狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『水仙/太宰治』です。
文字数11000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約33分。
人の評価は絶対的なものではない。
では芸術における才能とは何か?
苦しんで努力して成功すること?
何の苦もなく認められる天才?
芸術はどういった社会で発展してきた?
続けることの困難。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
売り出し中の作家である「僕」の生家と草田氏の家とは、古くから親しく付き合いがあった。とはいっても、草田氏の家のほうが身分も財産も段違いに上なので、まるで殿様と家来といった感は否めなかったのだが。
三年前の正月、「僕」は手紙で丁寧な招待を受け、年始の挨拶に草田氏の家を訪れるが、そこでしじみ汁の食べ方について静子夫人に指摘を受けた。
上流階級の人は汁だけを飲み、貝の肉は汚いものとして捨ててしまう。「僕」はそれをうまそうに食べた。酷い恥辱を受けたと感じた。
以来、「僕」は草田氏の家へは行かなくなった。
去年の九月、突然「僕」の家に草田氏が訪ねてくる。
静子夫人が家出をしてしまい、行方を捜しているらしい。
草田氏によれば、静子夫人の実家は数年前に破産したという。それから夫人は自分に自信が持てなくなり、妙に冷たく取りすました女になってしまった。「僕」は三年前の正月の出来事を思った。たしかに以前の静子夫人は、あんなものの言い方をする人ではなかった。
草田氏はなんとか自信を取り戻させてあげたいと思い、夫人をとある老画伯のアトリエに通わせて、絵を習わせることにした。夫人の自信回復のため、草田氏も周囲の人々も、夫人の絵を褒めた。褒め過ぎてしまった。「あたしは天才だ!」と言って、静子夫人は家を飛び出した。
それから三日目、その静子夫人が「僕」の家を訪れた。
「僕」は草田氏が心配していることを話し、家に帰ることを勧めるが、夫人はそれを聞き入れず、「あなたは俗物ね」などと平気な顔で言う。
気分を悪くした「僕」は夫人を家から追い出そうとする。夫人も長居するつもりはないらしい。去り際に「絵をお見せしましょうか」。「僕」が「たくさんです。たいていわかってます」と答えると、夫人は穴の開くほど「僕」の顔を見つめて、去っていった。
それから二か月後の十一月の始めに、静子夫人から手紙がきた。
その後の婦人は絵の勉強もせず、アトリエの研究生たちを自分のアパートに集めて、お世辞と酒に酔う日々を送った。結果、悪いお酒が祟り、中耳炎で耳が聞こえなくなったという。
さらに手紙には、自分の過ちを深く悔いていること、芸術家である「僕」の生き方に本当は憧れていたこと、すべてに絶望し、罰を受け入れる覚悟をしたことなどが書かれていた。
「僕」は手紙にあった住所を頼りに、静子夫人のアパートへ向かう。
筆談で家に帰るよう促すが、夫人は「帰れない」と紙に書いた。ふと、「僕」は妙な予感を覚えた。夫人の絵はひょっとして、すばらしい絵だったのではなかろうか?
夫人に絵を見せてくれるよう頼んでみたが、もう描く気はないという。「僕」は夫人のアパートを出ると、老画伯のアトリエに行った。そこには夫人の描いた水彩画が、一枚だけ残っていた。
水仙の絵だった。
「僕」はそれを「つまらない絵」だと言ってビリビリに引き裂いた。しかしそれはつまらない絵などではなかった。見事だった。なぜ「僕」がその絵を引き裂いたのかは、読者の推量にまかせる。
静子夫人は草田氏のもとに引き取られ、その年の暮れに自ら命を絶った。「僕」はこのごろ夜も眠れないほど不安になる。静子夫人は天才だったかもしれないのに……。
狐人的読書感想
まず何よりおもしろいですし、興味深い小説だと思いました。
静子夫人のことを書いているようでいて、太宰治さん自身のことが書かれている作品なのではないでしょうか?
芸術――というか、創作をする人ならば、他人の評価と自分の才能については、どうしても思わずにはいられないのではないかと考えるのですが、どうでしょうね?
