不審庵/太宰治=黄村先生シリーズ3部作の第3作、テーマは「茶道」!

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

不審庵-太宰治-イメージ

今回は『不審庵/太宰治』です。

文字数8000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約22分。

黄村先生のドタバタコメディ!
シリーズ3部作の第3作。今回のテーマは茶道!

茶道に目覚めた黄村先生が魅せる!
利休の茶道の奥義とは?
へましても人を惹きつける憎めないキャラがうらやまし!

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

「私」の恩師である黄村おうそん先生は悲痛な理想主義者だ。後輩に対し、いつも卓抜たくばつの教訓を与えてくれるが、いつも失敗ばかりしている。

ある夏の日、そんな黄村先生から手紙が届いた。なんでも茶会に招待してくれるという。文面から茶道にはいささかの自信があるように見受けられる。

「私」には茶会の経験など一度もなかったので、さっそく近所の友人に茶道の本を数冊借りて、これらを読破した。

当日は「私」と二人の大学生が黄村先生の茶会に招待されていた。すでに「私」とも顔なじみの二人はしょげ返っていた。「私」が本で勉強したから、自分のするとおりに振舞えばいい、と伝えると、少しは元気が出たようだった。

「私」たちが黄村先生宅におじゃますると、先生は離れにいた。ふんどし一つの姿で寝転び、本を読んでいた。

「私」は「自分たちを試すための計略」を疑い油断しなかった。茶道の作法にのっとり、さっそく道具を褒めようとしたのだが、しかし六畳間に茶の道具は見られない。

「私」はちょっと狼狽して、隣の三畳間を見ると、はたしてそこにあった。こわれかけの七輪とアルミニウムのやかんが。「私」はその七輪とやかんをつくづくと眺めて(もちろん二人の大学生もあとに続いた)、「この釜はずいぶん使い古したものでしょう」、先生は不機嫌になった。

黄村先生は「私」たちを六畳間に残し、ひとり三畳間で茶を点て始めた。が、「私」が読んだ本の茶の作法に従うならば、そのお手前はぜひとも拝見しなければならない。

「私」たちはふすまを開けて隣の三畳間へ行こうとするが、先生が抑えているのか、ふすまは少しも開かない。いよいよ三人でうむと力を入れてふすまを引くと、がたりとふすまが外れ、「私」たちはどっと三畳間へなだれ込んだ。

その拍子に黄村先生は七輪を蹴飛ばしてしまい、やかんは転倒、部屋には湯気が立ちこもり――ひどい茶会になってしまった。

三畳間は薄茶の飛沫だらけ、洗面器にはしくじった薄茶がいっぱいたまっていた。なるほど、これでは人目を避けねばならなかったはずである。ふんどし姿も、利休七ケ条のひとつをこじつけたものだったらしい。

数日後、黄村先生からもらった手紙には、のどが渇けば、台所でごくごく水を飲むのが利休の茶道の奥義である旨、書かれてあった。

狐人的読書感想

さて、シリーズ3部作の第3作、今回のテーマは「茶道」ということでしたが、やはり愛すべきキャラクターですね、黄村おうそん先生は。

悲痛な理想主義者と語られる黄村先生ですが、自分ではことを完璧に運んでいるつもりでいて、いつも失敗してしまいます。

今回については、明らかに「私」がおもしろくしようと、黄村先生をいじっている風にも見受けられるのですが、いたって真面目に対応した結果、おもしろいことになってしまっていて、そこがまた笑えます。

芸人さんがそのままコントにしてやったらおもしろいんじゃなかろうか、などと単純に思わされた作品でした。

黄村先生の魅力は、偉そうに教訓を垂れるのにもかかわらず、自分はその教訓を毎回実行できていないのに、なぜか教え子たちに慕われているところだと感じるんですよね。

こういう人は現実にもけっこういるような気がして、僕はこのことをかなり不思議に思うことがあります。

完全に尊敬できるわけじゃないんだけれど、なんとなく人が集まってくるというか、慕われている人物って、身の回りやテレビを見ていて、いませんか?

憎めないキャラとでもいえばいいんでしょうか、能力的に優れているわけではないのに(あるいは一見そのように見えるのに)、その人を慕っていろいろな人が集まってくるように見えるんですよね。

何かに秀でている人のところに人が集まるのは当然だという気がするのですが、そうでなくとも人が集まってくる人というのは不思議に思ってしまうのですが、いかがでしょうか?

もちろん、そういう人にはやさしいとか面倒見がいいとかいったほかの優れた資質があって、黄村先生もこのタイプだとは思うのですが、それだけではない、一種のカリスマ性みたいなものを感じてしまうのです。

たとえば、同じように「しょうがないなあ」という感じの人が二人いて、ひとりはなぜか周りがいつも助けてくれるのに、もうひとりは遠ざけられたりしていると、この両者の違いはなんなのだろう、とか考えたりします。

前者の場合はカリスマ性があるのか、あるいは周りの人たちが親切なだけなのか、後者の場合はカリスマ性がないのか、あるいは周りの人たちが不親切なだけなのか、みたいな。

思えば、周囲の人間関係に恵まれるというのも、その人の持つ何らかの資質が引き寄せるのか、それとも単純に運なのか、……まあ、この世にまったく同じ人間は二人いないので検証のしようがないし、人道的にもよろしくないはずなので、カリスマや運といったものの存在を証明するのはむずかしいように思うのですが、そういう人たちの存在を意識するたびに考えてしまうんですよね。

世渡り上手に対するただの嫉妬か? ――という気がしないわけでもないのですが、さて。

『不審庵』は教訓を垂れる黄村先生の、しかし教訓のないコメディ作品なので(たぶん)、何も考えずにただ楽しむのが吉だという感じがしますが、それでも教訓めいたことをひとつ思ったので以下に書いておきたいと思います。

それは「頭でっかちにならないこと」みたいな教訓です。

「私」は黄村先生の茶会の招待を受けて、「茶道読本」とか「茶の湯客の心得」とかの本を読んで勉強して行くわけですが、あまりにその本に書かれていることを忠実に守ろうとして、今回のひどい茶会になってしまいます。

もちろんこの作品では「私」があえてそのように行動することで、滑稽味を出そうとする計算だとはわかっているのですが、本や教えられた知識ばかりを頼り、それに忠実に行動しようとするあまり、即応力に欠けるところが自分にもあるなという気がします。

臨機応変、ということは何事にも言われることですが、頭でっかちにならず臨機応変に行動できるよう心がけたいと思いました。

読書感想まとめ

黄村先生のような憎めないキャラをじつはうらやましく思っていたりします。

狐人的読書メモ

「所詮理想主義者は、その実行に当ってとかく不器用なもの」というところには頷かされてしまう。

・『不審庵/太宰治』の概要

1943年(昭和18年)、『文藝世紀』にて初出。「黄村先生シリーズ」三部作の第三作(『黄村先生言行録』『花吹雪』『不審庵』)。佐藤一斎の書や茶会の経験など、いわずもがな太宰治の実生活が活かされた作品である。

以上、『不審庵/太宰治』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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