肝臓先生/坂口安吾=やっぱり医者になるなら、名声や地位や富を望みますか?

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

肝臓先生-坂口安吾-イメージ

今回は『肝臓先生/坂口安吾』です。

文字数23000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約73分。

研究室で研究するよりも、目の前で苦しむ患者を、
一人でも多く救いたい。

流行性肝臓炎と闘った歩く医者、
肝臓先生の生涯。

やっぱり医者になるなら、
名声や地位や富を望みますか?

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

終戦から二年後の八月、「私」は友人の彫刻家に招かれて、静岡の伊東温泉に赴いた。料理飲食店禁止令が出ている真っ只中で、しかしその日、伊東温泉で行われる三浦按針祭では禁令解除の布告が発せられ、酒でも寿司でもジャンジャンふるまわれると聞いていたのだが、それはデマだった。

友人の彫刻家は「別の席が設けてあるから落胆しないでくれ」と言って「私」を慰め、ひとつ肝臓先生の記念碑に刻むための詩を作ってほしいと依頼した。「私」は促されるままに、地元の漁師の家に五日間ほど泊めてもらうことになり、その間漁師家のあたたかいもてなしを受けて、そして肝臓先生の話を聞いた。

肝臓先生とは、赤城風雨という名の町医者のことだった。風ニモマケズ、雨ニモマケズ、町医者はたとえ私生活を犠牲にしてでも、患者のために「足の医者」であらねばならぬ、という信条を持って、町の医療に従事していた。

先生は足の医者として町の人たちの助けとなり、その人たちが安心して生活できればそれで充分だと思っていたが、運命はそんな先生を放っておいてはくれなかった。

戦時、昭和十二年の末頃から、先生は妙なことに気がついた。脚気かっけでも頭痛でも、診る患者診る患者、ほとんどすべてが肝臓炎の症状を示していたのだ。それは風土病ではあり得ず、であれば全国的な現象に違いなかった。――これは戦争によって大陸からもたらされたウイルス性の肝臓炎だ。

先生は悩み抜いた。研究室へ戻り、この肝臓炎の真相を学理的に解明すべきか。いや、それは研究室の人たちが果たすべき役割だ。自分は足の医者なのだ。目の前の病人の苦痛をやわらげる、そのことにこそ専心し、この地の何百人かの人々の手足となることが大切なのだ。

そう思い定めた先生は、「流行性肝臓炎」と名付けたこの病気の臨床的研究に没頭し、患者の痛みをとってやることに粉骨砕身した。一方で流行性肝臓炎が人々に認知されないことに焦りを感じていた。一日も早く然るべき機関がこれを研究し、正しい治療法を確立すべきなのだが……。

しかし先生の思いとは裏腹に、流行性肝臓炎はいっこう人々に認知されず、あれもこれも肝臓炎だと診断する先生を、一般人のみならず同業の医者さえもインチキ呼ばわりするようになった。挙句の果てには国民健康保険の報酬請求書類さえも保健課から疑われる始末――しかし先生は県の保険課、軍の医療部門などに流行性肝臓炎研究の必要性を訴え続けた。

こうして先生は「肝臓先生」と呼ばれるようになった。その名前には、流行性肝臓炎の実在を信じない人たちの揶揄と、先生に救われた人たちの尊敬の念が含まれていた。

肝臓先生はある日、足の医者として孤島の患者を診察するため小舟に乗っていたところを、軍事的な動きだと誤認されて、敵の飛行機の爆撃を受けて海の藻屑と消えた。「私」はこの話に感銘を受けて、この偉大な肝臓先生のために碑銘を書き記すことを決めた。

狐人的読書感想

肝臓先生-坂口安吾-狐人的読書感想-イメージ

碑銘を書いた「私」のように感銘を受けた僕も読書感想を書きたいと思います。

調べてみたところ、『肝臓先生』にはモデルとなった人物がいらっしゃったそうで、その人物は静岡県伊東市、天城診療所の佐藤清一さんという名前のお医者さんだそうで、天城診療所は現在では「肝臓先生資料館」となっているのだとか。

内容については佐藤清一医師が坂口安吾さんに語った話がそのまま反映されているらしく、小説である以上やはり脚色や美化は避けられないことだとは理解しつつも(現に肝臓先生の最期は完全なるフィクションとのことなのですが)、すごい人がいたものだなあ、とすなおに感心させられてしまいました。

僕が一番思わされたのは、肝臓先生が「流行性肝臓炎」の存在に気づいて、研究室に戻ってこの病気を学理的に解明すべきか、それとも目の前の患者の苦痛をやわらげることに専心すべきか、と葛藤したシーンでした。

研究室で研究すれば、この流行性肝臓炎の特効薬など「正しい治療法」を確立できるかもしれず、長い目で見ればそちらのほうがたくさんの人を助けることができるはずなのですが、足の医者たる信条を持つ肝臓先生には、目の前で苦しむ人たちを放っておくことはできません。

結局肝臓先生は、根治のための研究は然るべき研究者に委ねることにして、完全とはいかないまでも、患者の苦痛を少しでもやわらげるための臨床的な研究に粉骨砕身することを決めました。

ここに肝臓先生の誠実で朴訥な人柄が、如実に表れているように思いました。

多くの人を救う道があるのに、目の前の一人を助けるためにその道を捨てることが正しいのか――この選択をあるいは愚かな行為だと言う人もいらっしゃるかもしれません。

あるいは研究室で研究すれば、ひょっとしたらその成果が世に認められて、名声や富が得られたかもしれず、さらにこののち肝臓先生が味わうことになる人々の無理解や蔑みを経験せずにすみ、もったいないことをしたなあ、といった意見もあるかもしれません。

しかしながら、名声や富といったものにとらわれず、目の前で苦しんでいる人をまずは助けてあげたい、という肝臓先生の思いは、人間として尊く、とても尊敬できる心の持ちようではないでしょうか?

