置土産/国木田独歩=親しくても、ちゃんと言わないと伝わらない。

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狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

置土産-国木田独歩-イメージ

今回は『置土産/国木田独歩』です。

文字数8000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約21分。

友達のいない僕だけど、あの娘だけは僕に親切にしてくれた。
夢のため、遠くへ行く前に、伝えたい、この想い
――とか書くと青春小説っぽいですが、
皮肉に人間の孤独を描いた作品です。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

明治二十七年の夏、山口県柳井市、八幡宮の通りに、三角餅の茶店があった。三角餅は元来丸い形のあんこ餅を、人目を惹くため三角にしたところ、これがたちまち大ヒットした。酒や料理も出すので、若者たちも集まり、店はとても繁盛していた。

この三角餅の茶店には、店主とその女房の姪に当たる二人の娘が働いていた。スリムなお絹とぽっちゃりのお常だ。気の利いたことは言えなかったが、まじめが取り柄の二人だった。

さて夜になり、店を閉めて、九時前にはお風呂をすました二人は、店の涼み台に出て涼んでいる。湯上りの、艶めかしい年頃の娘が二人いれば、そこには若者たちが自然集まってくる。油売りの吉次もそんな若者の一人だった。

夏も半ばを過ぎたお祭りの晩、吉次とお絹が田んぼのほうへ隠れたということで噂になったが、実際に噂のようなことは何もなかった。吉次はこの日、戦争に行ってひと稼ぎし、それを元手に自分の店を持ちたいという話を、お絹に打ち明けようとしていたのだが、結局言い出せずじまいになった。

それから三日、吉次は油売りの仕事を休み、三角餅の茶店にも現れなかった。一人で悩み抜き、明日はいよいよ戦地へ、という晩になって、吉次は茶店に姿を見せる。

さあ、いよいよ打ち明けようと思うのだが、どうしてもタイミングがつかめない。そのうちにお絹が「海に行こう」と言い出し、吉次とお絹とお常は、連れ立って海へと歩く。

海で戯れるお絹とお常を眺めながら、結局言い出せなかった自分を吉次はなさけなく思い、二人を残し先に帰ることにして、八幡宮にお参りし、今日までの息災、これから向かう戦争での安全、世話になった三角餅の茶店の幸福を祈念し、二人に渡そうと思っていた櫛二枚を賽銭箱の上に置いて立ち去った。二人の手に渡ればいいな、と淡い期待を抱きながら。

吉次の願いが通じたのか、櫛二枚は翌日の朝早くにお参りにきた二人の娘に渡ったが、何も知らないお絹はそれを叔母にあげてしまう。

三角餅の茶店で吉次の話が出なくなった頃、店の主人は吉次の戦友だった男からその訃報を聞いた。二日ほどの休暇中に、実家で縁談の話を聞いて帰ってきたお絹は、叔父からその事実を聞かされる。

吉次はお絹のためにお金を残していたのだが、吉次をりっぱに弔ってくれと、お絹はそのお金を押しやった。

狐人的読書感想

ふむ。三角餅おいしそう。

って、いきなりあさ~い感想ですが、山口県柳井の銘菓として、実際にあるそうですね、三角餅。

以前に『源おじ』の読書感想で、この作品タイトルから由来して、名前もそのまま『源おじ』という佐伯銘菓(出雲堂)がある、という余談をしましたが、国木田独歩さんはお菓子に縁があるみたいですね。

実際、明治二十七年の七月頃、独歩さんは作中の「三角餅の茶店」のモデルにしたのだと思われる「藤坂屋」に間借りして暮らしていたそうで、お世話になったお店の三角餅を宣伝したい、という気持ちもあったのだといいます。

などと、あまり作品の本質とは関係のない話から入ってしまいましたが。

というのも、決して読みにくいわけではないのですが、独特の文体のためでしょうか、正直、はじめこの作品の意味がよくわからなかったからなのです。

しかしながら、よくよく読んでみると、この作品にも、独歩作品の多くに通底するテーマである「人間の孤独」というものが描かれているように感じられます。

一見すると、吉次が空回りしているだけの物語に思われたのですが、これはどうやら僕の読み方が浅かったようですね(「三角餅おいしそう」同様に)。

吉次はまじめに働く若者なのですが、少し偏屈なところがあるゆえに、自分の悩みや考えを相談できる友達がいませんでした。

そこでいつも親切にしてくれるお絹に、戦争に行ってお金を貯めて、将来自分のお店を持ちたいというビジョンを相談し、お世話になった三角餅の茶店の人たちにはそのことを告げて出発しようと考えていたのですが、結局それは最後までできませんでした。

