狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
文字数15000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約45分。
坂口安吾の小学校の教員時代。
悪い子供こそ美しい魂を持っている。
どうしても悪いことをせずにいられなかったら、
人を使わず、自分一人でやれ。
善いことも悪いことも一人で。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
二十歳の頃の「私」は、田舎の小学校で代用教員をしていた。分校の五年生、七十人ほどを受け持っていた。どうも本校では手に負えない子供たちのようであったが、「私」は「本当にかわいい子供は悪い子供の中にいる」と思った。子供はみんなかわいいが、本当の美しい魂は悪い子供が持っているのだ。
田中という牛乳屋の子供はよく悪さをしたが、「先生、オレは字は書けないから叱らないでよ。その代り、力仕事はなんでもするからね」などと可愛いことを言う。
女の子は五年生ぐらいになるともう女で、中には生理的にさえ女なのではなかろうか、と感じさせる生徒もいる。男の悪童をかわいがる「私」へ、妬ましさをぶつけてくる女の子の嫉妬深さには、ほとほと困らされた。
鈴木という女の子は暗い子だった。家庭環境にとある問題を抱えていて、家の罪悪の暗さがこの子の性格に影を落としていた。
石津という女の子はすでに女の色気があった。しかし性格が希薄で、なのにいつも明るくポカンと笑っている姿は、どこか将来の不安を感じさせた。
豆腐屋の子の山田は、身体が大きくケンカも強く、男勝りの女の子だった。兄弟の中で一人だけ実子ではなかった。母親がそれを「私」に相談しにきたことがある。あの子の性格がひねくれているのはそれが原因ではなかろうか、と。「私」は「説教してくれ」などお門違いだと母親を諭した。問題は両親の愛情があの子に伝わっているかどうかなのだ。
私は放課後、教員室に一人、いつまでも居残っているのが好きだった。光と風に幸福を感じた。が、そんなときには自分の幻影を見ることがあった。もう一人の「私」は言う。苦しまなければならないよ――こんなときには、不幸の影を持つ少女たちを思った。
分校の主任は癇癪持ちで、有力者の顔色ばかりうかがっていた。じつは小学校の先生には、道徳観が偏っている傾向がある。教師は我慢が多く、だけど世間一般の人はやりたい放題できる、だからちょっとはめを外すくらい――などと思っていると大それたことをやらかしてしまう。これは田舎の人間や宗教家にも共通する傾向だ。
この主任が、有力者の子の萩原を大事にするよう「私」にほのめかした。「私」は子供たちをみんなかわいがっていたので、その必要性は感じなかった。
ある日萩原は、田中に脅されて万引きをしてしまう。「私」は深い事情は聞かず、代金を立て替えてやった。萩原は後日、そっとお金を返しにきた。
田中は悪いことがバレて叱られそうになるとよく働き出す。「先生、叱っちゃ、いや」。「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」。
思い出すと、教員時代の一年間は、どこか「私」自身のことではないような、変な気持ちがする。
狐人的読書感想
これはすごくおもしろかったです。
私小説、自伝的小説、とのことですが、著者と作品をそのまま結びつけることはできないとはいえ、坂口安吾さんはすごくいい先生だったのではなかろうか、などと思わされてしまいます。
熱血先生ではありませんが、静かに論理的にやさしさを示せる先生というのもいいですよね。すばらしいフレーズがいくつかありました。
とはいえ、現実的にそんな先生は見たことがなく(僕だけ?)、やはり理想は追い求めたりなんかせず、教師も一つの職業としてのみ見るべきである、というのが、ひねくれものの僕の意見ではあります(ひねくれすぎ?)。
「本当に可愛いい子供は悪い子供の中にいる」というのは、「出来の悪い子ほどかわいい」にも通じる、よく聞く言葉ではありますが、実感を伴って語られると説得力がありますよね。
「女の子は小さい頃から女」というのも上記同様の感想を持ちました。
物語の中では、そうした数人の女の子のことが印象的に語られていますが、思ったのは「家庭環境が子供の性格に大きな影響を与える」ということなのです。
人間の性格形成にかかわることというのは、「先天的な事柄」と「後天的な事柄」に大きく分けられるように思うのですが、どちらがより深く人間の性格に影響を及ぼすのだろうか、などということはたまに考えてしまいます。