現代ではとかく物質的な富に目がくらみがちで、お医者さんといえばたくさんお金が稼げる職業だというような認識をまずは思ってしまうような気がしますが、お医者さんに限らず、人の命に携わる職業を選択する際には、このような心を大切にしなければならないのではないでしょうか、というようなことを漠然と思いました。

もちろん、人間は理想だけでは食っていけず、さらにときには、少数よりも多数を救う道を選ばなければならない場合もあるわけではあるのですが。

命に携わる職業に就く人、または就こうとしている人にはぜひおすすめしたい小説です。

とくにお医者さんを目指す方とか、現在お医者さんをされている方には読んでもらいたいです。

あまり詳しくはないのですが、お医者さんをやるにしても何を専門にして、どんなところで働くかによって待遇などが全然違ってくるのだとか聞いたことがあります。

もちろん富や名声を求めることが悪いことだとは言えず、そうしたものがモチベーションになってよりよい研究成果となり、新しい治療法や特効薬が開発されて、その結果たくさんの人の命が救われるわけで、それはむしろよいことのように思います。

とはいえ、もしも病気になって診てもらうならば、肝臓先生のような人にこそ診てもらいたいと思うのが人情という気がして、どちらがよいのか一概には語れないところではあるのですが、一考に値することではあるように感じています。

もちろん富も名声も求めて、肝臓先生のような信条を持って医療の道に進みたい、というのがベストで、そんな人が多いのが実際なのかもしれませんが、どうなのでしょうねえ……。

興味深いところではありますが、医療従事者やそれを目指す方々の本音を聞く機会というのはなかなかないように思い、想像が難しい部分であります。

いずれにせよ、肝臓先生も疑われてしまった、診療報酬の不正請求などはもってのほかですし、それ以外でも医療関係の不正や不祥事はたびたびニュースで見かけることもあるので、そういったお医者さんにこそ『肝臓先生』をおすすめすべきなのかもしれませんが、……とはいえ、立派な医療従事者の方々がほとんどなわけで、なんか偉そうに語ってしまってすみませんでした――というのが今回のオチ。

読書感想まとめ

肝臓先生-坂口安吾-読書感想まとめ-イメージ

とくにお医者さん、人の命に携わる職業に就く方、医療従事者の方、そしてこれからそれらを志す学生さんなどに読んでもらいたい小説です。

狐人的読書メモ

太宰治『雀』を読んだばかりだったので、「伊東温泉」また出てきた! と思った。ちなみに同じく太宰治の『眉山』では「料理飲食店禁止令」も扱われていて、これは戦後の食糧難対策のひとつなのだが、僕はこれを読むまで知らなかったので印象に残った。肝臓先生の「足の医者」の信念はなんとなく『るろうに剣心』の剣心の生き方を彷彿とさせた。作中、心に残ったフレーズも多かったので、以下に残しておくことにする。

・今回心に残ったフレーズたち

生れて以来、一度や二度は詩をつくったことがないでもないが、散文を書きなれた私には、圧縮された微妙な語感はすでに無縁で、語にとらわれると、物自体を失う。物自体に即することが散文の本質で、語に焦点をおくことを本質的に嫌わねばならないのである。

ヒラメ族というものが、すべて一律にただヒラメであって、太郎ヒラメでも花子ヒラメでもないように、彼らにとって、人間族は一律にただ人間であって、その絶対の信頼感と同族感が漁師町に溢れているのである。

漁師町のこの性格を知ることは、これから私が語る話に深い関係があるのである。彼らは心が正しいから、心のよこしまな人とつきあうことができる。どんな善良な人とでも、どんな邪悪な人とでも、つきあうことができるのである。

町医者は私人としての生活をすくなからず犠牲にしなければならないものだ。急病人の知らせをきけば、深夜に枕を蹴ってとびだして行かねばならず、箸を投げすてて疾走して行かねばならぬ。病める者の身を思え。病める者を看る者の心を思え。

しかし、神は一介の町医者たる赤城風雨ごとき者に、何を試錬したもうのであろうか。自分は一介の足の医者として全うしたいと希うほかには何も望んではいないはずだ。名声も地位も富も望んではいない。病める者が貧しければ、風雨にめげず三年五年往診をつづけて、一文の料金を得たこともない。むしろ投薬の度に鶏卵や新鮮な果実や魚などをひそかに添えて平癒の早からんことのみを祈っていたはずであった。神はこれを偽善として憎みたもうのであろうか。

狐疑をすてよ。

言いたい者には、言わしめよ。人に対して怒ってはならない。ただ汝の信ずるところを正しく行えば足りるのである。

・『肝臓先生/坂口安吾』の概要

1950年(昭和25年)『文学界』にて初出。医者の本分というものを考えさせられた坂口安吾の短編小説。医師、医療従事者、それらを志す者におすすめ。

以上、『肝臓先生/坂口安吾』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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