フランドン農学校の豚/宮沢賢治=パック肉食べる?ならば知るべき物語。

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狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

フランドン農学校の豚-宮沢賢治-イメージ

今回は『フランドン農学校の豚/宮沢賢治』です。

文字数12000字ほどの童話。
狐人的読書時間は約33分。

その豚は知性を持ち、会話ができる。
家畜撲殺同意調印法、死亡承諾書、強制肥育――
人間の残酷な扱いを受け、豚は己の運命を苦悩する。
誰もが知らなきゃいけない物語。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

フランドン農学校の豚は、知性を持ち、会話ができる。だから白金と並べられて幸福を感じたり、エサに混ざった豚毛製のはみがきを見ていやな気分になったりする。豚は畜産教師の管理の下、寝たり起きたり食べたりして、ずんずん肥っていく。

家畜撲殺ぼくさつ同意調印法。この国では、家畜を殺そうとする者は、その家畜が調印した死亡承諾書しょうだくしょを受け取らねばならない。馬でも牛でも、涙をぼろぼろこぼしながら、強制されてひづめで判を押す。

「校長さん、いいお天気でございます」

豚がフランドン農学校の校長に挨拶をする。最近は毎日校長がやってきて、何か言いづらそうにして去っていく。人間がじろじろと豚のからだを見る視線、畜産教師と助手の不吉な会話、学生たちの「早く見たい、早く食べたい」といういやな会話――豚はなんだか怖くて、つらくてたまらない。

ある日、いよいよ校長が、同意調印法と承諾書のことを豚に切り出す。

「私たちの学校は、お前を今日まで養ってきた。すいぶん大事にしたはずだ。お前がそのことを少しでもありがたいと思うなら、承知してもらえないか? なに、調印しても、今日明日にどうこうということは決してないよ」

「い、いやだ……いやです、いやです!」

「お前は恩知らずだ! 犬猫にさえ劣ったやつだ!」

校長は怒って小屋を出て行った。豚はくやしさと悲しさであらんかぎり泣き出した。それから豚はよく眠れず、食欲もなく、だんだんとやせていく。

畜産教師は肉が落ちた豚を見て驚く。校長がへまをしたに違いない。畜産教師は助手に指示を出す。助手は言われたとおりに鞭をピシッ、豚を散歩させ、キャベツのいいところを与える。豚は(この世は本当に苦の世界だ)と考えながら散歩をし、キャベツをかじるふりをした。

豚はやせる一方だった。畜産教師は焦る。いよいよ強硬手段をとるしかない。畜産教師は校長を呼び、承諾書に判を押すよう説得させる。「いやです! いやです!」と泣きわめく豚だったが、校長が怒り出すのを見ると恐くなり――ついに爪判を押してしまう。

その後、豚は縛られ、口にむりやり管を通され、胃に食べ物を強制的に送られた。強制肥育だった。豚はその気持ち悪さに、まるで夢中で一日泣いた。

そんな日が七日続いた。その間、生徒たちは豚の重さがどれくらいか、あけすけに話しているのを聞いて、あんまりひどいとまた泣いた。

鞭でピシッと打たれた豚は、仕方なく歩き出す。からだは重くてつらかった。三歩で息がはあはあした。ブラシでからだを洗われた。豚の毛のブラシだった。豚はわめいた。

今日は今朝から何も食べていない。一生の恐ろしい記憶が頭の中を駆け巡る。豚はいよいよ屠畜の場へ、歩き出していくのだった。

狐人的読書感想

僕が普段目にするお肉は、お皿にきれいに並べられた状態、あるいはパック売りされている状態のものです。洗われ、屠畜され、バラされ、殺菌処理され――きれいに加工されたお肉を、僕はいつも食べています。

動物の命を奪うことは残酷ですが、その残酷なことをしなくても、いまはお肉が食べられます。それが当たり前のことになりすぎていて、屠畜場で行われていることなんてあんまり考えたこともありません。

僕が直接的に屠畜をしなくて済むのは、屠畜場で働いてくれている人たちがいるからなのだと、ふと気づきます。

その人たちに感謝をしなければならないし、また動物の命を奪っているのは屠畜場で働いてくれている人たちなのではなくて、間違いなく自分なのだということを、しっかりと意識して日々の食事をいただかなければならないのだと思いました。

