読書時間:およそ20分。
あらすじ:この国には王遺言絶対順守の法がある。余が死んだら娘を次の王とせよ。妃のない王の娘とは犬のことだった。国の政治は大臣たちの不正で腐敗していた。犬は不倫も不正も贅沢もしない。政治など犬にやらせればよい。それは政治に絶望した王の皮肉なメッセージか? 犬の女王様に秘められし真実とは!?
*
開け放たれた扉の向こうに、見えてきた王の寝室は、相変わらず殺風景だった。
無駄な贅沢を嫌う我があるじの姿勢はいつも好ましい。
とはいえ、光栄にも第一の臣としてお仕えするこの私も、王の寝室に入ることなどは滅多にない。
王の寝室に日々出入りする者といえば、侍医と世話係のメイド、それにエリザくらいのものだろう。
よほど重要な話があるに違いない。
私は入口に立ち止まり、王の姿を拝見した。
夕暮れの赤い光を浴びて、ベッドに上半身を起こし、傍らに悠揚と寝そべる、まるで守護獣のような、黒い大きな美しい犬の毛並みをやさしく撫でながら、窓の外を眺めている王の姿は、私の感動を呼び起こすのに充分だった。
まるで一枚の絵画だ。
陰影を含み、やつれはてた王の面影が、私の胸を打った。
歳は私と変わらないはずの王の、不思議に老いた様子は、いかにも痛々しかった。
「きたか、ムウ」
王が私に気づき、私の名を呼んだ。
「どうした、早くこちらへ」
「はっ。失礼いたします、陛下」
私は王の御前に進んだ。
「なあ、ムウよ。今日ばかりは昔のように話せないか?」
昔のように……。
私は戸惑いを覚えた。
そう、まさに昔のことを思い出したからだ。
私は戦災孤児だった。
しかもこの国からすれば敵国の、滅ぼした村の子供だった。
殺されるはずだった私を救ったのは前王陛下だ。
前王は自ら私を引き取り、王子の従者につけた。
しかし私は、私の村を滅ぼし、すべてを奪った敵国の王子に媚びる気などさらさらなかった。
殺すなら殺せばいい。
覚悟に近いそんな思いを抱いていた。
が、王子は、そんな私を従者ではなく、友として遇してくれた。
まったく身分の違う私と、対等に接してくれた。
『あわれみのつもりか!』
いま思い出してみても汗顔の至りだが、あるとき私は王子に向かってそう叫んだことがあった。
王子は何も言わず、静かに涙を流しただけだった。
それはただ、大好きな友達に拒絶された少年の流す涙だった。
私の胸は痛んだ。
もちろん、そのことだけですべてを許し、王子と仲よくやっていけるような私ではなかったが、しかしその日から、私は王子のすなおでやさしい人柄に惹かれていったように思う。
「グリフィズ様」
やがて私は自然と主人をそう呼ぶようになった。戴冠されてからは、必ず「陛下」という敬称を用いるようにしている。
それが敬愛する主人に対し、私が取るべき当たり前の礼儀だ。
「昔から『様』はいらんと言っているのに」
あの日と変わらない苦笑を王が浮かべた。
いや。
あの日の美しい少年の顔は、原因不明の何かによって、老いさらばえたものに変化していた。
「そういうわけには参りません。あなたは私の主人なのですから」
そう、たとえどんなことがあっても、この方こそ私の王なのだ。
「頑固者め」
私に向けられる王の親しげな笑顔は、やはり少年の頃と何ひとつ変わってはいない。
少なくとも私にはそう感じられた。
「余は結局何もなせぬ王だったな」
王は私から視線を外し、再び窓の外の夕日に目を向けた。
傍らにいる黒き美麗な守護獣は、王の枯れ枝のような指に身を任せながら、心地よさげに目を閉じている。
眠っているのだろうか。
私には判断できない。
「政治の腐敗を正し、民の暮らしを潤し――余は立派な王になりたかった」
「陛下は、……グリフィズ様は立派な王であらせられます」
「いや、余は結局、腐り切った大臣たちの不正を正すことができず、言われるがまま増税し、民から搾取するしかなく――民は私を無能者だと、さぞ罵っていることだろう」
「そんな……」
「実際、余は無能だった。余が王になりさえすれば、政治の不正を一掃できると自惚れていた。が、政治のシステムというものは、そんな若造が考えていたよりも、複雑で、奥深く、老獪であった」
「…………」
たしかに、王には考えの甘いところがあったかもしれない。
