まずはあいさつ(お願いだから、一回読んでほしい!)
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
(「『狐人』の由来」と「初めまして」のご挨拶はこちら⇒狐人日記 その1 「皆もすなるブログといふものを…」&「『狐人』の由来」)
今回は小説読書感想『忘れえぬ人々 国木田独歩』です。
…………。
凄い小説に出会ってしまいました。
おすすめです。本当に読んでほしい。今回言いたいことはそれだけ!
……とはいえ、それで終わってしまったら、ブログ記事にならないので、何か書かなくてはいけないわけなのですが。
しかし、小説でも漫画でも映画でも――こういうときって、とにかくこの感動を誰かに伝えたい! とか思いますよね……だけどいざ誰かに伝えようとして話し始めてみると、なんだかうまく伝えらえられず……もどかしい。
そんな経験はあるでしょうか?
かく言う僕は、今そうなることを恐れているわけなのですが……。
なぜか、おすすめしたいものほど、上手くおすすめできたためしがないような気がします。公開したブログ記事を読み直してみたら、なんかごちゃごちゃしていて、結局何が言いたかったのか自分でもよくわからなくなる、みたいな。
そうならないように頑張りたいわけなのですが、はたして……。
どうして国木田独歩 さんの小説を読もうと思ったのかは、前回ブログ記事(⇒小説読書感想『山月記 中島敦』→月下獣←人虎伝→苛虎…手乗りタイガー?)が中島敦 さん、と聞けば、ピンとくる方もいらっしゃるでしょうか。
そう! 『文豪ストレイドッグス』です。主要キャラといって間違いないですよね、国木田独歩 さんは。今後の自身の予定をすべて綴った手帳を持っているところがユニークです。結婚の予定だけでなくて、高すぎる理想の女性像が書かれているところが笑えます。そんな手帳のページを切り取り、そこに書かれたものを具現化する異能力「独歩吟客」は、実際の国木田独歩 さんの筆名の一つなのだとか。なんだか響きがカッコいいですよね、独歩吟客!
正直、国木田独歩 さんのお名前は聞いたことがあるような、ないような……といったレベル(文豪なのにすみません)、作品に関しては全く聞き覚えのないものばかりでした(僕が無知なだけ? 皆さんはいかがでしょうか?)
独歩と聞いて、まず思い浮かべたのは、板垣恵介 さんの漫画『グラップラー刃牙・シリーズ』の愚地独歩。「矢でも鉄砲でも火炎放射器でも持ってこいやァ…」。なんか癖になる漫画ですよねえ。
とか、こんなこと言ってて、文豪・国木田独歩 さんの『忘れえぬ人々』についてちゃんと書けるのでしょうか……不安が募るばかりの始まりとなってしまいましたが、お付き合いいただけましたら幸いです。
国木田独歩 さんの『忘れえぬ人々』は、無料の電子書籍Amazon Kindle版で13ページ、文字数11000字ほどの短編小説です。とにかく凄い小説です! 未読の方はこの機会にぜひぜひご一読ください! おすすめです。お願いだから、一回読んでほしい!
つぎにあらすじ(謎解きのため、二回読んでほしい!)