「いただきます」と言うときに「命をいただきます」と、その動物への感謝を込めて言うことが大事であって、おそらくこの『フランドン農学校の豚』もどちらかといえばそのことに重きを置いて描かれているように感じたのですが、実際に屠畜してくれている人たちへの感謝、育ててくれている人たちへの感謝も忘れてはいけないのだと、そちらのほうが印象に残りました。

本当に興味深い作品です。おもしろいと言うのは、あるいは不謹慎なのかもしれませんが、本当におもしろいです。

もしもフランドン農学校の豚のように、動物に知性があって話せたとしたら、僕らは彼らを食べることができるのだろうか? というのは、想像してみて、とても悩ましいことに感じられます。

実際、動物が話をできないこの現実の世界でも、たとえばクジラを食べるのは非人道的だ、みたいな考え方がありますよね(ほかにも理由があるかとは思いますが)。

かわいい動物や賢い動物には感情移入してしまい、その命を奪って食べることを、どうしても躊躇してしまう気持ちが人間にはあります。

いまだってそうなのに、もしも動物が人間と話せるようになったとしたら、人間社会はどのような選択をするのでしょうか?

みんながベジタリアンになってお肉は食べなくなるのでしょうか? あるいは「それはそれ」として、やっぱりお肉を食べ続けるのでしょうか?

……どうなのかな、って気がします。

おそらくいまの屠畜のシステムがあれば、人間は「それはそれ」と割り切って、お肉を食べ続けることになるのではないでしょうか? だけど、屠畜する人たちの精神的な負担は絶対に増しますよね。(完全オートメーション化できればあるいは……?)

この作品を読むだけでも胸が締めつけられるような思いがするのに、現実にあまたの家畜が、フランドン農学校の豚のように話しを出したら――畜産業者さんだってたまらないでしょうね。

感情を抑えたり、割り切ったり、また工場でオートメーション化を図ったり、家畜の苦痛をできるだけやわらげる屠畜方法を用いたり――それでもたまらない思いを抱えながら、畜産・屠畜の現場で働いている人の気持ちを思えば、やっぱり頭が上がらない、という気がします。

とはいえ、現場の人たちというのは慣れてしまっていて、そこまで深刻には考えないようにしているのですかね? もちろんそれは必要なこと、仕方のないことで、それでもきっと、僕なんかよりもずっと、命の尊さを意識されているのだと想像します。

命に感謝すること、命を育ててくれている人たちに感謝すること、自分の代わりに屠畜してくれる人たちに感謝すること、また間違いなく自分がほかの命を奪って生きているのだと意識すること――『フランドン農学校の豚』は残酷な物語ですが、だけど目をそらしてはいけない、知っておかなければならない物語だと感じました。

読書感想まとめ

命に感謝する。命を育ててくれている人に感謝する。屠畜してくれている人に感謝する。食べているのはきれいなパックのお肉だけど、間違いなくほかの命を奪っているのは自分なのだと自覚する。残酷だけど、知っておかなくてはいけない物語。

狐人的読書メモ

育ててもらったからって食べられなきゃいけないの? とにかく豚の気持ちになって読んだ。そんなふうに書くとなんだか変な感じがするかもしれないけれども。(育ててもらったからって親のいうことをきかなきゃいけないの? 親子の関係にもちょっと似てる?)

残酷で冷たいように見えるフランドン農学校の畜産教師、校長、生徒たちの気持ちもわかる。いちいち豚に同情していたら生きていけないし、また屠畜されるところを見たいというような残虐な気持ちは、僕にもたぶんあると思う。だけど一方で、それをかわいそうだと思う気持ちもある。人間の矛盾する心の不思議を思う。

『フランドン農学校の豚/宮沢賢治』の概要

1934年(昭和9年-宮沢賢治が亡くなった翌年-)発表。生前未発表。農学校で飼育されている食用豚の苦悩を描いた物語。冒頭部の草稿数枚は現存していない。ちなみに花巻市で生産されているブランド豚『白金豚』の名前の由来は本作。誰もが知らなきゃいけない物語だと思う。

以上、『フランドン農学校の豚/宮沢賢治』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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