しかしだからといって、私にだってそれをどうすればいいのか、いまだにわからない。
たとえば、新たに橋を造るとする。
担当の大臣が建造のための人や業者を集めることになる。
大臣は裏で人や業者に金を要求する。
あるいは人や業者が自発的に金を渡す。
その金額が多い者ほど重要な仕事やポストを得られる。
この国の政治を行うのは、そんな者たちばかりなのだ。
もちろん王の権限で、そんな者たちを辞めさせることは可能だが、しかし国が足りない金を多く借金しているのは、その大臣たちだった。
大臣たちが職を解かれれば、生活のために貸している金を返せと言ってくるのは明白だ。すべての大臣を辞めさせて、言われるがままに金を返していけば、国は立ち行かなくなってしまう。
それを笠に着た大臣たちは、やがて自分の子どもをその地位につける。
彼ら一族の地位は盤石なものとなっていく。
そんなことがずっと繰り返されてきたのだ。
「理想に燃えていたあの頃が懐かしい。いまや恥ずかしい青二才の思い上がりでしかなかったとしても……、ムウ、覚えているか? 何も知らず、ただ王にさえなればこの国を変えられると信じていたあの頃、手柄のため、ともに戦場を駆け回ったあの日々のことを。思えばあの頃が、余にとって一番幸せな時代だった」
王は遠く、窓の外を見ていた。
私は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
「グリフィズ様はあの戦場で、一週間も行方知れずになられたことがありましたね。あのとき、私は本当に生きた心地がしませんでした」
私はいやな胸のざわめきを誤魔化すため、さりげなく言ったつもりだったが、そんなこととは別に、じつはいまでもあのときと変わらず、そのことが気にかかり続けている。
「ははは。まるで昨日のことのようだ。お前は余を心配して、あのときのことを何度も問い質そうとしたが、余は誰にも、そう、お前にだってその話はしなかった」
王の急速な老化に、そのことが関係していないはずがないのだ。
しかし王は頑なに、そのことだけはたとえ私であっても話してはくれない。
「が、それもじきにわかる。必ずお前にだけはことを明らかにすると約束する。だから、余の最後の願いを聞き届けてくれないか? 余の遺言をお前に託したい」
「何を言われるのです!」
私は反射的に拒絶した。
「グリフィズ様は必ず復調なされます!」
私は王の言葉を拒絶したかったわけではない。
王の死を拒絶したかった。
が、王はゆっくりと首を振った。
「余はもうじき死ぬ。それは余が一番わかっている。そして、お前にいやな役回りを頼もうとしていることも、よくわかっている。この役目を引き受ければ、お前は国中から狂人扱いされるだろう。しかし余には、お前のほかに頼る者がいない。どうか頼まれてはくれないだろうか?」
「グリフィズ様……」
王は自分の最期を悟ったこの期に及んでまでも、王として臣下に「命じる」のではなく、友として友に「頼む」と言っているのか。
この私に頼むと――
私の心は決まった。
いや、はじめから決まっていた。
「グリフィズ様……、いえ、陛下。どうか頭など下げないでください。陛下はただ、臣である私にお命じくださればよいのです。臣として、そして僭越ながら友として、必ず陛下の遺言を実行してみせましょう」
そう、たとえどんなことであろうと、どんなことになろうと。
「ありがとう、ムウ」
王が、私の好きな微笑みを浮かべて、私に言った。
私の胸が熱くなる。
目頭が熱くなるのは、耐えねばならなかった。
「余が死んだら娘のエリザをつぎの王とせよ。さすれば余が妃を迎えなかった理由もわかるであろう」
つと、目を開けたエリザが首を上げて、王の顔を見た。それからちょっと首を傾けて、今度は私の目をじっと見つめてきた。
黒犬の瞳は体色と同じ漆黒で、私はその闇の中に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
私は意志の力によってその場に踏み止まろうとするかのごとく、しばらく彼女の目を強く見つめ返したまま動けないでいた。
そして、エリザが目をそらすほんの一瞬前、彼女の瞳の奥、一つ星の輝きを見たように思ったのは、私の気のせいだっただろうか?