『忘れえぬ人々』は明治時代の小説家・国木田独歩 さんの短編小説です。1898年(明治31年)の4月に発表されました。
『忘れえぬ人々』は談話形式の小説です。三月の初めの頃。舞台となるのは溝口(現在の神奈川県川崎市)のとある旅館亀屋。語り部となるのは、ここにやってきた無名の小説家・大津弁二郎。聞き手は、こちらも無名の画家・秋山松之助。
二人は、たまたま同じ旅館に泊まり合わせて仲良くなり、夜遅くまでお酒を酌み交わすことになります。話しをする中で、大津の書いていた原稿が、秋山の目に留まります。
表紙には「忘れ得ぬ人々」とあり、大津はそれについて語り出します。
大津には、家族や友達、恩師や先輩とは違い、忘れてもべつに不義理となるわけでもないのに、なぜか忘れられない人々がいるのだとか。
一人目は、十九歳の春の中旬、瀬戸内海を渡る汽船の甲板から見た寂しげな小島、そこで小さな磯を漁る漁夫と思しき人影。男であって、子供ではない。「船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった(本文より引用)」
二人目は、五年前(二十二、三歳)の正月元旦後すぐの九州旅行、阿蘇山のふもとで見た馬子(馬を引く職種の人)。二十四、五歳と思われる屈強な若者。「たくましげな体躯の黒い輪郭が今も僕の目の底に残っている(本文より引用)」
三人目は、夏の初め、四国の三津が浜で見た琵琶僧。四十四、五歳、幅広の四角顔、背の低い太った男。「その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽ぶような糸の音につれて謡う声が沈んで濁って淀んでいた(本文より引用)」
大津は最後に言います。
『そこで僕は今夜のような晩に独り夜ふけて燈に向かっているとこの生の孤立を感じて堪え難いほどの哀情を催して来る。その時僕の主我の角がぼきり折れてしまって、なんだか人懐かしくなって来る。いろいろの古い事や友の上を考えだす。その時油然として僕の心に浮かんで来るのはすなわちこれらの人々である。そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡に立つこれらの人々である。われと他と何の相違があるか、みなこれこの生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起こって来てわれ知らず涙が頬をつたうことがある。その時は実に我もなければ他もない、ただたれもかれも懐かしくって、忍ばれて来る、
二年後。
大津が独り瞑想しています。机に置かれた「忘れ得ぬ人々」の最後に書き加えられていたのは「亀屋の主人」でした。「秋山」ではありませんでした。
さて、いかがでしたでしょうか。
本編を読んでみて、あるいはこのあらすじを読んでみて、なんで最後に書き加えられていた「忘れ得ぬ人々」が「秋山」ではなく「亀屋の主人」なんだ? もう一度始めから読んでみよう。
と思ったあなたは、すでに国木田マジック(?)の虜となっているのです。
謎解きのため、二回読んでほしい!
詳しくは「そしてかいせつ」で!
そしてかいせつ(主題を噛締め、三回読んでほしい!)
前述した、最後まで読み、また始めから読む……その繰り返し――、『忘れえぬ人々』をもう一度読もうとしたその行為は、円環を成していることにお気づきでしょうか?
円環といえば「円環の理」――じゃなくって、世界を表しています(「円環の理」はアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』に出てくる用語です)。
一番わかりやすいのは食物連鎖でしょうか。
植物を草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べる、肉食動物はやがて土にかえり植物の養分となります……。
世界は円を描いている。
そして。それを示すように、国木田独歩 さんは作中、四季を巧みに取り込んでいます。
すなわち。
大津にとって一人目の「忘れ得ぬ人々」である漁夫に行き合ったのは春。二人目の馬子とすれ違ったのが冬(正月)。三人目の琵琶僧は夏……あれ、秋は? と思った方は鋭い。秋は、季節としては描写されていませんが、人の名前として出てきています。そう、物語の聞き手は秋山松之助で、秋が補完されています。
