母/坂口安吾=母子愛、友情、恋愛…人間関係はすべて利害関係。

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

母-坂口安吾-イメージ

今回は『母/坂口安吾』です。

文字数5000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約13分。

悪い母だと感じた。
だけど人間関係は、
すべて利害関係に還元できる気がする。
なのにどうして人間は、
小説や映画の美しい人間関係に感動するんだろう?
利害関係に幻想を見るんだろう?

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

私の友達の辰夫は秀才だったが、周期的に発狂する遺伝があり、精神病院へ入院した。辰夫は全快したが、退院には保護者の保証が必要だった。さらに借りている入院費も払わなければならない。

しかし、家族はまったく見舞いにこなかった。

他に訪れる人のない辰夫は、私一人を心待ちにして暮らしていた。はじめのうちは病院が珍しく、友達との会話が楽しかった私も、毎日のこととなると珍しさもなくなり、会話の種も尽きてしまう。

が、辰夫が目に涙を浮かべ、「明日もきっときてほしい」と、ふるえる指で手首を握られると、私は病院へ足を向けざるを得ない。私にとって、友達への面会は、だんだん苦痛なものになっていく。

さらに私は、辰夫の家にも足繁あししげく通わなければならなかった。辰夫の頼みで、入院費の支払いや仕送り、退院の手続きを願うのが目的だ。

辰夫の家では父親亡きあと、小さな食料品店を営んでいる。「ふふん、気狂いは決して治る病気ではありませんよ……気狂いのくせにバターが欲しいなんて……」。辰夫の母は冷淡で、私の苦手な人物だった。

辰夫は家族の温かな愛を信じていた。いや、信じてはいないが、信じようとしていた。だから私は、辰夫の母親の冷たい仕打ちを話せずにいた。しかしある日、辰夫の発言にイライラした私は、思いの丈をすべてぶちまけてしまう。

君のお母さんは、頑迷で、冷淡で、ヒステリーで、君のことなど全然想ってはいない。僕は君に友情を感じたことは一度もない、ここへ来るのも打算があってのことだ――。

我に返った私は、なんとか取り繕おうとしたが、辰夫は目に涙を浮かべて、「本当に君にすまない。君のようないい友達を、こんなにも苦しめて……僕はどうしていいかわからない」。

やがて辰夫は退院し、遠方へ引っ越して、私鉄の改札員になった。

ある日、私が辰夫を訪ねると、生憎辰夫は社用で不在だったが、辰夫の母が出迎えてくれた。辰夫の母は、物静かな様子で、深い感謝を私に示し、私は呆然とするしかなかった。

世に母親ほど端倪たんげいすべからざるものはないと教えられた。

狐人的読書感想

『母』というタイトルですが、総じて「人間(生物)の関係はすべからく利害関係」だということを感じた小説でした。

まずは、「私」と辰夫の友人関係についてですが。

「私」が辰夫の見舞いに足繫く病院へ通ったのは、やはり友達のため、というよりも、自分のため、という部分が大きかったように思います。

はじめは病院の物珍しさや友達との会話が楽しくて、しかしのちには、ただの惰性、友達だからという義務感、あるいはイヤなやつだと思われたくない「私」のエゴ――自分本位な感情ばかりが目立っていたように感じます。

とはいえ、そこにまったく相手のことを想う気持ちがなかったとは言い切れません。本当に自分本位なだけならば、もっと早くに見舞いをやめてもよかったし、イヤな思いをして辰夫の母に何度も会いに行く必要もなかったでしょうし。

しかしやっぱり、イヤなやつだと思われたくないエゴの気持ちが強かったようにも思いますが。

友達のためを想うとき、それが本当に友達のためを想っての言動なのか? ということは、よく考えさせられます。

その言動をすることで、自分がよく思われたいだけなんじゃないか? ということは常に意識しています。

友達のために何かをしてあげる自分、すごいいいやつじゃん! いいやつじゃんって思ってほしいじゃん! みたいな。

目に見える物質的な見返りがなかったとしても、精神的な見返りを求めての行動なのではなかろうか、と考えて、自分本位でない献身、自分本位でない他者との関係構築は、ありえないことのように思えるんですよね。

それは母子関係についても同様ではないでしょうか。

よく、母親の愛は「無償の愛」、「究極の愛」だといわれることがありますが、こちらもよく聞かれる反論として、母親の愛も「子孫繁栄のための本能にすぎない」というものがあり、これをまったく否定することは難しく感じられます。

辰夫の母は、辰夫が精神病院へ入院している間はとても冷淡な態度でした。その態度からは母親の愛情など微塵も感じられず、ただただ自分に不都合な存在と関わり合いになろうとしない、自分本位しか感じることができません。

さらに今度は、辰夫が退院して、私鉄の改札員として働き出し、一緒に暮らすことで自分に利益がもたらされるとなると、冷淡な態度は一変して――ここにも自分本位な態度しか見出すことができません。

なぜ「私」はこの母親の変貌から、「世に母親ほど端倪たんげいすべからざるものはないと教えられた」のか、正直、僕にはよくわかりませんでした(そのままの意味は「測り知れない」ということなので、賛辞の意味ではなくて、意味不明ってことであってるのですかねえ……謎です)。

まあ、過去にこだわって、現在を家族別々に過ごすよりも、過去にこだわらず、現在を家族一緒に幸せに過ごせれば、そのほうがよいのだとは思いますが。

結果がすべて、ということなのでしょうかねえ……しかし、人間どうしたって過程を気にしてしまうように思うのは、僕だけ?

僕だったら、こんな母親と一緒に暮らしたいとは思わない気がするのですが、それは僕が冷淡な、あるいは心の狭いやつだからなのでしょうか……よくわかりません。

ともあれ、人間関係に利害を持ち込みたくなければ、こちらが何も与えないかわりに、あちらからも何も受け取らない覚悟みたいな気持ちが必要なように考えました。

しかし何も与えず、何も与えられない人間関係というものは、はたして成立し得ないことのように思います。

母子関係、友人関係、恋人関係――どんな関係も利害関係。

それは常に心の片隅に留めておかないと、勝手に相手に失望して、本当は大事な人間関係を壊してしまうかもしれないし、あるいは壊してきたのかもしれない、などと考えてみると、ちょっと怖いようにも感じてしまった、今回の読書感想でした。

読書感想まとめ

母子関係、友人関係、恋人関係――人間関係はすべからく利害関係。

狐人的読書メモ

とはいえ、「私」がイライラし、ついつい心無いことを言ってしまったとき、辰夫が「本当に君にすまない。君のようないい友達を、こんなにも苦しめて……僕はどうしていいかわからない」と謝罪したところはすなおに感動を覚えた。

自分が原因であったとしても、相手にひどいことを言われたあとに、こちらから謝るのはとても難しいことのように感じている――見習いたい。

人間は小説やドラマや映画など、美しい人間関係に感動したりする。しかしつきつめてしまえば、それもやっぱり利害関係に還元できると思う。

人は、どうして利害関係に、友情、愛情などの幻想を見るのだろう? いつも不思議に感じる。

・『母/坂口安吾』の概要

1932年(昭和7年)『東洋・文科 創刊号』(花村奨、6月1日発行)にて初出。一般的なよい母のイメージではなくて、悪い母のイメージが描かれている。最後に『私』(著者)の感じている『母を端倪すべからざる』気持ちが理解できなかった。人生経験不足か? いずれ再読・考察したいテーマである。

以上、『母/坂口安吾』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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