器楽的幻覚/梶井基次郎=音楽を弾くにも音楽を聴くにも音楽を書くにも才能が要る?

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

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今回は『器楽的幻覚/梶井基次郎』です。

梶井基次郎 さんの『器楽的幻覚』は文字数2500字ほどの短編小説です。難しいことはわかりませんが、音楽を弾くにも音楽を聴くにも音楽を書くにも才能が要る? 器楽的幻覚に覚醒せよ!

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

ある秋のこと。フランスから来日したピアニストの演奏会があった。何週間もかけて、6回の演奏が行われる連続演奏会だったが、そこに私は通った。好ましい演奏会で親しみを感じていた。

その終盤にさしかかった演奏会で、私は常にない落ち着きと頭の冴えを自覚しながら、一小節も聞き漏らすまいと、集中してピアノソナタに耳を傾けた。演奏後、私は幸福を感じつつも、その晩不眠によってもたらされるであろう苦痛を予感した。

休憩時、私は友人と黙って煙草を吹かしながら、音楽の余韻を味わっていた。強い感動は一種の無感動に似た気持ちを伴っている。どこからか聞こえてくる軽薄極まりないピアノソナタの口笛に嫌悪感が過った。

演奏会が再開されると、フランス近現代音楽が続いた。ふいに、私は、演奏者の指の動きと音楽の遊離を感じた。演奏者の意思を離れ、自律化する音楽……、聴衆の拍手、どよめき、息遣い……、すべてが一つの音楽のように、私の心には映り始めた――しかし誰もそのことに気づかない。突如訪れる孤独感が私を捕らえ、愕然とする。「なんという不思議だろうこの石化は? ……」

演奏会終了後、出口へと向かう私の目の前で、威厳ある音楽好きの侯爵が倒れる。不眠症が幾晩も私を苦しめたのはいうまでもない。

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狐人的読書感想

さて、いかがでしたでしょうか?

梶井基次郎 さんの作品を読んできて感じるのは、とても自分には書けそうにないなあ(そう思うことさえ不遜な考えなのかもしれませんが)、ということです。鋭敏な感性をお持ちだったということがわかり、それだけに、僕にとっては共感しにくい部分も多く、感想や解説が難しく感じてしまいます。――とはいえ、読んだからには何か書く! ということで、お付き合いいただけましたら幸いです。

お金を惜しまないほど好きなものありますか?

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梶井基次郎 さんの『器楽的幻覚』が発表されたのは1928年(昭和3年)5月。これを執筆された約2年前の1925年に行われたジル・マルシェックス さんの演奏会を題材にして書かれた短編小説です。当時貧乏大学生だった梶井基次郎 さんは、なけなしのお金をはたいて、このチケットを購入したそうで、相当な音楽好きだったんだなあ、と思わされるエピソードです。

あえていうまでもなく、世の中には音楽が好きな人がたくさんいらっしゃると思うのですが、狐人的には音楽のよさというものが、あまりよくわかりません。なんとなく耳にして、いいかもしれない、と思うことはあるのですが、お金を払ってライブやコンサートに行こうという気にはならないのですよねえ……。

ひきこもりがちなので、お金を払わなくてよかったとしても「よし行こう!」とはならないと思うのですが、一般的にはどうなのでしょうねえ……、好きの度合いにもよるのかもしれませんが、「無料ならライブやコンサートに行ってみようかな?」というのが普通なようにも思います。

同じく、好きなもののためならお金がかかるのもいとわない、といった考え方も、あまりよくわからないのですが。服好きな方のお金の使い方を見ると、スゲーな、といつも思わされてしまうのです。僕にお金を惜しまないほど好きなものがないだけ――だからかもしれませんが……。

良く音楽を聴くための才能を持っていますか?

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そんなわけで、梶井基次郎 さんが感じた「器楽的幻覚」というのも、僕にはよくわからない感覚です。てか「器楽」ってなんだ? ――と調べてみると「楽器で演奏される音楽」という意味なので、まあそのまま音楽と言い換えても問題なさそうなわけですが、音楽によってもたらされる幻覚と聞けば、ちょっと危ない雰囲気を感じてしまいますが……。

音楽が、ポジティブにもネガティブにも、人の精神に作用するというのは、昔から知られていることではあります。だからこそ音楽は、現代に至るまで発展を続けているわけなのですが。僕は梶井基次郎 さんが『器楽的幻覚』の中で書かれているような、ある種の幻覚を伴うような、強烈な音楽体験というものを経験したことはありません。皆さんはいかがでしょうか?