*
「第一の臣下ムウが王の遺言を読み上げる。『余が死んだら娘のエリザをつぎの王とせよ。さすれば余が妃を迎えなかった理由もわかるであろう』。以上」
円卓は当然ざわついた。
「馬鹿な! 犬を王にするだと!」
「そんなことできるわけがない!」
「ふざけている……」
大臣たちが思い思いに口を開く。
「この国において、王の遺言は唯一無二の絶対法です。従わぬ者は、法による裁きを受けることになります」
そう、それは古来よりのならわしだ。
永い歴史を持つ事柄には権威が宿り、人は権威には屈するしかない。
もちろん、民衆の不満が高まれば廃止される恐れはある。
が、これまでの王たちは、つつしんで無理な遺言を残すことはなかった。それはこの国の王族の伝統であり、美質といってもいいだろう。
陛下はそれを覆した。
いや。
陛下が覆したいのは伝統などではないだろう、と私は思っている。
「しかしムウ殿、いくら王の遺言とはいえ、一国の王の座に、まさか犬をつけるわけにはいかぬだろう」
「その根拠は?」
「根拠と言われても……」
「王の遺言はどんなことであれ、絶対に実行されなければならない。さきほども申し上げたとおり、これはこの国で唯一無二の絶対法だということは卿も御存じのはずでしょう?」
今後これを廃止することは可能だろう。
が、それには長い時間がかかる。
その間に、私はなんとしてでも王の意思を実行し、その結末を最後まで見届けるつもりでいる。
「しかし――」
「異議のある者は前に出よ! 絶対法を守らぬ者は死罪! これまで王の遺言に背くものはなかったゆえ、実行されたことはないが、その効力は今日に至るまで有効である。ここにいる者たちならば知らぬ者はないはずだ!」
王の腰巾着、地位を寝取った者――どのように侮辱されようとも、私はそれで怒りを露わにするようなことはしてこなかったつもりだ。
その私が、ここまで強い口調で号令をかけるのは、はじめてのことだ。
円卓につく大臣たちはみな押し黙った。
「結構。では、エリザ様の戴冠式は前王の喪が明けたのち、すみやかに執り行うこととする」
*
私はグリフィズ様を深く信頼している。
しかし、グリフィズ様の遺言を託されて以来、私が考えるのはこのようなことばかりだった。
すなわち、王が覆したいのは「王遺言絶対順守」の伝統などではなくて、この国そのものではないだろうか、ということだ。
グリフィズ様は犬を王位につけることによって、この国の政治を破壊し、もって国そのものを滅ぼそうとしているのではないのか?
遺言の最後の一文、『さすれば余が妃を迎えなかった理由もわかるであろう』とは、そのためにこそ妃を迎えず、正当な後継者を残さなかった――そういう意味なのではないだろうか?
もしそうだとすれば、それをわかっていて、グリフィズ様の目論見に加担する私は、国家にとっての反逆者ということになる。
とはいえ。
私には、どうしてもそれが、グリフィズ様の真意だとは思えない。
きっと、私などには及びもつかない深謀遠慮があるに違いない。
あるいはそれは、そう思いたい私が作り出した幻想に過ぎないのだろうか?
