狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『女難/国木田独歩』です。
文字数24000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約57分。
落ちぶれた盲人が吹く尺八の音には、
哀音悲調の響きがある。
しかし、その身の上話を聞いてみると……
女難ってか、自業自得じゃね?
女の人の方がかわいそうじゃね?
ってなるけど、どう思う?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
男が街で、三十二、三歳の盲人に行き合う。彼は流れの尺八演奏者で、男はその哀調の音色に心惹かれ、彼を自宅に招く。曲が終わると、男はその音色に含まれる悲哀の、底にあるものが気になり、失礼とは思いつつ、彼に身の上話をしてくれるよう頼む。彼は女難の人生を語り出す。
修蔵は、貧乏氏族の生まれで、五歳のとき父が亡くなり、母と祖母との手で育てられた。修三は気の弱い子で、母は優しいばかり、祖母はそれらが気に入らず、「もっとしっかり男らしく育てるべきだ」といつも母に言っていた。母はそんなことを気にしてか、ある日、修蔵を売卜者に見せる。
売卜者は「この子はきっと出世する。しかし一つ、女難には生涯気をつけなければならない」と言った。母はこれを聞いて大喜びするが、以後、修蔵に女難について教えるようになり、修蔵は常に女難のことを意識するようになる。
修蔵にとって最初の女難といえるものは十二歳のときに訪れた。近所に住むおさよという、十五歳くらいの娘が修蔵を家に呼んで、よく可愛がってくれるが、修蔵は女難のことが気になってすなおに心を開くことができないでいた。するとある日、ひょんなことから言い合いになり、けんか別れして以後仲直りすることはなかった。
母と祖母は修蔵が十五歳のときに立て続けに亡くなり、修蔵は叔母の家に引き取られた。十八歳から村の小学校の先生となり、自己流で尺八を吹いている老人の弟子分となり、尺八の技をやはり自己流で身につけたのはその頃のことだった。
修蔵に、つぎの女難が訪れるのは十九歳のとき。同年代くらいの知人の妹に惚れられて、兄に無理矢理乞われる形で恋仲となる。修蔵の頭にはやはり女難のことがあったが、十七歳のお幸はとてもかわいい娘で、気が弱く、年頃だった修蔵に抗う術はなかった。
やがてお幸が妊娠すると、兄は責任を取れ、と詰め寄ってくる。修蔵はお幸との結婚を決意するが、生来の気の弱さのために、それを叔母に言い出すことができず――ついに女難のせいにして、村を逃げ出してしまった。
最後の女難は修蔵が二十八歳のときだった。その頃はやや運が向いてきていた。鉄道局に勤めることになり、ある長屋に住んでいた。そして、向かいの大工の藤吉夫婦と家族同然に仲良くなった。藤吉の妻はお俊といい、お俊はまるで二人の夫がいるかのように、修蔵の世話をあれこれと焼いてくれた。一人で修蔵の家に遊びにくることもあった。
お俊は二人の結婚の世話をしてくれた、親方の昔の女だという噂があり、藤吉はそのことを気にしていた。酔った勢いで藤吉はお俊を家から追い出し、その晩、修蔵はお俊と通じた。
以後も藤吉は例の件を気にし続けて、お俊と別れて出稼ぎに行くと言い出すが、修蔵は自分がお俊を預かるから、しばらく頭を冷やして、また帰ってきて一緒になるがいいと諭す。藤吉は感謝の涙を流して出かけていく。
それから修蔵とお俊は夫婦気取りで暮らし出した。が、一月ほどすると修蔵は眼病にかかる。目は悪くなる一方で、仕事も一月以上休んでいた。お俊は最初かいがいしく修蔵の看護をしていたが、ある日別の男を連れてきて、そのまま一緒に出ていってしまった。
修蔵の目の前に、母のやつれた姿と、孕んだまま置き去りにしたお幸の姿が浮かんできた。これは罰だと思った。修蔵は、とうとう盲目になり、仕事を辞めて、いまの落ちぶれた姿になったという。いまでは悲しいとも思わず、尺八の音につれて恋しい母のことを思い出し、いっそのこと……と考えつつも、それができない日々を送っている。
盲人が去り際に吹いた一曲、男はその哀音悲調を聴くに堪えなかった。
狐人的読書感想
その哀音悲調を聴くに堪えなかった……って。100%、修蔵の自業自得だって思っちゃうのは、僕だけなんですかね?
