狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『蒼穹/梶井基次郎』です。
梶井基次郎 さんの『蒼穹』は文字数4800字ほどの短編小説です。蒼穹(青空)を眺めた青年の感じる悲哀、不安、不幸……、青空といえば清々しい印象を受けますが、青年はなぜこうした負の感情を抱いたのでしょうか? 風景を見ることは自分の心を見ること。ロートスの実を喰らいし者、蒼穹に己が心を見よ(?)。読みやすい描写と読みにくい描写について一緒に勉強しませんか?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
ある晩春の午後、青年が村の街道沿いにある土手の上から蒼穹(青空)を眺めていた。
大きな雲が青年に漠然とした悲哀を感じさせる……、悲しいまでのノスタルジック――そこからの眺めは不思議と青年の心を安らかにした。安逸なる風景――雲は、そうした安逸の悲運を悲しんでいるように、青年には思われるのだった。
青年の眼下に広がる渓と山。二つの渓、その間にある山は楔、前方のは屏風、上流にかけて重なる山襞は十二単衣。三月の半ばには、山火事のような煙が起こる。それはスギ花粉の煙。しかしいま、山には初夏らしい落ち着きがある。
渓と山の風景の上に遊んでいた青年の眼は、再び青空へ。つぎつぎと湧いてくる淡い雲が、空の中へと広がっていき、巻き上がった縁の部分が、空の中へと消えていく。絶え間ない生成と消滅。青年はつかみどころのない不安を覚える。
そんな感情に巻き込まれていくなかで、青年は不思議な現象に気がつく。雲が湧き出る部分――空の中には、見えない山のようなものがあるのではないか……、そのとき青年の心に闇夜の経験がよぎる。
闇の街道を、青年が明かりも持たずに歩いていると、途中にあるたった一軒の人家の光が、街道の闇に差し込んでいた。その中へ、突然現れた人影が、闇の中へ消えていく……。青年は、絶望的な順序で消えていく自分自身を想像して、そこに言いようのない恐怖と情熱を覚えた。
――その記憶が、青年にある悟りをもたらす。雲が沸き立ち、そして消えていく――空の中にはたしかな虚無があった。それは白日の闇だった。そのことを悟ったとき、青年は一時に視力を弱めたような、大きな不幸を感じたのだった。
狐人的読書感想
『蒼穹』とは、青空のことを指す言葉で、浅田次郎 さんの小説『蒼穹の昴』やアニメ『蒼穹のファフナー』をぱっと思い浮かべてしまう、狐人的には結構好きな言葉なのですが、さて、いかがでしたでしょうか。
「風景を見る」=「自分の心を見る」ということ
梶井基次郎 さんの小説といえば、鋭い観察眼で、ちょっと自分には書けそうにないなあ……、と思わされてしまうような、風景描写が印象的な作品ばかり、といった感じ。狐人的あらすじでは、この素晴らしい風景描写を、ほとんど省いてしまっているので、ぜひ全文を読んで、感じていただきたいところであります。
この素晴らしい風景描写が、著者の心象風景の表れであると読み取るのは、さほど難しくないように思いますが、蒼穹(青空)に悲運や不安といったある種の負の感情を見る、というのは、さほど難しくないのか結構難しいのか……、難易度的にはどうなんだろうなあ、というようなことを考えました。
ここで突然ですが、普段の生活のなかで空を見るとき、何を思いますか? といった質問です。「今日もいい天気だなあ、洗濯物がよく乾きそう」とか「雨が降りそうだから傘を持って出ようかな」といった感じでしょうか(あと、美味しそうな雲だなあ……、とかも?)。あるいは何も思わないことのほうが多いかもしれません。
これは風景を見ることの一つの側面を表していますよね。つまりは、洗濯物を干す、雨に濡れないために傘を持つ、といった目的のために風景を見ているわけです。
自然の風景を心象風景として捉えるためには、ある種の感動を覚えなければいけないように思いますが、日常の中で感動的に風景を見るというのは、僕には難しく思えたのですが、どうでしょう。
とはいえ、休日に晴れた青空を見ると爽やかで清々しい気分になったり、旅行先の風景に感動を覚えたり、というのも、心象風景として自然の風景を捉えていることになりそうです。さらに、嫌なことがあったときなんかは、青空が煩わしく映ることもあります。これもある種の感動といえますよね。
こうして考えてみると、青空といえば、何となく気持ちがいいもののように思いがちですが、これに負の感情を見るというのは、じつはそれほど難しくないことのようにも思えてきます。
しかしながら、そうは言っても、青空に悲哀や不安を見るというのは、常人ではなかなか捉えがたい感覚だと思えるのですが、どうでしょうか。
『蒼穹』は、結核を患っていた梶井基次郎 さんが、療養先の伊豆湯ヶ島で着想を得た小説だと聞きますし、31歳の若さで早逝されていることを思えば、雲が消えていく白日の闇の中に、自身の消滅を思う不安や恐怖があったのだと見るべきで、やはり健常人には想像しにくいもののように感じます。
「風景を見る」ということは、「自分の心を見る」ということなんだなあ……、ということを勉強したというお話でした。
ロートスの実を喰らいし者「ロートスイーター」
勉強した、といえば、梶井基次郎 さんの『蒼穹』は、狐人的にはいろいろな意味において、勉強になった描写の多い小説でした。
Lotus-eater の住んでいるといういつも午後ばかりの国――それが私には想像された。
神を喰らいし者『ゴッドイーター』、魂を喰らいし者『ソウルイーター』、人を喰らいし者「喰種」……、じゃなくて「マンイーター(の出夢)」。
「Lotus-eater」(ロートスイーター)って、なんかカッコいいなあ、と思ってしまうのは、僕だけ?(中二病だとか言わないように)
早速調べてみると、これはギリシア神話に登場する民族「ロートパゴス族」のことを指しているようです(『オデュッセイア』)。
ギリシア神話の英雄・オデュッセウスは、船によるトロイアからの帰途、ロートパゴス族の土地に漂着します。ロートパゴス族からロートスの実をもらって食べたオデュッセウスの部下たちは、そのあまりの美味しさに郷愁の念も忘れ果て、その地に住みたいと願うように……、そんな部下たちをオデュッセウスが引きずって船へと連れ帰った、というお話です。
……ロートスの実を喰らいし者「ロートスイーター」――ってなんかカッコよくないですか(しつこし)?