やはりグリフィズ様は、この国に失望し、滅ぼしてしまうおつもりなのか。
正直、心は揺れていたが、決意だけは揺るがすわけにはいかなかった。
たとえ狂人と蔑まれ、国を滅ぼすことになろうとも、私はグリフィズ様を信じ、託された遺言をできうるかぎり守り続けていくだけだ。
臣として、友として――私はエリザ様につき従い、守り続けていくだけだ。
ところが私の迷いや決意とは裏腹に、犬の王の戴冠後、驚くべき事態が巻き起こる。
*
犬の王の政治的采配は見事なものだった。
グリフィズ様は、犬のエリザ様でも日々舞い込んでくるさまざまな案件に対処できるような方法を、いろいろ詳細にまとめ残していた。
そのひとつとしてつぎのようなものがある。
まずは国のある問題に対し、複数の対策案を、担当部署ないしは専門家から書面で提出させる。
それをエリザ様の前で一枚ずつ読み上げたのち、テーブルの上に並べる。
するとエリザ様は、その並べられた書類の中の一枚を、鼻先でちょんちょんと二度つつく。
それが政策決定の合図だ。
そのようにして選ばれた案は、私から見ても提出案の中でベストだと思えるもので、以前はそれがわかっていたとしても、採用することのできなかったものだった。
グリフィズ様は大臣たちの利権絡みの案を、どうしても採用しなければならなかったからだ。
大臣たちの間では、今回誰が得をするのか、事前に話し合いができていて、採用されるべき案は決まっている。
王が利権の絡む愚策の決定を強硬に拒否すれば、例の国の借金話をちらつかせ、暗に脅しをかけてくる。
国の借金を背負っている有力な大臣たちは、みな裏で結託しているので、一人の返金要求は全員のそれと同義だ。
グリフィズ様は、大臣たちの決めた採用されるべき案が最善の案ではないことがわかっていても、それに署名をしないわけにはいかなかった。
しかしエリザ様にこれは通用しなかった。
なぜなら、犬には人間の言葉が通じない。
エリザ様を説得することはもちろん、国の借金話で懐柔することだってできはしない。
犬に対していかにも慇懃な態度で、まじめに話をする者があれば、その者は周りから狂人扱いされる。
私のように。
だがそれがなんだというのか。
私は胸のすく思いがしていた。
たとえば、言葉を使わない懐柔策に打って出た大臣がいる。
それは匂いによる懐柔策で、自分が得をする政策案の書類に、肉汁をしみ込ませて匂い付けをし、それで犬の気(鼻)を惹こうといういうのだ。
エリザ様はそんなものは一顧だにせず、ただ冷然と(私にはそう見える)その大臣を見据えるだけだった。
それは気高き女王の姿そのものだった。
エリザ様は普通の犬ではない。
それは誰もが気づいている。
ではいったい、エリザ様は何だというのか?
それは誰にもわからない。
私は己の疑心を恥じた。
グリフィズ様は、もちろんこうなることを知っていたに違いない。国を滅ぼそうなどとは考えていなかったのだ。
おそらくこの事態は、グリフィズ様がかつて行方不明になられたことにかかわりがあるのは間違いないだろう。
エリザ様はそのときに、グリフィズ様がどこからか連れてきた犬だった。
グリフィズ様はあの日、『必ずお前にだけはことを明らかにする』と約束してくれた。
亡くなられたいま、どうやって――
気にならないといえばウソになるが、いまはあえて気にしないでいよう。
そう、いまはエリザ様のバックアップに全力をそそぎ、亡きグリフィズ様が望んだように、この国の政治を、腐敗のないよい方向に導いていくのだ。
人間のプライドを捨て、犬の下僕に成り下がったと、たとえ世間に冷たく嘲られたとしても。
*
エリザ様は犬とはいえ一国の王だ。
一般的な犬のエサを食事に出すわけにはいかない。
食卓には人間の王が食すものと同等のものが並べられる。
じつはそうでなくても、グリフィズ様存命の頃から、エリザ様には王と同じ食事が与えられていた。
それは倹約を旨としていたグリフィズ様には珍しいことだった。
妃を迎えず、ゆえに子供もなく、しかし「娘よ娘よ」と呼んでは犬を可愛がり、毎日山を連れ歩くのを何よりの楽しみにしていた王の姿は、たしかにどこか異常なものだったかもしれない。
事件は夕食時に起きた。
この日、エリザ様は食事になかなか口をつけなかった。
私は訝しんでいるうちにハッと気づいた。
すぐに食事を確かめさせた。
やはり毒が入っていたのだ。
暗殺だった。
私は怒りのあまり我を忘れた。