春・夏・秋・冬……季節(四季)もまた巡るもの、円環を表していますよね。
さらに円環から輪廻、すなわち人生をイメージする方もいらっしゃるのではないでしょうか。これもやはり「忘れ得ぬ人々」によって表現されています。
一人目の漁夫は、「男であって、子供ではない」という表現から、大学生くらいの青年(あるいは18歳くらいの少年)を思い浮かべることができないでしょうか。二人目の馬子は働き盛り、二十四、五歳と思われる屈強な若者と、はっきり描写されています。三人目は、四十四、五歳、中年です。そして四人目は「亀屋の主人」でした。歳は六十ばかりの初老です。
これは、それぞれ異なった人物を描きながらも、全体として見ると一人の人間の人生を表しているのだと、捉えることはできないでしょうか? そのことを示唆するように、それぞれの描写がだんだん鮮明になってきています。
あらすじのそれぞれ該当する引用箇所を見てみると。一人目、「黒い点」。二人目、「黒い輪郭」。三人目、「その顔の色、その目の光は……」。ぜひ本編を読んで確かめてみてほしいところですが、四人目の描写はより詳細に描かれています。
フォーカスも全体像から表情へと、どんどんアップになっていっているように感じられ、これもまた人の成長を表現しているように思えます。
そしてここで荒川弘さんの漫画『鋼の錬金術師』を思浮かべた方がいらっしゃるでしょうか?(もしいたら連想力が凄い!)主人公のエドワード・エルリックが錬金術を使うときに行う手を合わせる「合掌」のポーズ(まるで神への祈りじゃないか)、あれも円を見立てていましたよね。
輪廻といえば仏教の思想ですが、仏教における「合掌」もまた世界そのものを表した行いです。
国木田独歩 さんの『忘れえぬ人々』のメインテーマは「一は全、全は一」の思想だといえるのではないでしょうか(いえなかったらすみません)。
「一は全、全は一」は、先述の『鋼の錬金術師』でも重要なモチーフとして取り上げられていました(エルリック兄弟が錬金術の修行をしたとき、錬金術を使用するにあたって最重要となる命題として、師匠から出題された問の答え)。
あらすじで、大津の締めくくりの語りを一部引用しましたが、これを読むと、大津が「忘れ得ぬ人々」を忘れ得ない理由は、その人々自体にあるわけではなくて、その人々を見たときの光景の裡にあることがわかります。本編を読んでみると、確かに「忘れ得ぬ人々」と行き合ったときの光景は、まるで写真を撮っているかのように、その情景が思い浮かぶほど鮮明に、それでいて簡潔に描かれています。思わず旅をしたくなります。
みなこれこの生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者ではないか
この一文は、輪廻、森羅万象、人の生と死、宇宙、あるいは神、世界そのもの――「一は全、全は一」ということに思いを馳せているように、僕には思えてなりませんでした(どうでしょうか?)。
最後に残された謎、「忘れ得ぬ人々」の最後に書き加えられていたのが「亀屋の主人」で、「秋山」ではなかった点は、大津にとって秋山が友達となっていたからだと解釈しました。大津にとっての「忘れ得ぬ人々」とは、家族や友達、恩師や先輩とは違うものだと語られていたからです。
もしくは、大津と秋山は年齢も近く、お互い無名であるなどの共通点があり、語り部と聞き手という対にもなっています。対と書くと、鏡映しを連想してしまいますが、大津は秋山に自己を投影していて、ゆえに客観的な対象として捉えられなかったのかもしれない、とも考えました。
友達に巡り合ったというよりは、自分自身に巡り合ったような感覚だったのでしょうか――だとすれば、その後交流がなかった事実も頷けるような気がします。友達なら連絡を取り合いたいと思うかもしれませんが、自分自身のような存在と積極的にかかわり合いたいとは思わないかもしれません。偶然出会えば楽しいのでしょうが……。
なんとなく、西尾維新 さんの小説『戯言シリーズ』の主人公・いーちゃんと殺人鬼・零崎人識(人間失格)を思い浮かべてしまいました。
主題を噛締め、三回読んでほしい!
そしてこの小説の真の姿とは!?
詳しくは「さらにかいせつ」で!
さらにかいせつ(感想は? でも四回読んでほしい!)