以下にその一部を引用してみます。

読者は幼時こんな悪戯いたずらをしたことはないか。それは人びとの喧噪けんそうのなかに囲まれているとき、両方の耳に指でせんをしてそれを開けたり閉じたりするのである。するとグワウッ――グワウッ――という喧噪の断続とともに人びとの顔がみな無意味に見えてゆく。人びとは誰もそんなことを知らず、またそんななかに陥っている自分に気がつかない。――ちょうどそれに似た孤独感が遂に突然の烈しさで私を捕えた。それは演奏者の右手が高いピッチのピアニッシモに細かく触れているときだった。人びとは一斉に息を殺してその微妙な音に絶え入っていた。ふとその完全な窒息に眼覚めたとき、愕然がくぜんと私はしたのだ。

つぎつぎと奏でられていく、フランス近現代音楽に触れて起こった、精神的変化を描写している箇所ですが、幼時の悪戯に例えられている点は、ちょっとだけわかるような気もしました。

「あーーーー」と言いながら、両手のひらで自分の耳を叩くと、変に聞こえるという遊びですが、たしかに周りの音も変に聞こえて、この錯誤はおもしろいです。ただそれに続く幻覚に陥ったことはありませんが。しかしこのように、音によって周囲と隔絶された状況で、一種の孤独や不安を感じてしまう、というところは、想像に難くないと思いました。

『器楽的幻覚』の中で綴られていることの一つは、音楽の感動は孤独感に通じている、ということです。なんというか、ロックスターの孤独、みたいなものを思わされるお話(完全にイメージのお話)なのですが、いかがでしょうか?

良い音楽を演奏するには特別な才能が必要とされるといわれますが、良く音楽を聴くためにも特別な才能が必要なのかもしれない(あるいはこの両者は同じもの?)、というのが、今回『器楽的幻覚』を読んでの僕の感想です。

覚醒する万能感! を感じたことありますか?

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前述のとおり、僕自身、こうした強烈な「器楽的幻覚」を自覚した経験はありません。たぶん今後もないように思います。音楽に感動して、ミュージシャンを志す人、あるいはそれを実現している人というのは、その才能を持った人なのかもしれないと思いました。

――とはいえ、感動の大小があるだけで、僕が極端にこの才能に恵まれていないだけで、強烈な「器楽的幻覚」を見ることはなくても、好きな音楽があったり、音楽を聴いて感動したり、という話はよく聞く、……というよりも、ありふれた当たり前の話ですよね。

しかし、この作品に描かれているような「器楽的幻覚」となると、どうでしょうか、ということです。音楽によってもたらされる高揚と感動、それに通じる孤独、そして万能感です。

『器楽的幻覚』のラストでは、なぜか威厳ある音楽好きの侯爵が、私の目の前で倒れています。

これを、音楽によって覚醒した私の超能力による作用だと空想してみると、SF小説かファンタジー小説としての、別の楽しみ方ができそうですが、おそらくそうした見方は邪道といわれてしまうでしょう。

威厳ある侯爵が倒れる、といった出来事が、「器楽的幻覚」による私のイメージなのか、実際に起きた事象として描かれているのかは、判然としない気もするのですが、これはいずれにしても、「器楽的幻覚」を獲得して、現実の威厳さえも失われてしまうような、ある種の万能感ともいえる感覚を得た描写なのだと、僕は解釈しました。そしてその万能感もまた、孤独というものに結びついているように思います。

音楽を聴くのにも才能が必要なのかもしれない、というのが『器楽的幻覚』を読んでの僕の感想という話をしましたが、音楽を聴いて得た感動を、人に伝えるのもまた才能が必要で、それを別の音楽に変えて伝えられるのがミュージシャンの才能だとすれば、文章で伝えるのが作家の一つの才能なのかもしれません。

音楽を聴く才能と文章を書く才能と。音楽にしても文学にしても、人間のいくつかの才能が合わさって、一つの作品が出来上がる――そんなことを思わされた作品が梶井基次郎 さんの『器楽的幻覚』でした。

要するに『器楽的幻覚』を執筆できた文豪、梶井基次郎 さんは間違いなく天才だと(いうまでもなく)いえるのではないでしょうか? 小説好きのみならず、音楽好きの方にもぜひおすすめしたい小説です。ぜひに!

読書感想まとめ

音楽を弾くには才能が必要。じつは音楽を聴くにも才能が必要なのでは? それを小説にするには間違いなく才能が必要! そんなわけで梶井基次郎 さんは才能ある文豪(ということはいまさらいうまでもないこと)。

狐人的読書メモ

器楽的幻覚-梶井基次郎-狐人的読書メモ-イメージ

著作者: Pink Moustache

梶井基次郎 さんの小説はいろいろな意味で難しく感じてしまいますが、学ぶべきところも多いように思われます。それを活かせるか否かは……(いわずもがな)。

・『手器楽的幻覚/梶井基次郎』

1928年(昭和3年)5月発表の短編小説。著者自身の体験をもとにして書かれた作品。

・分からなかった言葉

アーベント:夕方から始まる演奏会、映画会などのイベント

以上、『手器楽的幻覚/梶井基次郎』の読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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