さまよえる猶太人/芥川龍之介=罪を意識せぬ者に、罪を背負うことはできない。

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狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

さまよえる猶太人-芥川龍之介-イメージ

今回は『さまよえる猶太ユダヤ人/芥川龍之介』です。

文字数7500字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約20分。

キリストの呪いを負った「彷徨えるユダヤ人」は、
不死者となっていまもどこかをさまよい続けている。
キリスト教圏では有名な伝説。
『魔法使いの嫁』に出てくる。
知ってる?

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

彷徨さまよえるユダヤ人はキリスト教における伝説の人物だ。イエス・キリストの呪いを受けて不死者となり、最後の審判の日まで永遠に放浪を続けている。

あらゆる年代、さまざまなキリスト教圏の国で、彼が姿を現したという記録が残っている。

名前はカルタフィルス、アハスフェルス、ブタデウス、あるいはイサク・ラクエデムなど、一定しない。職業もまた同じで、エルサレムにあるサンヘドリンの門番だったり、ピラトの下役したやくであったり、あるいは靴屋だったりする。

が、呪いを受ける原因については、場所や時間の差異はあれ、だいたい同じようなものだ。以下はそのうちの一つである。

彼は、ゴルゴタの丘へ引かれていくキリストが、彼の家の前で休むのを許さず、罵り、打擲ちょうちゃくを加えた。キリストは「私は行く。おまえは私の戻るまで待て」と言って彼を呪ったという。

著者は彷徨えるユダヤ人の伝説に対し、2つの疑問を持った。

・彷徨えるユダヤ人は日本を訪れなかったか?
・なぜ彷徨えるユダヤ人だけが呪われたのか?

著者は偶然手に入れた古文書の中にそれらの答えを見た。

第1の疑問の答え、彷徨えるユダヤ人は日本にも来ていた。そして、その古文書に記されている、彼が語った話の中に、第2の疑問の答えもあった。

キリストを苦しめた者は彼一人ではなかったはずだ。しかし彼だけが呪いを負うことになった。それは彼が、キリストを苦しめた人たちの中で、唯一人、罪の意識を感じたからだ。

第2の疑問の答え、罪を意識せぬ者に、罪を背負うことはできない。

彷徨えるユダヤ人、彼はいまも意識せぬ罪人の罪をもすべて背負い、どこかの国をさまよい続けているのだろうか?

最後の審判がやってくる、その日まで。

狐人的読書感想

神話や宗教の伝説といった話は、不思議と惹きつけられるものがあります。『彷徨えるユダヤ人』は聞いたことがなかったので、興味深く楽しむことができました。

作品によれば、『彷徨えるユダヤ人』の伝説は、キリスト教圏の国々では有名なお話なのだそうです。いろいろな小説などの題材にもなっているらしく、いわれてみれば似たような日本の話をいくつか思い出します。

日本の話、というか、日本のマンガ、アニメを思い浮かべたのですが。

『ファンタジックチルドレン』というアニメがあるのですが、これに登場する「ベフォールの子供たち」をふと連想しました。500年の間、何年かおきにどこかの国でその姿を確認される、謎の白髪の少年少女たちです。

近年だと『魔法使いの嫁』があります。まさにカルタフィルスというキャラクターが登場し、別名もそのまま「彷徨えるユダヤ人」となっているので、この伝説がモチーフになっているのだと思います。

著者の抱いた第2の疑問の答えは、なかなか考えさせられるものでした。

キリストを罵倒し、打擲した人たちの中で、彼だけが呪いを受けた理由、要約すると「罪を意識せぬ者に、罪を背負うことはできない」、すなわちキリストを苦しめた罪を意識していたのは彼だけだったから、ということになります。

罪悪感、人が持つ罪の意識って、たしかに個人差が大きいように思うんですよね。しかもすなおに罪を認めて、反省している人のほうが、より大きな制裁を受け、罪を自覚せず、いいわけばかりする人のほうが、案外実際の刑罰は少なかったりします。

なんとなく、現実をにおわせる話なんですよね。

善良な人ほど損をして、罪悪感を持たない人のほうが得をしている――世の中そんな感じがしてしまいます。

キリストの呪いで死ねない体となり、最後の審判までさまよわなければならない彷徨えるユダヤ人は、本当に哀れだと感じてしまいますが、しかし逆にいえば、彼一人がキリストに認められたのだともいえるわけで、キリストの信奉者であれば、それは幸せなことのようにも思えてきます。

ふと、新美南吉さんの『百姓の足、坊さんの足』を連想しました。これは百姓と坊さんが、地面に落ちたお米をもう食べられないものとして、同じように踏みにじるのですが、百姓の足にだけバチが当たり、坊さんの足には何のバチも当たらなかったというお話です。

お米を育てる百姓は、それを育てる苦労、おいしさ、真の値打ちを知っているからこそバチが当たったのだと気づき、それはありがたいことだったとして、美しい心に生まれ変わってその後の人生を歩むのですが、『彷徨えるユダヤ人』の伝説に通じるところがある気がします。

家族、友人、恋人――親しい人たちが亡くなっていく中、罪の意識を感じ続け、自分一人が生き続けなければならないというのは、どんな気持ちがするものなんでしょうね?

案外、いつまでも現世の楽しみを享受できて、そんなに苦しいことばかりでもないんでしょうか? しかし、そんな考えの人に、キリストが不死の呪いを負わせるはずもなく……一種のパラドックスを感じます。

不老不死については、始皇帝をはじめ、ときの権力者たちが喉から手が出るほど追い求めてきたものですが、「彷徨えるユダヤ人」の受けた呪いというのは、そのような人たちには与えられることのないもののようで、ここにも矛盾を感じます。

結局のところ、『百姓の足、坊さんの足』も『さまよえる猶太人』も、人が苦しむのは呪いではなくて、自分の良心なのだという、どこかマイナスプラシーボ効果みたいなことを思わされる教訓ですが、はたして良心は持ったほうが幸せなのか、持たざるほうが幸せなのか……僕にはちょっとむずかしいように思えてしまうんですよね、答えが出せません。

あなたは不老不死になりたいですか?

(ちなみに一説によると、「彷徨えるユダヤ人」の呪いは、100歳になると呪いを負ったときの年齢である30歳に戻ってしまう、というものなのだそうで、厳密にいえば不老ではないみたいですね。やはり不死鳥、輪廻転生を思わされるところでした)

読書感想まとめ

罪を意識せぬ者に、罪を背負うことはできない。良心を持つことは幸せか、良心を持たざることが幸せか。むずかしい問題に思えました。

狐人的読書メモ

『彷徨えるユダヤ人』は創作の題材として、たしかにおもしろく感じる。

・『さまよえる猶太人/芥川龍之介』の概要

1917年(大正6年)『新潮』にて初出。芥川龍之介のキリシタンもの。キリシタンものは狐人的にけっこうおもしろいものが多い気がする。虚構の写本と実在の文献を織り交ぜる手法も興味深い。

以上、『さまよえる猶太人/芥川龍之介』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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