狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『伝吉の敵打ち/芥川龍之介』です。
文字数6000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約17分。
大切な人の命を奪った敵が、その後ものうのうと暮らしていくのかと思うと、悔しい。しかし敵打ちの思いは自分の人生をも損なっていく。敵打ちすべきか、せざるべきか?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
江戸時代、天保七年の春、百姓の子・伝吉は、十二歳(一説によれば十五歳)のころにふとしたことから越後の浪人・服部平四郎の怒りを買ってしまう。そして追われていたのをかくまってくれた父・伝三を平四郎に斬り捨てられてしまう。隠れていた土室から這い出し、父のなきがらを見た伝吉は、父を見ごろしにしてしまった自分自身に激しい怒りを覚え、敵打ちを決意する。
伝吉は叔父の家に下男同様に住み込みながら、服部平四郎の名を調べ、剣法を学び、敵の行方を捜した。しかし天保十年ごろになると平四郎は突然行方をくらませてしまった。伝吉は絶望のあまり遊び惚けることになり、博徒の子分となって二十年ものあいだ無頼の生活を送ることになる。
安政六年の秋、ふと、伝吉は平四郎が倉井村にいることを発見する。行ってみると、平四郎は病によって立ち上がれぬ体となっており、地蔵堂の堂守をしていた。伝吉はそんな平四郎に対し、嫌悪、憐憫、侮蔑、恐怖――いろいろの感情を感じたが、平四郎を斬って仇討ちを果たした。
伝吉は維新後に材木商を営み、失敗に失敗を重ね、とうとう精神に異常をきたして亡くなった。明治十年の秋、行年五十三歳だった。
狐人的読書感想
タイトルどおり「敵打ちの話」ですね。昔は法的にも敵打ちが認められて、それは「孝子の所業」として称賛されることが多かったそうですが、実際敵打ちしてそれで幸せになれたのかな……ってところは、やはり考えさせられてしまうところですね。
本作の主人公の伝吉は百姓の子で、自分が巻き込んで斬り捨てられてしまった父のために敵打ちをする構図ですが、本質的には「自分自身の為」に敵打ちをしたように見受けられます。
伝吉がもっとも怒っているのは「父を見ごろしにしてしまった自分自身」に対してであり、その鬱憤を晴らす目的が一番大きかったのではなかろうか、という気がしてしまいます。
不当に命を奪われてしまった当人が、はたして敵打ちを望むかどうかはわからないわけですから、結局のところ「亡くなった人の為に何かをすること」はすべて「自分自身の為に何かをすること」でしかないのかもしれません。
とはいえ、他人を不幸にしておいて、自分はのうのうと暮らしている敵を見たら、「敵打ちしてやりたい!」とやっぱり思うんじゃないかなあ、とは想像してしまいます。
本作の敵役である服部平四郎は、病によって足腰が立たなくなって、それほど幸福そうな生活は送っていないようでしたが、そのまま生き続けるのと命を絶たれてしまうのと、どちらが当人にとって幸せだったのかを考えると、敵打ちを躊躇するきもちが生まれてしまいそうな気がします。
現実の事件などでも、遺族はやっぱり「せめて加害者の命でしか、失われた大切な命の償いにはならない」と考えるでしょうし、それでも十分ではないと考えてしまうのが一般的だという気がします。
しかし敵打ちにとらわれてしまったことで、伝吉の人生はあまり幸福なものではなくなってしまったというのも、ひとつの事実として描かれているようなんですよね、この物語には。
人を呪わば穴二つ。
敵打ちについて考えさせられた、今回の狐人的読書感想でした。
読書感想まとめ
敵打ちすべきか、せざるべきか?
狐人的読書メモ
・もしも大切な人の命が奪われたとしたら、敵打ちしようと敵打ちにしまいと、もはや幸福にはなれないのかもしれない。だとしたら敵打ちするべきなのかもしれない。とか考えたり。
・『伝吉の敵打ち/芥川龍之介』の概要
1924年(大正13年)『サンデー毎日』にて初出。初出時のタイトルは「或敵打の話」だった(同名の別作品あり)。複数の文献からひとつの事柄について批評的に言及する構造上の特徴を有する。
以上、『伝吉の敵打ち/芥川龍之介』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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