タイトルの「置土産」となった櫛二枚も、どうにかお絹とお常の手に渡るも、まさか吉次の想いが込められた品だとは露知らずに、お絹は叔母さんにその櫛をあげてしまいます。

まあ、事情を話せず、櫛を渡せず、完全に吉次が悪いといってしまえばそれまでなのですが、このあたりに切なさや人の孤独というものを感じられるように思いました。

最後、お絹が自分のために吉次が残してくれたお金を押しやるシーンからは、皮肉みたいなものも読み取れるんですよね(お絹としてはよかれと思っての慎みだったのですが、あげるほうからすると受け取ってもらえいないって……、のような)。

結局のところ、どれだけ相手のことを想っていたとしても、それをしっかりと相手に伝わる形としての言葉や行動で示さなければ、ちゃんと相手には伝わらないものなんだろうなあ、みたいな。

物語とかだと、「目と目で通じ合う」とか、「言わなくても相手に気持ちは届く」だとか、そういうドラマチックなことを期待してしまうところが僕にもたしかにあるのですが、これただの妄想なのかもしれません。

これらを全部否定することは当然できないにしても、現実を鑑みるに、「ちゃんと言わないとわからないよ」というシーンはけっこう多いような気がします。

家族だから、友達だから、恋人だから。

言わなくてもわかってよ。わかるよね。

いいえ、わかりません。

とはいえ、前述のとおり、人が人の気持ちをまったくわからないわけじゃない、だから何も言わなくても自分の気持ちをわかってもらえると期待してしまい、それがカン違いだったと失望する、みたいな――なんとなく思わされることの多いところです。

僕の結論としては、まあ、伝わっても伝わらなくてもどっちでもいいや、ってことはあえて言うまでもなく、ちゃんとわかってほしいことはしっかりと言葉や行動にして伝えるべきなんだろうな、ということなのですが、それがなかなか難しい場面もありますよね。

いわんや恋愛ごとにおいては。

この作品の見どころというか、考えてしまうところというかはもう一つあって、それは吉次はお絹が恋愛的に好きだったのかなあ、また逆にお絹はどうだったんだろう、というところです。

僕の感触としては、お互いに友達以上の感情は持っていなかったのではなかろうか、というふうに見受けられたのですが、どうでしょうね?

そうなってくると、この物語は「他人と他人は理解し合えない」ということをいっているようにも思えてきて、じゃあ、時間をかけて関係性を構築していければ、わかり合えない人ともいずれはわかり合えるのかな、というあたりに希望を見出すことができるように思います。

ただ、『源おじ』もそうでしたが、国木田独歩さんが人間の絶望的な感情を描いている場合、それは容赦ないもので、希望の入り込む余地など微塵もないなと感じることが多いわけで、だったらこの作品もやっぱり「人間とは孤独な生き物」ということを皮肉的に描いているだけの作品なのであって、上記のような希望を見出す読み方は、僕の単なる牽強付会に過ぎないのかもしれず、正しい読解とはいえないかもしれません。

まだまだ勉強が足りないな、と皮肉を感じた読書になってしまった――というのが今回のオチです。

読書感想まとめ

皮肉なまでに人間の孤独を描いた作品(たぶん)。

狐人的読書メモ

思えば、孤独という言葉を使わずに、人間の孤独を小説で描くというのはすごいことだ。これはどんな感情についてもいえることだ。悲しいという言葉を使わずに悲しみを描き、嬉しいという言葉を使わずに喜びを描き、怒るという言葉を使わずに怒りを描く、それが物語というものなのかもしれない(当たり前のことを言っているのかもしれない)。

・『置土産/国木田独歩』の概要

1900年(明治33年)12月、『太陽』にて初出。のち『武蔵野』に収録。「三角餅の茶店」には、実際の独歩の体験が色濃く反映されている。

以上、『置土産/国木田独歩』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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