鹿狩り/国木田独歩=鹿狩りの思い出話に秘められし大好きだった義父の悲哀。

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狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

鹿狩り-国木田独歩-イメージ

今回は『鹿狩り/国木田独歩』です。

文字数9000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約29分。

少年の僕は鹿狩りに行き、
そこでおもしろい今井のおじさんを好きになる。

しかし今井のおじさんの明るさの裏には
ある悲しみが隠されていた。

誰かと分かち合って悲しみは半分になる?

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

そのとき十二歳だった「僕」はおじさんたちの鹿狩りに連れて行ってもらえることになった。鹿狩りの一行のなかに子供は「僕」一人だった。十人ばかりのおじさんたちのなかに今井のおじさんもいた。今井のおじさんは一番声が大きく、一番元気があり、一番おもしろそうで、一番太っていて、一番年をとっていた。「僕」は今井のおじさんを一番好きになった。

まるで山賊のような一行は夜の十時頃に町を出た。「かの字港」から船に乗り、明け方に「さの字浦」に着く予定だった。道中、やはり今井のおじさんが一番おもしろいことを話してみんなを笑わせた。「僕」も楽しくその話を聞いていたが、いつの間にか眠ってしまった。

鎌のような月が出ていた。「僕」は今井のおじさんに起こされて、山の根近くに上陸した。猟師の家で夜明けを待ち、それから一行は意気揚々と山に向かった。途中、十頭ばかりの猟犬を連れた六人の猟師の一団と合流した。いよいよ猟場に踏み込むと、「僕」は始終今井のおじさんのそばを離れないことにした。二人で草藪くさやぶをかきわけて進み、やっとちょうどいい場所を見つけて本陣を据え、鹿が来るのをひたすら待った。

やがて遠くで鉄砲の音がして、一行の合流ポイントへ行ってみると、松の枝に一頭の鹿が逆さ吊りにかけられていた。ももの傷を見た「僕」は鹿をかわいそうに思った。

お昼になって、今井のおじさんと二人、草の上に足を投げ出して弁当を食べた。「僕」はいまに至るまで、このときほどうまい弁当を食べたことがない。おじさんはそのままごろりと横になった。

午後一時、まだ冬ながら南方温暖な地方の小春日和こはるびより、うらうらと照る日影は人の心をとろけさせる。山の風は枯葉かれはまじりの青葉をきらめかせ、海は穏やかに雲のない大空を映し、北の四国の山々は手に取るがごとく――

美しい景色に、「僕」のまぶたも重くなってきたとき、小藪こやぶの陰から大きな鹿が現れた。おじさんを起こせば気づかれてしまう……。「僕」はおじさんの鉄砲を手に取って、大きな鹿に狙いを定めズドンと撃った。おじさんは飛び起きて、鹿を一目見るなり「撃ったな!」と叫んだ。なんともうれしそうな笑いを浮かべて、「僕」に抱きついてきた。おじさんの目元には涙が浮かんでいた。

その日一行が仕留めた六頭の鹿の中で、「僕」の撃った鹿が一番大きかった。今井のおじさんは誇らしげで、帰り道も「僕」をそばから離さなかった――。

今井のおじさんには将来の望みをかける一人息子がいた。しかし息子はその四、五年前から気が違って廃人同然、おじさんの望みはほとんどなくなっていた。鹿狩りの日から二か月ほど経って、この息子が鉄砲腹で亡くなった。「僕」は今井の家へ養子にもらわれることになった。

――優しく、勇気があり、義理堅く情け深い、そして気の毒だった義父の、今年は十三回忌にあたるので、子供のときの鹿狩りの物語はなしをしました。

狐人的読書感想

鹿狩り-国木田独歩-狐人的読書感想-イメージ

この小説は、十二歳の少年が鹿狩りに行くことになり、たまたま大きな鹿を仕留めたときの思い出を語ったお話でしたが、じつはそのお話は、大きな不幸と悲しみを背負った今井のおじさんを描いた物語であって、さらに大人になった僕の、お義父さんのための鎮魂歌でもあったという、すごく秀逸な構成の小説だと思いました。

将来の望みをかけていた一人息子が、廃人同然となってしまった今井のおじさんの悲しみと絶望、壮絶なる内心は察して余りあるものがあります。

しかし人前では決してそれを見せず、一番大きな声で、一番元気に、一番おもしろい話をする今井のおじさんの姿は、どこか悲痛なものを感じさせますが、人として見習うべき姿勢のように僕は思いました。

悲しいときに悲しいと言うことも大切かもしれませんが、周囲の人たちを悲しませないために、心配させないために、あえて明るくふるまう姿勢もまた大切なような気がします。

誰かと分かち合って喜びは二倍に、誰かと分かち合って悲しみは半分に、みたいな考え方もありますが、こと悲しみについては、誰かと分かち合って半分になる性質のものではないように、僕は考えてしまうのですが、どうでしょうね?

自分自身についての悲しみが、誰かと共有することで減じるということが、はたして本当にあるのでしょうか?