村から見える、ノスタルジックで安逸な山野の風景から、「Lotus-eater」を想像したという描写は、インテリな経歴を持つ梶井基次郎 さんらしい知的な描写だと感じました。
それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。
花粉症の人にとっては読むのもつらい描写かもしれませんが(笑)。
スギ花粉症は、一説によるとエジプト文明のときにはすでに存在していたという説があり、2500万人の日本人が罹患しているともいわれていますが、日本でスギ花粉症が確認されたのは、1960年代に入ってからなのだそうです。
『蒼穹』が発表されたのは1928年のことですから、まだ日本人が花粉症に悩まされていなかった時代、山火事の煙のようなスギ花粉を悠々と眺めることのできた旧きよき時代ともいえそうな描写です(ちなみにスギ花粉は、ドラクエのスライムみたいな形をしているそうです)。
それも花火に仕掛けられた紙人形のように、身体のあらゆる部分から力を失って。
「花火に仕掛けられた紙人形」って何? と思ったのですが、仕掛け花火の一種のようですね。打ち上げた花火からパラシュートにつられた人形がゆっくりと落ちてくるそう。見たことありますか?
私は空のなかに見えない山のようなものがあるのではないかというような不思議な気持に捕えられた。
ひょっとして、『天空の城ラピュタ』?
――と思わず思ってしまった、というだけのお話。
その夜私は提灯も持たないで闇の街道を歩いていた。……
後半にある青年の体験談は、『闇の絵巻』という同じく梶井基次郎 さんの小説にも詳しく描かれています。やはり梶井基次郎 さんにとって、小説を書くということは、自身が消えていくことへの不安や恐怖、そしてある種の情熱といったことが、大きなテーマとなっていたように思います。
(『闇の絵巻』の読書感想はこちら)
読みやすい描写と読みにくい描写についての勉強
これは、『蒼穹』を読んで直接的に得た感想ではないのですが、ハッと目を開かされるような気がしたので、書き残しておきたいと思います。
小説を読んでいて、読みにくいなあ、と思うとき、それは難しい表現や漢字が使われているからだと僕は思っていて、まあ結局それは間違いではないのですが、ゆえにイメージしやすいかしにくいか、といったことを考えたことがなかったなあ、といったお話です。
文章による描写には極論すれば二つのスタイルがあるのだといいます。一つは、人が共有するイメージを喚起するもの。もう一つは、著者固有のイメージに依存するもの。
イメージしやすい文章は読みやすく、イメージしにくい文章は読みにくい――すなわち、前者が読みやすく、後者が読みにくい描写ということになります。
これは、エンターテインメントとして小説を書く場合には前者を意識し、文学として小説を書く場合はどうしても後者になってしまうものなのかもしれない、ということを思わされるものでした。
他者と共有できるイメージを伝えやすく文章にするというのも難しく感じますが、他者と共有しにくいイメージ(固有の自我)をどうにか伝わるような文章にするというのはより難しく感じ、なんとなく(あくまでもなんとなく)学ばされる思いがしました。
読書感想まとめ
「風景を見る」ということは「自分の心を見る」ということ。狐人的にはいろいろな意味において勉強になった描写の多い小説。読みやすい描写と読みにくい描写について。
狐人的読書メモ
『文豪ストレイドッグス』にも登場している梶井基次郎 さん――ということで、間違いなく文豪だと思っていたのですが、じつは全20作品のうち商業誌で発表されているのは『のんきな患者』(『中央公論』)の一作品だけなのだそう。他は同人誌発表ということで、評価の高い同人作家的な存在なのだと知って意外な印象を受けました。
・『蒼穹/梶井基次郎』の概要
1928年(昭和3年)、発表。散文詩的な短編小説。
以上、『蒼穹/梶井基次郎』の読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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