青へと続く階段を、ふたり手をつないで

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読書時間:およそ10分。
あらすじ:気がつくとここは海の見える駅のようだ。うそつき。三年前、病気で亡くなった幼なじみの女の子が僕を罵る。この裏切者。浮気者。地獄におちろ。桜子との約束を破り、父の願いを無下にし、母がこしらえた握り飯を台無しにして、人を殺し、そして撫子さんを騙した僕は間違いなく地獄に落ちるだろう。

 

 気がつくとここは海の見える駅のようだ。
 僕は長椅子に腰かけていた。
 優しい風が渡るとても気持ちがいい日和。
 この世のものとは思えない。
 目の前に広がる青と青と青。
 それすなわち空を映す海と。
「うそつき」
 僕を罵る、きれいな群青色の着物を着た桜子。昔、亡くなった女の子。
「修ちゃん、私と結婚してくれるって言ったのに。別の人と結婚したし」
「ごめん」
 僕は速やかに立ち上がり、腰を直角に曲げ、ひたすらに謝るしかない。
「この裏切者。浮気者」
 なぜなら、その通りだから。
「ごめん」
「それで、ここで何してるの?」
 突き刺さるほどにとげとげしくも懐かしい、桜子の声。
 僕は頭を上げられなかった。
「まさか、あの人のこと待っているの?」
 なぜなら、その通りだから。
「ごめん」
「地獄におちろ」
 そう言い残して。桜子の気配は僕の前から消えた。

 僕が戦争に行く日が決まって。ある仲人から見合いの話が持ち込まれた。父も母もはじめは躊躇した。婚約をしても息子はすぐ戦地へ行かなければならないのだからと。しかし、先方はそれを承知だと仲人に説得されて。すると父も母も満更ではなさそうな様子に。
 早速見合いが行われると、相手は村長さんとこの娘さんの撫子さんだった。僕と同い年の、十八になったばかりの、初々しい清楚な美人さん。そんな撫子さんがお茶を立てるのを眺めながら、僕は苦しいばかりの幸福感を呑み込んでいた。そうしているうちに話は纏まってしまった。
 撫子さんのご両親は、結婚式は今度晴れてご帰還されてからにしたい、それまではひとまず婚約という形にしたいと申し出た。なんといってもまだ若いのだから、急ぐには及ばないだろうとのご意見だった。当然だと、これから戦争に行く僕は思った。僕の両親も頷いた。
 ところが撫子さんだけは違った。結婚式を修一さんがご帰還する日まで伸ばすのはなんだか戦死を慮っているようね、と小首をこてんと傾げておっとり一刀両断。あら、そんなはずないわね、やだわ、私ったら早とちり。返す刀でばっさり快刀乱麻。双方の両親をたちどころに説き伏せてしまったのだ。
 それで二日後にはもう結婚式が挙げられた。支度も何もする暇もない。慌ただしい挙式だった。

 その翌日、僕は汽車に乗った。戦地へ赴くために。
 そして二度と再び撫子さんと会うことはなかった。

 一瞬だった。一瞬という言い方さえ、何かおかしな気がする。大砲の弾でも頭に直撃したのだろうか。苦痛を感じる暇もなかった。戦地へ着いてまもなくのこと。つまり、ほとんどお国のお役に立てなかったということ。父と母に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 生きて帰ってこい。父は僕にお国のために死んでこいとは言わなかった。
 母は大事にしていた着物と交換してきた白米で握り飯をこさえ僕に持たせてくれた。塩だけでこしらえたその握り飯は何物にも代えがたい美味だった。
 それらの事実が僕の申し訳ない気持ちを助長する。僕は父の願いを叶えられず、母の美しく白い握り飯を無駄にしてしまったのだから。こんなことなら腹を空かせた弟や妹たちにこそ食べさせてやればよかったのだ。
 戦争で僕は鉄砲を撃って人を殺した。僕が殺した人にもこうして思い出す家族がいるはずだ。僕と大して変わらない、まだ若い人だったように思う。なぜ戦争なんて起こるのか。どうして同じ人間なのに、敵と味方に分かれ、殺し、殺されなければならないのか。なんで若い人から死んでいかなければいけないのか。そうか年老いた人には戦争をする力がないからなんだ。だったら若い人なんていなければいいのに。みんな年老いてしまえばいい。だけど戦争をすると決めたのは年老いた人だった。つまり年老いた人こそ戦争をする力を持っている。では年老いた人がいなくなればいいのか。僕よりも年老いた人である父と母が死ぬべきだったのか。いいや違う。絶対に違う。じゃあ僕が死んだのはやっぱり正しかったのか。僕は僕の死を誇ってもよいのか……。どんどんわからなくなってくる。わかっているのは、桜子との約束を破り、父の願いを無下にし、母がこしらえた握り飯を台無しにして、人を殺し、そして撫子さんを騙した僕は間違いなく地獄に落ちるだろうということだった。

