狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『お母さん達/新美南吉』です。
文字数1800字ほどの童話。
狐人的読書時間は約2分。
そんなことやってる場合じゃない!
生まれてくる赤ちゃんのために、
いまやるべきことをやらなくちゃ!
そのとおりだと思ったけれど、
お母さんもひとりの人間、
自己犠牲には限界がある。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
(今回は全文です)
『お母さん達/新美南吉』
お母さんになつた小鳥が木の上の巣の中で卵をあたためてをりました。するとまた今日も牝牛がその下へやつて來ました。
「小鳥さん、今日は。」と牝牛がいひました。
「まだ卵は孵りませんか。」
「まだ孵りません。」と小鳥は答へていひました。
「あなたの赤ちやんはまだですか。」
「だん/\お腹の中で大きくなつてまゐります。もう十日もしたら生れませう。」と牝牛はいひました。
それから小鳥と牝牛はいつものやうにまだ生れてゐない自分たちの赤ん坊のことで、自慢をしあひました。
「牝牛さん、聞いて下さい。私の可愛いい坊や達はね。きつと美しい瑠璃色をしてゐて、薔薇の花みたいによい匂がしますよ。そして鈴をふるやうなよい聲でちる/\と歌ひますよ。」
「私の坊やはね、蹄が二つに割れてゐて、毛色はぶちで尻つぽもちやんとついてゐて、私を呼ぶときは、もう/\つて可愛い聲で呼びますよ。」
「あら可笑しい。」と小鳥は笑ひをおさへていひました。
「もう/\が可愛い聲ですつて。それに尻つぽなんか餘計なものよ。」
「何を仰有るのですか。」と牝牛も負けずにいひました。
「尻つぽが餘計なものなら、嘴なんかも餘計なものよ。」
こんな風に話をしてゐたら、お終には喧嘩になつてしまひませう。ところが喧嘩にならない前に、一匹の蛙が水の中からぴよんと跳び出して來ました。
「何をそんなに一生けんめいに話していらつしやるのですか。」と緑色の蛙は聞きました。そして、牝牛と小鳥からそのわけを聞くと、蛙は眼をまんまるくして、
「それは大變よ。」といひました。何が大變なのか牝牛と小鳥が心配さうにきくと、蛙はいひました。
「あなた方は赤ちやんがもうぢき生れるといふのに、子守歌を習ひもしないで、そんな暢氣なことを言つていらつしやる。」
牝牛と小鳥は、どうしてこんなにうつかりしてゐたのでせう。早速子守歌を習はなければなりません。ところで誰に習つたものでせう。
「ぢやあ、私が教へてあげます。」と蛙がいひました。牝牛と小鳥は大變喜んで、蛙に子守歌を教へて貰ひました。
けれども、こんなにむづかしい子守歌はありません。とてもむづかしくて牝牛と小鳥はちつとも覺えられませんでした。それはかういふ子守歌でした。
げつ げつ げつ
げろ げろ げつ
ぎやろ ぎやろ
げろ げろ
ぎやろ げろ げつ牝牛と小鳥は、一生けんめいに習ひましたが、それでも覺えられないのでお終にはいやになつてしまひました。けれど蛙が、「子守歌を知らないでどうして赤ん坊が育てられませう。」といひますので、また元氣を出して、「げつ げつ げつ」と習ふのでした。そしてそれは夕方、風が凉しくなる頃までつづきました。
狐人的読書感想
これからお母さんになる小鳥と牝牛が、お互いのまだ生まれていない赤ちゃんについて自慢し合い、どちらの赤ちゃんがかわいいかで揉めていたら、そこへ蛙が現れます。
「そんなことやってる場合じゃないでしょ? 生まれてくる赤ちゃんをしっかり育てるために、いまやるべきことをやらなくちゃ。さあ、さっそく子守歌の練習よ!」
これからお母さんになるひとへ向けたメッセージのように感じました。よく言ってくれました、蛙!(ただし、まずやるべきことは子守歌の練習ではないかもしれない、笑)
小鳥と牝牛の言い合いも、瑠璃色の体色、バラのような匂い、鈴をふる声、蹄、毛色、尻尾など、身体的な特徴ばかり言っていて、あまり共感できませんでしたね。じゃあさ、思いどおりの容姿の子供が生まれてこなかったら、あなたたちはどう思うんですか? みたいな。