最初の女難ではちゃんと仲直りする努力を怠り、つぎの女難では相手の女性を妊娠させておいて責任を取らずに逃げ出し、最後の女難では人妻と通じてしまい――同情の余地はあまりないように思えてしまうのですが……。
とはいえ、あえて同情の余地を探るのであれば、生来の気の弱さは本人だってそんなふうには生まれたくはなかったでしょうし、小さい頃から母親に女難についてうるさく言われ続けて、それを妙に意識してしまったがために道を踏み外してしまった、というところはあるような気がします。
性格というのは育ってきた環境によって培われる部分が大きいように感じますが、先天的な資質というものも否定しがたく、さらに子供の頃、親にうるさく言われたことって、成長しても妙に頭に残っていたりして、それがコンプレックスになることを思えば、仕方なかったのかなと感じない部分もないではありません。
それらのことを、どうしようもなかった運命的なものだと捉えるのならば、修蔵の吹く尺八の音に哀音悲調を聴くことはできるような気がしてきます。
人生って、他人から見たり、あとで振り返ったりすれば、「あのときはああすればよかった」とか「このときはこうすべきだった」とか、冷静に分析できるのかもしれませんが、いざそのときには頭の中が真っ白で、まったく愚かしいと思える行動を取ってしまうものなのかな、という気がします。
理屈どおり、思いどおりにならないのが人生だ、ということが描かれているのだとしたら、そこには不快な男の性ではなく、深い人生の教えが、反面教師的な意味合いで含まれているのかもしれません。
しかしながら、「女難」という言葉からは悪女から被害を受けた男性の災難、みたいな印象を受けて、なんとなくこの作品のタイトルにはふさわしくないように感じてしまうんですよね。
字面だけなら「女性に関する災難」となって、意味的な齟齬はないのですが、ただの男の(修蔵の)被害妄想だろ、自業自得だろ、などとどうしても思ってしまいます。
最初の女難はこじつけっぽくて、とくに2番目の女難の相手、お幸は一方的な被害者で、最後のお俊はちょっと悪女っぽいですが、修蔵の悪い行いのほうが目立ち過ぎて、やはり罰だという思いが強いです。
でも、そんな話を語る修蔵自身は、自分のことをかわいそうだと言いたいわけではなくて、ただあったことを乞われるままに語っただけの話なのですから、修蔵を非難するのは間違いかもしれません。
修蔵の吹く尺八の音色に、悲哀を感じて同情しているのはあくまでも聞き手である男であって、演奏者の人生がどんなに自分本位なだけの悲劇であったのだとしても、その内容が音楽には逐一含まれるわけではないので、やはり悲しみの感情だけが音となって人の心をふるわせるのだと思えば、言動など人間性はあまりよくないのだけれども、音楽はなぜか人心を惹きつけるミュージシャンを連想してしまいます。
作者の人格と作品とは切り離して考えなければいけない、みたいな。
ただ、そうなってくると、音楽や絵画って、けっきょく人にわかりやすい感情のうわずみ的なものしか表現できないのかな、などと生意気なことを考えてしまいます。
その点、小説などの物語は、人間感情のより深い部分を描写することができて、その点で他の表現物よりも優位性がある、というふうに思います。
だからといって今回、僕がこの作品に描かれている人間感情を正確に読み取れているだろうかは、甚だ疑問ですが……。
じつはここまでつらつらと書いてきた以上の、もっともっと深い人間や運命の悲哀というものが、『女難』には描かれているのでしょうか?
ぜひ他の方の感想も聞いてみたいな、と思いました。
読書感想まとめ
悲しい人生だけれど、話を聞いてみれば自業自得だと思います。しかし、人生の詳細までは音楽で伝えることはできず、そこにはただただ哀音悲調が含まれるのです。音楽はわかりやすい感情表現しかできないように感じましたが、それは僕に音楽的な素養がないだけで、単純にそうだとは言い切れません。他の人がこの作品を読んでどう感じるのかが気になりました。
狐人的読書メモ
その作品に含まれる人間感情の表現は、わかりやすいからこそ多くの人に受け入れられるという面はあるだろうし、複雑ゆえによくわからない吸引力がある作品というものも存在する――表現というものの難しさを思う。
・『女難/国木田独歩』の概要
1902年(明治35年)『文藝界』にて初出。独歩が自身の生涯から感得した女性認識に「諸悪の根源たる婦女」というものがあったらしい。この作品にはそんな思いが反映されているようだが、それが自己責任にもかかわらず、独りよがりでそう思い込んでいたものだったのか……僕の知識量では判断できない。
以上、『女難/国木田独歩』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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