「そんなお顔をなさって。さぞおつらかったでしょうね」
 僕が打ちひしがれていると、ふと横から声がかかった。
 俯いた顔を上げ振り向くと、長椅子の隣に上品な老婦人が腰かけていた。
「申し訳ない」
 僕は老婦人に謝った。
「本当に申し訳ないことをしてしまいました。生きて帰れないことはわかっていたのに。君の幸せを願うなら、結婚なんてすべきじゃなかったのに」
 苦しいものを吐き出すように。
「だけど僕は結婚もしないまま死にたくなかったんだ。お国のためにと勇ましく唱和しながら、戦争に行くのが怖くて怖くて……。自分のことしか考えていなかったんだ」
 撫子さんと結婚式を挙げた日の夜。僕の本能はあさましいまでに女を求めていた。でも僕の心はその欲求を頑なに拒絶していた。肉体と精神の板挟みにあって……。結局僕は何もできなかった。そんな捨てられた猫の如くじっとその場所に佇んでいるしかない僕を、撫子さんは何も言わずに一晩中抱きしめていてくれた。
「謝らないで。あの結婚は私の父の都合だったのですから」
 老婦人は語った。このままでは結婚もできずに戦争へ行かなければならなかった青年のために。十八歳の花嫁が示す献身を。軍人援護の美談を。かくも壮烈なる我が国の魂宿せし男児よ勝利せよ! さもいじらしい乙女を守護せよ! 男は奮戦せよ! 女は支えよ! ――その物語は人々の戦意を高揚させ、ひいては『十八歳の花嫁』を生んだ父親の政治的人気を高めたのだという。
「父はわざわざ小説家の方に依頼して、この結婚話を文章にして、新聞にまでご寄稿なさったのよ」
 私をモデルにしていじらしい乙女はないわよね。老婦人は口元に手を添えて、からからと笑った。ただの臆病者で役立たずの僕は、その題材の男児とはまるで別人のようだ。思わず苦笑が漏れた。
「だから、あなたがそんなに申し訳なさそうにする必要なんかないわ。なんだか私の方が申し訳なくなってしまうもの」
 ああ、またこの人は。どうしてこんなに……。たまらなくなって。僕は首を振って、言葉を紡ぐ。
「それとこれとは関係ありません。僕はただ、結婚もせず死にたくなかった。そのために君と結婚した。そのために君を利用して、騙して。傷物の未亡人にしてしまいました。それを謝らないわけにはいかないのです」
 結婚とは、一番好きな人とするものではないか。ならば、一番好きな人ではない人と結婚した僕は、いかにも不実ではないか。
「あらまあ、それで私を騙しただなんて。相変わらずまじめな方ね。……そこがまたいいのだけれど」
 今度はくすくすと老婦人が笑う。
「結婚は必ずしも一番好きな人とするものではないわ」
 だってそうでしょう。老婦人は言う。例えば、一番好きな人が同性だったら? 自分と相手がともに同性愛者でなければその人と結婚はできないわ。例えば、一番好きな人が酒飲みの売れない小説家だったら? 誠実なお役所勤めの方と結婚したとてそれを不実だといえるのかしら。例えば、
「一番好きな人がお亡くなりになって、お見合いして結婚するのってそんなに悪いことなのかしら」
 男の人ってほんとロマンチスト。老婦人は僕の聞き慣れない言葉で男という生き物を評した。それが良い評価なのか悪い評価なのか僕にはわからない。僕には返す言葉が見つからない。……だけど。だけど、これだけは。これだけは言っておかなければならなかった。
「でも僕は撫子さんのことが好きでした」
 一番ではなかったかもしれない。でも二番目に好きになった人。
「あら嬉しい」
 その瞬間、老婦人は瞬く間、僕の知っている撫子さんの姿になって。頬を朱色に染めて。
「今だから正直に言いますけど、私もあなたのことが好きでした」
 だからあなたと結婚できて私は幸せでした。
「……ありがとう、撫子」
 僕は撫子さんと結婚できて幸せだった。
「こちらこそ、あなた」
 撫子さんは本当に嬉しそうに。少女のようにあどけなく笑った。

 さてと。これからもう一人の旦那様のところへ行くんですよ。明日は私たちの孫娘の結婚式なの。――そして長椅子からひらり立ち上がった老婦人は、いつのまにか駅に停まっていた汽車の乗車口へ。しずしずと歩いていった。

「やーい。ふられてやんのー」
 汽車が発車してしばらく。桜子は再び僕の前に現れて。僕の醜態を嘲笑う。
 ぐうの音も出なかった。なぜなら、その通りだから。
 そうして一頻り嘲笑った後で。
「それで、えっと」
 桜子は両手を前に重ねて。
「……ごめんなさい」
 深々と頭を下げて。
「私は病気を治すって、修ちゃんと約束したのに。そしたら結婚してくれるって、修ちゃんは約束してくれたのに。……私は修ちゃんに、幸せになってほしかったのに」
 僕は桜子の病気を治してあげたかった。けれど桜子の病気は治らなかった。僕は桜子と結婚するという約束を果たせなかった。
「約束を守れなかったのは私なのにね。さっきはひどいこと言っちゃった」
 桜子は頭を下げたまま言葉を続ける。
「でもね、それとこれとは別だって。それが女心というものなんだって。修ちゃん、わかってくれる?」
 正直、女心は、僕にはよくわからない。でも。
「その着物きれいだね、桜子にとてもよく似合っているよ」
 だから肯否の返事をする代わりに僕は言った。
 頭を上げた桜子はようやく僕の一番好きな春咲く笑顔を見せてくれた。
「ひどいこと言っちゃったお詫びに、地獄へは私が一緒に行ってあげる」
 そして、僕の前に小さな手のひらを差し出す。
 僕はその手をとった。

 僕たちの前に階段があって。
 桜子が僕の手を引いていく。
 空と海の青に近づいていく。
 やがて僕と桜子は隣り合う。

 ふたり手をつないで。青へと続く階段を昇っていった。

 

読んでいただきありがとうございました。

 

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