狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『枯野抄/芥川龍之介』です。
文字数8500字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約32分。
誰かが亡くなって、
自分は本当には悲しんでないって、
ハッとしたことある?
清らかな悲しみなど存在せず、
人はただ自分の為に他人の最期を悼むのか?
本当に誰かの為に悲しんだことある?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』――これは松尾芭蕉が元禄七年十月八日に詠んだ最後の句である。
松尾芭蕉の命日である元禄七年十月十二日の午後、臨終の床には彼の弟子たちが集まっていた。
弟子たちは順番に師の末期の水をとることになるが、そのとき巡らせたさまざまな思いは、ただ悲しみばかりではなかったという。
其角は、ひどく冷淡な気持ちで、病躯の師の不気味な姿に生理的な嫌悪感を抱いた。
去来は、献身的に師を看病できた満足と、師の今際の際にそのような満足を覚えたことに対する悔悟と、二律背反する感情に混乱した。
乙州は、正秀のオーバーな悲しみ方に、誇張や芝居を感じて不快に思うが、それを見ているうちに自分ももらい泣きしてしまう。
支考は、三、四日前までは師に辞世の句がないことで他門への名聞を気にし、昨日は師の発句集を出す計画で門弟たちの利害ばかりを考え、今日はただ自分の興味打算から師の臨終の姿を観察的に眺め――厭世的な気分に沈んだ。
惟然坊は、つぎに亡くなるのは自分ではないか、という、ふいの恐怖に襲われて、自分ではなくてよかった、という安堵を覚えた。
丈草は、限りない悲しみと安らかさを感じ、これは清らかな悲しみなのか、自分は師の極楽往生を喜んでいるのか、と自問するが、そうではなく、長く芭蕉の人格的圧力の下に屈していた自分の精神が、ようやく解放されることへの自己本位な喜びでしかないことを悟った。
こうして、俳諧の大宗匠、松尾芭蕉は、「悲歎かぎりなき」門弟たちに囲まれて、その生涯を閉じたのだった。
狐人的読書感想
これはすごい小説です。
師の臨終に際し、弟子たちがそれぞれに感じていた気持ち、すなわち「ただそれは悲しみばかりではない」ということを、まさに僕も感じた経験があります。
とはいえ、芭蕉の弟子たちほど複雑なものではありませんでしたが。
たとえば、誰かのお葬式の際、(正座で足がしびれたな)とか、(部屋がちょっと寒いな)とか、(お経読むの長いな)とか。
そのくせ、通夜振る舞いで出されるお寿司やビールを飲みながら、談笑する大人たちを見て、(隣では遺族があんなにも悲しんでいるのにな……)とか、さっきまでの自分の気持ちを棚上げにして、不快に感じたり。
誰かが亡くなることを、純粋に悲しむことの難しさを思います。
これは何も、自分にはあまり関係ない親戚とか知人の親類とかが亡くなった場合にかぎった話ではなくて、たぶん自分のもっとも身近な人、大切な人が亡くなったとしても、同じように純粋に悲しむのは難しく感じてしまいます。
親が亡くなれば、悲しみとともにこれからの生活をどうすればいいのか、途方に暮れるでしょうし、兄弟姉妹や恋人あるいは子供が亡くなれば、自分を愛してくれる彼らがいなくなった自分がかわいそうで泣いているのではないか、どうしても考えずにはいられないような気がするんですよね。
『自分たち門弟は皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分たち自身を悼んでいる。』
――とは、芭蕉の弟子の一人、丈草が内心で漏らした感想ですが、まさに人間というものは、自分のためだけにしか喜んだり悲しんだりできない存在なのではなかろうか、なんて言ってしまうと、冷たくて寂しい感じもしてしまいます。
しかし、清らかな悲しみ、清らかなばかりの感情というものは、現実の人間に持ち得るものではなくて、感情というものはどこまでも自分のためのものであり、それがあるいは他人のためにもなるかもしれない――そんなふうに考えていなければ、現実世界ではとても生きにくく感じてしまうですよね。
人間はまず自分のために生きて、それが誰かのために生きることにつながる場合もあって、そうしてできたつながりの中で自分の感情の在り方に疑問を持ったり考えたりしながら、それでも結局は自分のために生きている――そういう自覚を持ってひたすらに生きていくしかないんじゃないかな、みたいな、なんだかまとめきれていない感じはありますが、今回はそんなことを思った読書感想でした。
読書感想まとめ
自分のために生きることが誰かのために生きることにもつながると信じて生きるしかない。
狐人的読書メモ
・醜さに対する生理的嫌悪、満足と悔悟と二律背反する感情、「悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか」という脳生理学的命題、どこまでも自己本位な生命、自らの命がなくなることへの本能的恐怖――芭蕉の弟子たちの師の臨終に際しての感情は、それぞれに本当に興味深いと思った。
・『枯野抄/芥川龍之介』の概要
1918年(大正7年)『新小説』にて初出。俳聖、松尾芭蕉の臨終に際し、その弟子たちの心情を描いた作品。芥川龍之介は松尾芭蕉を尊敬していたらしい。またこの作品には芥川龍之介の師である夏目漱石の亡くなったことも投影されているという。こういった人間の本質、普遍的なテーマを誰もが共感できるかたちで描けるのは本当に凄いと思う。
以上、『枯野抄/芥川龍之介』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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