狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『黄粱夢/芥川龍之介』です。
文字1200字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約3分。
「夢だから、見るだけで充分」「夢だから、なお生きたい」二人の主人公が言う。少子高齢化、上がる税金上がらぬ給料、雇用の非正規化、結婚しても子育てが不安……現代の道標はどっち?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
(今回は全文です)
『黄粱夢/芥川龍之介』
盧生は死ぬのだと思った。目の前が暗くなって、子や孫のすすり泣く声が、だんだん遠い所へ消えてしまう。そうして、眼に見えない分銅が足の先へついてでもいるように、体が下へ下へと沈んで行く――と思うと、急にはっと何かに驚かされて、思わず眼を大きく開いた。
すると枕もとには依然として、道士の呂翁が坐っている。主人の炊いでいた黍も、未だに熟さないらしい。盧生は青磁の枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲の秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があってもうすら寒い。
「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を噛みながら、笑を噛み殺すような顔をして云った。
「ええ」
「夢をみましたろう。」
「見ました。」
「どんな夢を見ました。」
「何でも大へん長い夢です。始めは清河の崔氏の女と一しょになりました。うつくしいつつましやかな女だったような気がします。そうして明る年、進士の試験に及第して、渭南の尉になりました。それから、監察御史や起居舎人知制誥を経て、とんとん拍子に中書門下平章事になりましたが、讒を受けてあぶなく殺される所をやっと助かって、驩州へ流される事になりました。そこにかれこれ五六年もいましたろう。やがて、冤を雪ぐ事が出来たおかげでまた召還され、中書令になり、燕国公に封ぜられましたが、その時はもういい年だったかと思います。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」
「それから、どうしました。」
「死にました。確か八十を越していたように覚えていますが。」
呂翁は、得意らしく髭を撫でた。
「では、寵辱の道も窮達の運も、一通りは味わって来た訳ですね。それは結構な事でした。生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません。これであなたの人生の執着も、熱がさめたでしょう。得喪の理も死生の情も知って見れば、つまらないものなのです。そうではありませんか。」
盧生は、じれったそうに呂翁の語を聞いていたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。
「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」
呂翁は顔をしかめたまま、然りとも否とも答えなかった。
狐人的読書感想
夢オチ。短いけど考えさせられるお話でした。「夢や希望を持って生きるのってどうですか? 大事だと思いますか?」って、問いかけられている感じがしました。
これはもともと中国の『枕中記』(唐代の歴史家、小説家の沈既済が著した)という小説を題材にしたもので、『邯鄲の夢』『黄粱の一炊』など多くの呼び名があり、日本では能の『邯鄲』としても知られる結構有名なお話のようです。
(黄粱とは中国では栗を示し、盧生は寝ている間に粟粥を煮ていて、その間に見た夢だから『黄粱夢』となるそうです)
主人公の盧生は、人生の目標も定まらないまま、趙の都の邯鄲に上京し、そこで呂翁という仙人と出会い、わずかな田畑しか持たない自分の身の不平を語る。すると仙人は、夢が叶う枕を盧生に渡し、盧生がその枕を遣ってみると、人生紆余曲折ありながらも出世して栄旺栄華を極める夢を見た。
――というのが『枕中記』『黄粱夢』の共通する物語なのですが、芥川龍之介さんの『黄粱夢』では、最後に盧生の言うことが原典とは180度反対の意見になっています。
・『枕中記』では、「私は栄辱も富貴もすべて夢の中で経験しました。先生は私の欲深さを諭すためにこの枕をくださったのでしょう。ありがとうございました」と言って、盧生は故郷へ帰っていきます。
・『黄粱夢』では、「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか」と盧生は言って、仙人は顔をしかめます。
お金持ちになりたい、有名になりたい、好きなことをして生きていきたい――「夢」というものは突き詰めてしまえば「欲」なわけで、この欲を否定的に見るか肯定的に見るか、といったところに、両者の違いがあるように思います。
『黄粱夢』の盧生のほうが前向きで、見習うべき姿勢のように感じましたが、しかし『枕中記』の盧生のほうが現代の世相をよく表している感じがするんですよね。
「現代の若者は将来について夢も希望も持たない」というようなことが言われたりしますが、大まかに二つの意見がある気がします。
・不景気、少子高齢化、税金は高くなるのに給料は上がらず、働き方も非正規雇用ばかり、結婚しても子供を育てていけるか不安で――つまり、生活するのに精いっぱいだから、夢なんて持てない。
・とはいえ、昔だってバブルの前はいい時代じゃなかった、戦時や戦後も厳しい世の中だったが、それでも人生の目標を持ってやってきて、夢を実現してきた先人がたくさんいる、甘ったれるな!
――という感じではないでしょうか?
(もちろんほかにもいろいろな意見があるかとは思いますが)
たしかに、いまは生活で一杯いっぱいの親世代を見てきて、不景気な世相があって、子供は夢を持ちにくい社会にあるという気はしていますが、どんな社会でも夢を持って生きるのは大事なんだと思いますし、きっと個人差も大きな話なんだろうなぁ……なんて、いろいろ考えさせられるんですよね。
現代は、漫画とかアニメとかゲームとか、無理して辛い現実で夢を叶えなくても、代替手段として「夢が見られるツール」がそろっているのも、何か影響を及ぼしているのかな、って気がします。
まぁ、昔から、「人生に夢を持ち、それを実現してきた人」というのは少数なわけであって、日々仕事をしていろいろな高い税金や生活費を払って、生活で一杯いっぱいなのが大多数の人なのだから、『枕中記』の盧生のほうが人生の道しるべとして現実的なのかなぁ、とか思っちゃいますね。
それでも、人生に夢を持って、それを叶えるために日々を生きたほうが、建設的で有意義だという感じはします。
現実に夢を見るか、夢に夢を見るのか……そんなことを考えた、今回の狐人的読書感想でした。
読書感想まとめ
夢や希望を持って生きていますか?
狐人的読書メモ
・いずれにせよ、人生は一夜の夢のようなものなのかもしれない。だから夢や希望をつまらないものだと思うのか。だからこそ夢や希望に執着して生きるべきか。
・現実に夢を見るか、夢の中に夢を見るのか――いずれにせよ、夢を見る価値とは……。
・『黄粱夢/芥川龍之介』の概要
1917年(大正6年)『中央文学』にて初出。1920年(大正9年)短編集『影燈籠』に、『英雄の器』『女体』『尾生の信』とともに「小品四種」の「一」として収録。中国・唐代の伝奇小説、沈既済の『枕中記』を典拠にしている。
以上、『黄粱夢/芥川龍之介』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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