「悪い家庭では悪い人間が育つ」と考えることができる一方で、「悪い家庭だからこそ善い人間が育った」ということもあるように思っています。
一般的に見て悪いとされる家庭で育ったから犯罪者になってしまったケースもあり、逆に悪かった家庭環境を反面教師のように捉えてよい家庭を築いたケースも聞きます。
しかしながら、当然両方のケースがまったく同条件だとはいえず、だからこそ同条件の家庭で育った場合、どういう人間に育つのか、といった実験的思考にはちょっと興味を持ってしまいます。
要するに、「人間は性善説なのか性悪説なのか」ということを言っているだけなのですが、「答えのない問題」というのは、どうしても考えてしまうところがありますよね。
ほかに興味深かったのは「小学校の先生には道徳観が偏っている傾向がある」というところです。
はたして真実か否かはわかりませんが、一定以上の説得力はあるように思いました。
職業だったり宗教だったり住む場所だったり、そういうものが原因で、自分は抑圧されていると感じている人間は、たしかに他人がやりたい放題やっているように見えて、自分だってこれくらいはよかろう、などとはめを外し過ぎてしまうきらいがある、というのはわかるような気がします。
みんな同じように我慢しているのだとは、人間なかなか考えられないものなのかもしれません。
ところで、「大人と子供の違い」については考えたことがあるでしょうか? この作品ではそのことにも言及されている部分があります。以下の引用部分です。
子供は大人と同じように、ずるい。牛乳屋の落第生なども、とてもずるいにはずるいけれども、同時に人のために甘んじて犠牲になるような正しい勇気も一緒に住んでいるので、つまり大人と違うのは、正しい勇気の分量が多いという点だけだ。ずるさは仕方がない。ずるさが悪徳ではないので、同時に存している正しい勇気を失うことがいけないのだと私は思った。
ちょっとわかりにくい気もしましたが、つまりは悪いことをしてしまったときに「それを素直に認めて反省し、謝れる勇気」とかのことをいっているのかなあ、と僕は思いました。
僕は、「大人と子供の違い」って、基本的にないような気がしています。子供みたいな大人もいれば、大人みたいな子供もいて、大人と子供の線引きは、年齢などで全体的にできるものではないことのように感じています。
ほかに雑学的というか、人生に役立つ心構えみたいなことが書かれている部分もあって、おもしろかったです。
「私」が教員になるとき、知人がしたアドバイスに「小さな声で語り出せ」ということがあります。これは心理学的にも正しいそうで、小さい声で言われたほうが、人は気になってよく聞こうとするのだといいます。
「私」が下宿先で同宿した人に、「あたたかい御飯は食べない」という男がいました。これもダイエット的に理にかなっていて、ご飯は冷やすとレジスタントスターチという成分が増えるそうで、これは消化吸収をゆるやかにし、脂肪をつきにくくするのだとか。
さらに、「私」は物に執着がなかったそうで、その理由は「魂の限定されることを欲しなかったからだ」といいます。これは、もったいないと捨てられずにいると、溜まっていく物が生活や時間を圧迫して、心身の負担になってしまうのでよくないとする「断・捨・離」に通じていますよね(あるいはそのものをいっていますよね)。ちなみにこれはインドのヨーガの行法がもとになっている考え方なのだそうです。
――とかなんとか、とにかく思わされるところの多い作品でした。おそらく誰が読んでも何かを思わされるところのある小説です。内容もおもしろかったので、安吾作品の入りとしておすすめします。
読書感想まとめ
坂口安吾さんは教師時代いい先生だったのかもしれない。
狐人的読書メモ
とくに教師を志す人におすすめできる作品かもしれない。現代だからこそ、学校で教えるべきこと、家庭で教えるべきこと、その線引きが難しい部分もあるのではなかろうか、などとふと思った。
・『風と光と二十の私と/坂口安吾』の概要
1947年(昭和22年)『文芸』にて初出。私小説・自伝的小説。とてもおもしろかった。ネットで見ても人気は高い作品のようだ。
以上、『風と光と二十の私と/坂口安吾』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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