、俺の嫁、ソードアート・オンライン
この導入ののち「私」は夢と現実について語り始めます。ここからは『胡蝶の夢』的な色は幾分薄れていくように感じました。
私は、一日八時間ずつ眠って夢の中で成長し、老いて来たのだ。つまり私は、所謂この世の現実で無い、別の世界の現実の中でも育って来た男なのである。
……ちょっと説明が難しいのですが、夢は夢の世界として、現実の世界とは別に確固として存在し、もちろん現実は現実の世界として、厳然として存在している。「人間は二つの世界に生きているんだ!」みたいな。一種の現実逃避みたいな。
……う~ん、うまく言えている自信がないのですが。ネトゲをする知人が「私のリアルはそっちじゃない」みたいなことを言っていたのを思い出した、みたいな。
私にはこの世の中の、どこにもいない親友がいる。しかもその親友は生きている。また私には、この世のどこにもいない妻がいる。しかもその妻は、言葉も肉体も持って、生きている。
「私」の見る夢というのは「夢の中の妻との逢瀬」というものなのですが、これもどこか「お気に入りの二次元キャラ」に使われる『俺の嫁』を思わされるお話です。
ネトゲ、二次元依存、……そういう意味では、夢の世界の現実化、というのは現代的な話のような気がしてきます。さらに、VR(バーチャルリアリティ)技術が発展すれば、現実の肉体はVR装置をつけたまま眠っていて、思いのままに生きられる夢の世界が現実となる……、『マトリックス』とか『ソードアート・オンライン』とか、SFちっくな未来を想像させられます。
殻社会、…それは夢に現実逃避する人類の未来
結局のところ、「私」には現実では結ばれない相手(おそらく愛人)がいて、その人が夢の中の妻なわけなのですが、うまくいかない現実を否定するところから、「私」は夢の世界を肯定するようになったのだと分析できます。
フロイト さんの説(夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である)を批判し、夢と現実には連続性があるとしながらも、その本質は別のものだ、とする「私」の主張は、僕にはちょっと理解しにくく、混乱しました。たぶんいまもまったく理解できていないように思います。
夢の国で流した涙がこの現実につながり、やはり私は口惜しくて泣いているが、しかし、考えてみると、あの国で流した涙のほうが、私にはずっと本当の涙のような気がするのである。
ただその根拠として、夢の中で流した涙のほうが、現実の涙よりもずっと本当の涙のような気がする、というのは、理屈ではない説得力があって、秀逸な描写だと感じました。まさにこの涙によって、現実よりも夢を重視しているような、「私」の現実逃避っぷりも際立って映ります。
「涙」同様、もう一つ重要なガジェットとして、夢の中に一羽の鳥が登場します。蝙蝠に似て、片方の翼が3メートルあり、カラスの鳴くような声で話すのですが、
「ここでは泣いてもよろしいが、あの世界では、そんなことで泣くなよ。」
と、この鳥が言うのです。
これをきっかけに、夢の世界の人生に重きを置いていた「私」は、現実の世界と夢の世界、二つの世界に生きることを受け入れるようになるのですが、これは前向きな姿勢というよりも、ある種の諦観であるように僕は感じました。
その後の「私」と夢の中の妻との会話に、
「どんな言葉がいいのかしら。お好きな言葉をなんでも言ってあげるよ。」
「別れる、と言って。」
「別れて、また逢うの?」
「あの世で。」
というやりとりがあるのですが、太宰治 さんのその後を思うと、とても前向きには捉えられず、どうしても意味深に受け取ってしまいます(これは文学史的知識からくる先入観によるものかもしれませんが……、ぜひ誰かと意見を交わしてみたいところです)。
そんなわけで『フォスフォレッスセンス』は「夢に現実逃避する人間の現実」が描かれた作品だと思いました。
「夢の中に生きる」という考え方は、現実的生産性がないところから、どこか否定されがちに思えるのですが、狐人的には殻社会(狐人的造語)の到来を予感しています。
VR装置(殻)の中で眠りながら、夢の中だけで生涯を終える世界が、訪れないとは言い切れないのは、はたして僕だけ?
(夢の話―?―の読書感想)
- ⇒青水仙、赤水仙/夢野久作=読書感想文と自由研究が一気に片付く(?)無垢な物語。
- ⇒白昼夢/江戸川乱歩=白昼夢を見ていたのは私か、男か、…僕か?
- ⇒夢十夜/夏目漱石=あらすじと感想と狐人的夢十夜トップ3(夏目漱石さん「I love you」和訳説疑惑にも!)
(ちなみに夢野話の読書感想は「カテゴリー:夢野久作」からどうぞ)
読書感想まとめ
夢に現実逃避する人間の現実。
狐人的読書メモ
……「戦後太宰の最高傑作」かどうかは、いまの僕には判断できませんが、この作品が口述筆記で書かれた事実には驚かされてしまいます。
「太宰治 さんは天才と断ずるに些かの躊躇も持たぬ!」
・『フォスフォレッスセンス/太宰治』の概要
1947年(昭和22年)7月『日本小説』にて初出。作中のラスト、「私」が(おそらく愛人の)「あのひと」のお宅を訪れるシーンがあるが、「あのひと」のモデルはやはり実際の太宰治 さんの愛人だった山崎富栄 さんと考えらえる。その根拠として、その家の女中の話として、「主人が南方で消息不明となり帰らない」という描写があるが、山崎富栄 さんのご主人もマニラで行方不明となっている。さらにこの作品は口述筆記で書かれた小説である。太宰治 さんの天才性……。
(他、太宰治 さんの口述筆記された小説)
・殻社会
狐人的造語。テンニース さんの「ゲマインシャフト→ゲゼルシャフト」の移行から、その先、すなわちアインザームシャフトあるいはムッシェルシャフトとも。VR、AI、ロボット、先進技術のさらなる発展により、社会参加せずとも、人は殻の中で生きていけるようになるのではないか? いまだ明確に定義できておらず……。
以上、『フォスフォレッスセンス/太宰治』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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