睡蓮/横光利一=どこでもきれいに咲く睡蓮のように。

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

睡蓮-横光利一-イメージ

今回は『睡蓮すいれん/横光利一』です。

文字数9000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約27分。

刑務所に入れられた富者、権力を手にした貧者――
人間は置かれた環境で、がらりと態度が変わってしまう。
どこでもきれいに咲く睡蓮のように。
互いに強く信じ合い、小さな幸せを、守る。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

私は下北沢に家を建てて引っ越す。近所を散歩する仲睦まじい若夫婦を見かけるようになる。二人は裕福には見えなかったが、一種特別な光がさしていると私は思い、好感を持つ。しばらくすると、私の家の隣に小さな平屋が建ち、そこにこの若夫婦が越してくる。

夫の名は加藤高次郎といい、陸軍刑務所の看守をしており、かなり高名な剣客だという話で、近所でも評判の美男子だった。妻はみと子、付近の娘たちに縫物を教えているという。互いに強く信じ合い、愛し合い、小さな幸せをしっかりと守っている、まれに見る幸福そうな夫婦だ。

朝、高次郎氏が自転車に乗って出かけるとき、みと子夫人が門口で、「行ってらっしゃい。行ってらっしゃい」と、主人の姿が見えなくなるまで見送っている。雨が降っても雪が降っても、毎朝変わらず。やがて、そこに元気な子供たちの声も聞こえるようになる。

お隣同士とはいえ、年に一度の年賀の挨拶以外、私と高次郎氏が顔を合わせることはなく、私の家の次男が、高次郎氏の家の女の子を泣かせてしまったりなど、些細ないざこざがあったりもしたが、私は変わらず、加藤家に対して好感を持ち続けていた。

あるとき、高次郎氏が不慮の事故で亡くなると、残されたみと子夫人と子供たちは郷里へと引き上げていく。寂しさを感じていた私のところに、香典返しとして一冊の貧しい歌集が届き、それは高次郎氏の遺作を編集したものであった。

歌からは、高次郎氏の謙虚清澄な生活と人柄が伝わってくるようで、それらは私の心に深く響く。そのうちの一歌に『移されしさまにも見えずわが池の白き睡蓮すいれんけさ咲きにけり』というものがあり、高次郎氏の歌の師匠がこの歌集につけた題名も「水蓮」だった。

高次郎氏は、水蓮によっていたく人生を教えられたことがあるという。刑務所の池に根分けしてもらった水蓮が、外の世界と変わらぬ美しさで咲いたのを見て、高次郎氏は魂を打たれた。人間であれば、偉い人でも刑務所へ移されると、態度が変わってしまう。が、水蓮の花は変わらない。

高次郎氏はある夜、仕事の帰りに師匠のところを訪ねて、夜更けまでかけて歌の清書をすべて終え、帰宅途中に事故にあったという。一度は誰にも来る終末の世界に臨んで、端座して筆を握り自作を清書している高次郎氏の姿は、文人のもっとも本懐とするものに似て見え、はっと一剣を浴びた思いで、私は剣客の去りゆく姿を眺めるばかりだった。

狐人的読書感想

「私」が加藤夫婦が気になったのって、日常でなにげなく見かけるようになったのがきっかけなんですよね。ふと、毎朝同じ時間帯、同じ車両に乗る電車やバスの中で、いつも顔を合わせるひとに抱く妙な連帯感、みたいなものなのかな、とか、ふと思ったのですが、そう書いてみると、ちょっと違うかもしれません。

ともあれ、清廉な理想の日本人が描かれている小説なのかなあ、という気がします。さすがに理想なだけに、こういった人物を現実に見るのは、今も昔も難しいように思ってしまいますね。

また、日本の理想の夫婦像も、同時に描かれているように感じます。古き良き日本の理想の夫婦像、といったほうがより正確かもしれませんが、互いに強く信じ合い愛し合い、それに満足して、壊れぬ幸福をしっかり守っている――全体的にはそうであったとしても、いつもいつもそうあるのは難しく感じ、たまには疑っちゃったりするのが、夫婦という気もします。

まあ、あくまでも、「私」の主観のみで加藤家について綴られているものなので、じつは高次郎氏とみと子夫人も、ケンカくらいする日があったかもしれないな、などと、勝手に想像してしまうのですが、そのほうが人間味が感じられていいようにも思います。

毎朝、高次郎氏を見送りに出るみと子夫人の姿に、やがて子供たちが加わるようになっていくのは、なんだかいいなあ、と感じてしまいますが、現代ではまず見ることのできない情景のような気がします。

現代では妻も外で働く時代ですし、子供も保育園や幼稚園に預けられることが多いでしょうし、そうした朝の時間はバラバラになりがちなのではないでしょうか? それとも、みんなで一緒に出掛けるような家庭のほうが、多かったりするんですかねえ……ちょっと気になったところです。

「私」と高次郎氏とは新年の挨拶以外に言葉を交えることはなかったようですが、現代の希薄化するご近所づきあいみたいなものを連想しました。とはいえ、とくに男性はそんなものか、という気がするし、マンション住まいなどでは、お隣さんと新年の挨拶さえすることはないんじゃないかと思えば、やっぱりご近所づきあいというものはなくなってきているんですかねえ。

さて、この小説の要は、やはり高次郎氏の遺歌集を読んで、「私」が感銘を受けて、さまざまに思いを巡らせるシーンだと思います。理想の日本人像である高次郎氏が、日々の生活の中でどのようなことを思い、また悩んでいたのか、「私」ならずとも、誰しも共感を覚える歌が、一つくらいは見つかるように感じます。

『上官のあつきなさけに己が身を粉とくだきて吾はこたへむ』

という歌があるのですが。目上の人に反抗する技術ばかりを、個性の尊重として主張する青年たちよ、よく聞けよ、と、老婆心みたく「私」は思っているのですが、いわれてみれば思い当たるふしがなきにしもあらず、という気がして、反省させられるところでした。

とはいえ、あつきなさけをかけてくれるような上官(親、先生、先輩、上司などなど)が、いまのご時世どれくらいいるのかなあ、などと、ついついひねくれたことも考えてしまったり。目上も目下もそれぞれに思わされる歌だと思い、印象に残りました(そういえば、『電話野郎』とか、『意外と飲み会に誘ってほしい後輩』とか、ワイドショーの話題になっていたのをふと思い出しました)。

あらすじに書いた、タイトルにもなっている、高次郎氏が『睡蓮』から得た教えについては、単純にすばらしいものだと感じました。どのような環境にあっても、変わらず美しい心を持ち続けること。睡蓮の花のようにありたいと願いますし、また『睡蓮』の花から教訓を得られた高次郎氏のような心になりたいと思いました(僕には遠すぎて、思うだけで終わってしまいそうな予感がしますが、はたして……)。

読書感想まとめ

睡蓮の花のような変わらぬ美しい心を持ち続けること。また、睡蓮の花から教えを感じられるような、高次郎氏の心持ちを見習いたいと思ったこと。

狐人的読書メモ

睡蓮――スイレン目スイレン属の植物のひとつ、クロード・モネの作品、B’zの楽曲(アルバム『THE CIRCLE』収録曲)、湘南乃風の楽曲(『睡蓮花』)、横光利一の小説……『睡蓮』はなんとなく印象に残る字だが、だからだろうか、いろいろな睡蓮があるようだ。

・『睡蓮/横光利一』の概要

1926年(昭和15年)『文藝春秋』にて初出。古き良き日本人の理想像。理想とはいえ、現代でも見習うべきところは大である。

以上、『睡蓮/横光利一』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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