もし誰かと共有することで悲しみが減じないのであれば、共有したことによって誰かを悲しませるよりも、あるいは鬱陶しく思わせてしまうよりも、一人で悲しみを抱えて、周りに心配をかけないよう、今井のおじさんのように強いて明るくふるまうべきだ、という気がするのです。

当然ながら、悲しいとは言い出せずに無理をしてしまう人のあることを考えて、やはり誰かの助けで悲しみが減じることもあるのだと思えば、上記について一概には言えないところはあるでしょうし、また悲しみを上手に隠してふるまうことは大変に難しいことだと感じるので、できるかできないか、といった問題もあるように思います。

自分は上手く悲しい気持ちを隠せているつもりでも、周りの人からしたら全然それができていなくて、かえって悲痛に見られてしまったり、あるいはウザがられてしまうという事態も想像してしまうのですよね(人の目を気にし過ぎるのかもしれませんが)。

今井のおじさんは、少なくとも子供の「僕」からしたら元気でおもしろいおじさんに見えたわけで、元気におもしろい話をして周囲の大人たちを笑わせていました。

そこには周りの大人たちの多少の気づかいが含まれていたとしても、悲しみと絶望を背負った今井のおじさんの生き方は、やはり一定の効果は表していたわけで、なのでもし僕にも悲しみや絶望が訪れたとき、今井のおじさんのように周囲の人たちに心配をかけないよう明るくふるまい、それが無理でもせめて当たり散らしたりはしないようにしたい、と願うばかりなのですが、はたして……。

この小説は「少年時代の冒険譚」的な趣のある物語ですが、ここまでつらつらと書いてきたように、そのじつ「一人の人間の悲しみ」を描いた作品だと思います。

僕が直近で読んだ『河霧』や『源おじ』にも見られるように、国木田独歩さんはこの「ひとの悲しみ」というものを描くのがとても巧みな作家さんだと感じています。

そしてやはり本作でも、自然描写と情景描写が秀逸です。

(ちなみに、この小説の舞台のモデルは「大分県佐伯」だそうです。「かの字港=葛港」、「つの字崎=鶴見崎」、「さの字浦=猿戸」、「なの字浦=中越」、「うの字峠=浦代峠」と推定されています。ちなみにちなみに、人物のモデルは「中根の叔父さん=中根祚胤さん」、「今井の叔父さん=大崎護佑さん」、「鉄矢(今井の叔父さんの息子)=大崎護佑さんの息子、貞吉」とのこと)

僕はとくに、「僕」と今井のおじさんが山の中でお弁当を食べるシーンが心に残りました。大自然の中で食べるお弁当は本当においしいものなのだろうなあ、などと想像してしまいます。

それはお弁当でなくても、たとえば山中で食べるカップラーメンというものであったとしても、やっぱり普段食べるものとは格別の味わいを感じることができるのではないでしょうか。

海、山、川、お弁当、焼きそば、ラーメン、BBQ――自然の中に遊びに行って、何かを食べたくなりますね(……本当に?)。

最後に、心情描写という点においてひとつ気になったのは、「僕」が今井のおじさんの銃で大きな鹿を撃ったときの、おじさんの反応でした。

おそらくは、もう鹿狩りなどできないであろう自分の息子と「僕」とを重ね合わせてしまい、涙を浮かべるほど大げさに喜んでしまったのだとはわかるのですが、子供が銃を撃ったことを叱ったり、あるいは撃たせてしまったことを反省したりはしないのかな、ということなのです。

ただしこれは現代的な考え方であって、当時との子供に対する危機管理意識の差を思えば、考えるに値しないことなのかもしれませんが。過保護過ぎるといって問題になることもありますし。あるいは男親と女親とでまた違ったり、個々人の考え方によっても変わってくるところかもしれませんね。

あえて書くまでもないことだったかもしれませんが、とはいえちょっと気になったことだったので、一応書き留めておくことにしました。

読書感想まとめ

鹿狩り-国木田独歩-読書感想まとめ-イメージ

「少年時代の冒険譚」と見せかけて「一人の人間の悲しみ」が描かれている小説。あなたは悲しみを隠しますか、隠しませんか?

狐人的読書メモ

泉鏡花『鷭狩』、中島敦『虎狩』など、狩りを扱った文豪小説はけっこうある。それらを読むたびに人間の残酷な動物性を思う。陳腐な言い分かもしれないが、楽しむための狩りはやはり残酷なように感じる。とはいえ、その残酷さが動物の遺伝子にプログラムされた生存本能の一つなのだと捉えれば、単純に非難はできないような気もする。釣りは残酷なのか否かというのもこれに同様。思えば犯罪も本能に根差しているものがほとんど。本能を抑制して理性的に生きることは人間定理のひとつではあるが、本能を完全に捨て去れば人は感情をも失うような気がする。人間も動物であるべきか、人間は動物をやめるべきか。人間性とはなんなのだろうか……。

・『鹿狩り/国木田独歩』の概要

1898年(明治31年)8月、『家庭雑誌』にて初出。この小説もまた国木田独歩の日記『欺かざるの記』に記された体験をもとに書かれていると推察できる。少年の思い出話はじつ大好きだった義父への鎮魂歌である。

以上、『鹿狩り/国木田独歩』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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