私は主人が害されそうになったとき、自分をまったく抑制できなくなってしまう。悪い癖だとは承知しているが、これがなかなか治せないでいる。
「本日の女王陛下のお食事に携わった者を全員集めろ、いますぐにだ!」
コック長にはじまる城の料理人たち、料理を運んだメイドに至るまで、その日エリザ様の夕食に携わった者がすみやかに大広間に集められた。
「いま名乗り出れば苦しまずに殺してやる」
私は怒りで身を焦がしながら、しかし冷然と言い放った。
集まった全員を、どれほどの残酷な拷問にかけようとも、必ず犯人を見つけ出し、相応の報いを与えてやる。
みな恐怖に固まった。
名乗り出る者はいなかった。
が、一人、明らかに挙動のおかしな者がいた。
それは毒見役の少年だった。
顔面蒼白で、ガタガタと身体を震わせている。
私は少年のもとへ歩み寄ろうとした。
そのとき。
ふと強い視線を感じた。
振り返ると、エリザ様が私を見ていた。
エリザ様の漆黒の目は、私に何かを訴えかけていた。
それで私は我に返った。
こんなとき、怒りのため暴走しそうになる私を制してくれたのは、いつもグリフィズ様だった。
『普通は臣が主を諫めるものだろう、これではあべこべではないか』
そう言って、快活に笑うグリフィズ様の顔が、脳裏に浮かび上がってきた。
毒見は身分の低い貴族の子弟が担う仕事だ。
おそらくは誰かに脅されて、無理矢理やらされたことだろう。
依頼人は二重三重にして、わからないようにされているに違いない。
ではこの少年をいくら拷問にかけたところで、主犯の特定には至らない。
『寛大な処置を』
エリザ様は私にそう言っているのだ。
まるでかつてのグリフィズ様のように。
たとえ言葉が通じずとも、私にはそれがわかった。
*
私はエリザ様について中庭の花園に出た。
エリザ様は食後、中庭を散歩するのを日課としていた。
かつてはグリフィズ様と共に、そしていまは私を供に。
花園には小さな無数の白い花が咲き、月光を受けてほのかな光を放っている。
いつ見ても美しく、幻想的で、不思議な光景だ。
この花園は、グリフィズ様が山から持ち帰った種を熱心に育て、造られたものだった。
私は山でもそのような花を見たことがなく、どこにある花なのか、グリフィズ様に尋ねてみたことがある。
『山の花だよ』
グリフィズ様の答えはそれだけだった。
私はエリザ様の後ろに控え膝を折り、しばしその光景に眺め入った。
私は花園に視線を向けながらも、斜め前にちょこんと座るエリザ様の気配を強く意識していた。
エリザ様は深く何かを考えている。
――このまま、時が止まってしまえばいいのに。
ふと、そんな思いがする。
が、その思いは私のものではない。
花園の中に幻を見た。
月夜、蒼白い光の花の舞台で、長い黒髪の乙女がくるくると舞っている。視線が合うたびに、静かな微笑みを浮かべているが、その微笑みはいったい誰に向けられているのだろう?
そして幻影は消えた。
その刹那、エリザ様は弾かれたように駆け出した。
敏捷な黒獣の動きそのままに。
私は、わずかに反応が遅れたことを自覚しつつ、しかしほとんど瞬間的にエリザ様の後を追った。
黒い影は、門番が止める間もなく、城門の上を跳び越えてしまう。
犬だからといって、普通そんな芸当ができるはずもない。
信じられない跳躍力だ。
門番に急いで城門を開けるよう命じた私は、その間、門衛所の脇に停められている緊急用の鉄馬に跨る。
私は鉄馬を操り、城門が全開するのも待たず、すき間をすべるようにしてくぐり抜けると、そのままの勢いで走り出した。
エリザ様は私の前を走っていく。
時間的に考えて、どうやら私が出てくるのを待っていたようだが、いったい何のために?
鉄馬で飛ばしてもまったく距離が縮まらない。
前を行くエリザ様は、花園の花と同じように、淡い光を全身にまとっている。
なにか超常的な力が働いているに違いないのだが……。
私は混乱しつつも、さまざまに思考を巡らせながら、鉄馬を走らせエリザ様の後を追った。
*
辿り着いたのは山奥の洞穴だった。
エリザ様はたしかにこの洞穴の中に入っていった。
奥に光が見える?
私は鉄馬を降りて洞穴の奥へ進んだ。
そこには見事な宮殿がそびえていた。
庭にはあの白い花が一面に咲き誇っていた。
そして二人の気高い姿の女性がいた。
二人ともこの世のものとは思えぬ美しさで、とてもよく似ており、おそらくは姉妹だろう。
「そう言ってもらえるのはうれしいけれど、わたくしたちは母子なんですよ」
私が姉だと見当をつけたほうの女性が言った。
心を読まれている?