しかし、どんなかたちであれ、お母さん達の子供に対する思い入れのようなものは、ちゃんと伝わってきて、結局牝牛と小鳥が蛙の子守歌を一生懸命に習う姿は、まさに母親の生まれてくる子供に対する愛情が感じられるシーンで、じーんとくるところがあります。
ひとりの人間を生んで育てるのだから、親になろうというひとにはそれだけの覚悟を持って、子供をつくってほしいな、と願うのですが、だけどこの考え方、いまではちょっと古いのかもしれないと知って、最近衝撃を受けました。
というのも、とある歌が発表されて、その歌詞の内容に批判が殺到、いわゆる炎上してしまったというニュースを見たからです。
その歌詞の内容は「母親に自己犠牲を押しつけようとしている」といったものらしく、気になったので歌詞を読んでみましたが、なぜこれが批判されているのか、正直あまりよくわかりませんでした。
子供のためにいろんな我慢していることを「あたしおかあさんだから」とただただグチっているようなのですが、最後は「あなたに会えたから、あたしお母さんになれてよかった」と肯定的にとらえています。
子供からすれば「お母さんってそんなに我慢してたんだ……」と、普段なかなか知り得ないことを考えさせられたように思い、お母さんの秘められし思いが知れて、悪い歌ではないように感じたのですが、これを「お母さんだからそうあるべきだ」と言われているような気がして不快だ、というひとがいるらしいのです。
プロが広く世間に公表するものは、受け取り手がどのような捉え方をするか、細心の注意を払わなくてはいけない、なんて言われてしまえばたしかにそのとおりなのですが、狐人的にはただただ驚いてしまったというのが正直な感想です。
お母さんになるって(というか親になるって)、そのくらいの覚悟があってやることだと思っていたのですが、そんなふうに考えているひとは少ないのかもしれません。
いまは女性も仕事をして働く時代なので、必ずしも子育てが女性の至上の仕事だとは言えなくなってきているのでしょうが、気持ちだけはきっとこんなふうに、子供のためにすべてを犠牲にする覚悟みたいなものが、親にはあるのだと思っていました。
でも、そうじゃないんですね。
子供を育てるのは自分の人生のすべてではなくて、あくまでも自分の人生の一部にしかすぎず、だから子供のために自分の何もかもを犠牲にすることなんてできない。
自分が第一にあって、あるいは自分と子供はほぼ同等に位置していて、自分がすこぶる不満に思わない範囲でしか子供を優先させられない、というのは、思えば当たり前のことなのかもしれません。
親なのだから、子供を生んだのだから、それなりの覚悟を持ってそうしたわけで、だったら子供のためにいろいろと我慢して育てるのは、ある意味当たり前のことだとばかり考えてしまっていましたが、じゃあ、自分にそれができるのかと問われてみれば、たしかに難しく感じてしまいます。
覚悟がないんだったら結婚して子供なんかつくらなければいいじゃん、って反論ももちろん可能ですが、それはなんだか違うような気がするんですよね。
親が子供を育てるのは当たり前だと思い過ぎていて、いまにして思えば親に甘え過ぎていたのかもしれません。
てか、これ、『あたしおかあさんだから』の読書感想じゃね?
――というのが今回の読書感想のオチです。
読書感想まとめ
『あたしおかあさんだから』の読書感想ですね。
狐人的読書メモ
・「自分のことが一番だ」という自分本位は、やはり生物として当たり前のことであって、それがたとえ親であっても、子のために自己犠牲に徹するのは難しいのかもしれない。
・『お母さん達/新美南吉』の概要
1936年(昭和11年)『幼稚園と家庭 毎日のお話』(育英書院)にて初出。『校定 新美南吉全集第三巻』(大日本図書)収録。これからお母さんになるひとへ向けたメッセージのようだが、現代では古い考え方なのかもしれない。
以上、『お母さん達/新美南吉』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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