じつは、国木田独歩 さんの『忘れえぬ人々』は、「大津が幽霊なのではないか……」、という読み方ができるそうなのです。
以下、その根拠となる部分を引用してみます。
【亀屋の主人の大津への対応】
・主人は客の風采を視ていてまだ何とも言わない
・主人は不審そうに客のようすを今さらのようにながめて、何か言いたげな口つきをした
・それぎりで客へは何の挨拶もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった
以上の表現は、亀屋の主人のぶっきらぼうな態度を描写しているように受け取れますが、じつは亀屋の主人には大津が見えていなかったから……という見方も確かにできるように思えます。見えなかったのは実体がないから、イコール幽霊だったから、というわけです。
他にも、
・自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁っているこの人をじっとながめていた
・二十四、五かと思われる屈強な壮漢が手綱を牽いて僕らの方を見向きもしないで通ってゆくのを僕はじっとみつめていた
・しかし僕はじっとこの琵琶僧をながめて、その琵琶の音に耳を傾けた
どこか思わせぶりな表現が、大津の語りの中にも見られ、言われてみれば確かにと思わされてしまうのですが、はたしてこれは深読みのし過ぎなのでしょうか?
これって、M・ナイト・シャマラン監督作、主演ブルース・ウィリスさんの『シックス・センス』を彷彿とさせる構図ですよねえ……。この小説にはある秘密があります。まだ小説を読んでいない人には、決して話さないで下さい……みたいな。
もしも国木田独歩 さんがこの効果を狙って『忘れえぬ人々』を執筆されたのだとしたら……、本当に凄い!
始めに読んで一回、最後に残された謎を追って二回、メインテーマを味わうために三回――大津幽霊説を検証するため、ぜひ四回目の読書にトライしてみてください!
以上、『忘れえぬ人々 国木田独歩』の小説読書感想(てか、今回は小説読書解説?)でした。
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カッコいい! 独歩吟客! 『文豪ストレイドッグス』
・漫画版
・小説版
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最後までお付き合いいただきありがとうございました。
それでは今日はこの辺で。
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コメント
柄谷行人の「日本近代文学の起源」の「風景の発見」を呼んでみてはいかがでしょう? 柄谷行人はユダヤ系のフランクフルト学派だか、イエール学派のパクリとかいわれてますが
※以下ネタばれ注意
――ここには、「風景」が孤独で内面的な状態と密接に結びついていることがよく示されている。この人間は、どうでもよいような他人に対して「我もなければ他もない」ような一体性を感じるが、逆にいえば、目の前にいる他者に対しては冷淡そのものである。いいかえれば、周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner manにおいて、はじめて風景がみいだされる。風景は、むしろ「外」をみない人間によってみいだされたのである。
外部が遮断されたinner manなら幽霊にでもなるでしょ?
この批評はカッコよくて、文弱の痛いところをつき、且つうまいこと裏返せば他者を倫理的に批判する武器となもる。で、「そこにシビれる!あこがれるゥ!」となるけど、すぐに醒めます。私もそうでしたw
コメントありがとうございます。興味深いお話ですね。「inner manにおいて、はじめて風景がみいだされる」というあたり、「人が見る風景(人を含む)は突き詰めてみると、見る人の心象風景なのかな?」っていう本作の内容の一部(僕の勝手な解釈ですが)に通じる気がします。「外部が遮断されたinner manなら幽霊にでもなる」というご指摘には、考えさせられます。よいお話を聞かせてくださって、重ねて感謝です。
今さっき、まさに「忘れ得ぬ人々」を読了したところです。いや、なんで今までこの短編を読まなかったんだ!と自分の不勉強を恥じるやらこんな傑作があったんだと驚くやら。そして興奮冷めやらぬままネット検索してこちらのブログにたどり着きすごい!そういう事だったんだと目から鱗が落ちました!
「忘れ得ぬ」に出会った感動と「忘れ得ぬ」の味わい方に出会った感動の、2つの感動を今噛みしめているところです、有難うございます。ところでこの解釈は七十四夏木様のオリジナルの解釈なんでしょうか?だとしたら相当本をお読みになってるんでしょうね、素晴らしい。
コメントありがとうございます。