「いまこそあなたにお伝えします。わたくしはこの山の森の精です。もうずっと前、この国の王様が迷い込んできたとき、わたくしと夫婦のお約束をなさいました。その後、この娘が生まれたのです。しかしわたくしはこの洞穴を出ることができません。母親なしでは誰も娘を本当の姫だとは思わないでしょう? 仕方なく娘を犬にして王様のお傍へ差し上げました」
私はすぐには口が利けなかった。
これが、王が、グリフィズ様が、私に必ず明かしてくれると言っていた真実だったのか、そして遺言にあった「妃を迎えなかった理由」だったのか。
私は視線を娘のほうに向けた。
間違いなく、さきほど幻の中で見た乙女だった。
「エリザ様――」
私は地に膝をつき、頭を下げて続けた。
「女王陛下、城へ戻りましょう」
「妾はそれを迷っています」
「なぜです? あなたは立派に王の務めをはたされていた」
「しかしそれは父の意図には反することでした」
「……どういうことです?」
「父は、犬の姿の妾が、政治的失策を積み重ねることで、民衆の不満をあおり、起ち上がらせようとしていたのです」
「そんな……、グリフィズ様が内乱を望んでいたというのですか?」
「正確に言えば、内乱後の政治の新体制を望んでいたのです」
「政治の新体制……」
「王制を廃し、民自らが政治を行う体制を、父は望まれていました」
「そんなことが……」
「妾は父から、そのための詳細を教え込まれています」
民が政治の主権を持ち、代表者を選び、民のための政治を行う。
「グリフィズ様がそんなことを……」
やはりあの方は、私の及びもつかない方だったのだ。
「しかし、ならば遺言でそれらのことを言い残せばよかったのでは?」
「父は民衆たちが自らそれを考え、実行しなければ意味がないと思ったのです。それに、あなたにも選択の機会を与えたかったのでしょう」
「私に?」
「父は、あなたにこの計画のすべてを託すおつもりなのです。民による政治体制を確立するまで、あなたに民衆を影ながら導いてほしかったのです。ですが妾は、その父の意に反し、妾が最善と思える政治判断を、これまでしてまいりました」
「どうして?」
「それは――」
乙女は伏し目がちに言葉を切り、続けた。
「わかりませんか? 妾は、あなたにだけは、無能なただの犬だとは思われたくなかったのです」
それで私は納得した。
敬愛する父の第一の臣下であり、そして(畏れ多くも)その父が友と呼んでいたこの私を、軽蔑されたくない自分の友のように――エリザ様はそれほどまでに思ってくれていたのだ。
胸が熱くなった。
「感謝の言葉もございません」
「……あなた、とてつもなく鈍感な方ね。まあ、娘にはそこがいいのかもしれないけれど」
森の精が、なぜか美しい呆れ顔でそんなことを言った。
「お母様、よけいなことはおっしゃらないで」
「はいはい」
「?」
私に何か思い違いがあったのだろうか?
「とにかく、妾はあなたに決めてほしいのです。妾はまた城に戻って、これまでどおり政務を務めるべきなのか。または、父の意思どおり、愚かな失策を積み重ね、民衆の決起を促し、あなたとともに父が望んだ新体制の確立に尽力すべきか。あなたが決めてください」
「私が……」
そんな重大なことを私が?
さきほどまで、エリザ様にただ従えばよいと考えていた私が?
私はいったいどうすれば……。
グリフィズ様のお考えは卓越したものだと感じるが、しかしはたして、それで本当にうまくいくのだろうか?
腐敗した貴族の大臣たちが、腐敗した民衆の代表者たちに、ただすげ替わるだけではないのか?
グリフィズ様は、そのことさえも考えさせようとして、あの遺言を私に託されたのか……。
そして民衆全員に、そのことを考えてほしいというのが、グリフィズ様の真の願いだったのだ――
国の政治から不正をなくすには?
私にはわからない。
私などが考えてみても、それはいつまでもわからないように思える。
だが、私は考えてみようと思う。
この国の政治の在り方について。
<終>
※
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