評価というものは相対的なものであって、時代や人によって全然変わってきて、才能を認められたといえるほど多くの人に受け入れられてはじめて「天才」ということになるのだと思いますが、小説でもマンガでも絵でも音楽でも映画でもなんでも、そこが一番難しいところですよね、いわずもがな。
小説などで聞く話では、新人賞では評価されなかった作品が、小説投稿サイトにアップしたら多くの読者から支持を得て、人気作品化したというものがあります。
すなわち、その道のプロや専門家の評価だって、絶対のものだとは言い切れず、作品を広く世に認めてもらうには、やはり運の要素が相当強いように感じてしまうんですよね。
とはいえ、一定以上人心を惹きつける何かが、その作品にはなければならない、とも思います。必ずしもそうではない場合だってけっこうあるような気がします。
であれば。誰かに作品を高く評価してもらい、自分の才能を認めてもらいたければ、とにかく自分の才能を信じて続けるしかないわけですが、これがなかなか難しいですよね、何事においても。
小説の新人賞はある程度の才能があればとれるといい、デビューしてからもコンスタントにヒット作を生み出すことができてはじめて天才と認められ、なので作家の世界では大御所の方が新人に脅威を感じたりライバル視したりするようなことはあまりない、という話をどこかで読んだ記憶があります。
しかしながら、その新人賞さえとれなかったり、てか一次審査すら通らなかったり、いやいやまず作品が完成させられなかったり……、一言で「自分の才能を信じて続けることが大事」とはいってみても、やはり難しく思ってしまいますよね。
もしも生活をかけて芸術に打ち込んでいる人ならばなおさらでしょうし、趣味であれば続けることも可能なように思いますが、それではたしてどこまで本気で取り組んでいるといえるのだろうか、というようなことも考えてしまいます。
以上のことをふまえて(ふまえなくとも)、最後、「僕」が「読者の推量にまかせる」といった、静子夫人の絵を引き裂いた理由はどうしても気になりますよね。
人の身を滅ぼしてしまう芸術というものに対する怒りが込められているのでしょうか、それとも画家としては再起不能になった静子夫人に対する情けみたいな気持ちがあったのでしょうか――おそらくは、一つの感情によって行われた行為ではなかったように、僕は感じているのですが、はたしてどうなのでしょうねえ……、自信を持って「これだ!」と言える回答が思い浮かびませんでした。
結果、「僕」の抱えることになった不安については、なんとなくわかるような気がしています。
「僕」は静子夫人の絵も見ずに、「たくさんです。たいていわかってます」と言ってしまい、そのことが静子夫人に自信を失くさせる大きな要因になったことは、老画伯の話からもたしかなことだと読み取れます。
が、実際に見た絵は見事なものでした。
芸術の評価が絶対的なものでないことは、売り出し中の作家である「僕」も充分に理解しています。
ひょっとすると、静子夫人には才能があり、天才として認められたかもしれないと思えば、自分の無下な行いを後悔し、不安を感じたとしても不思議はないですよね。
あるいはこの不安こそが、「僕」に静子夫人の絵を破らせた大きな要因だったのではなかろうか、などと僕は想像してみるのですが、どうでしょうね?
苦しくても、悩んでも、結局は続けていける人のことを天才と呼ぶのかもしれませんが、充分なお金を持っていて生活の心配もいらないのならば、他者の評価など気にせずに、自分の好きなことを続けていくのは容易なことのようにも感じています。
お金持ちの静子夫人は結局甘えていただけだ、とも捉えられそうではありますが、現実を見据え、本気で取り組むからこそ苦しい――ということはあると思うんですよねえ……、そもそも芸術や哲学はゆとりのある社会でこそ発展してきたものですしねえ……、とにかく、他者の評価も自分の才能も気にせず、やりたいことを好きなだけやってみて、限界を感じたら諦める、しかないんですかねえ、やっぱり……、そうなると、やはり待っているのは……、などと、自信のない締めになってしまいました、というのが今回のオチです。
読書感想まとめ
才能とは何か?
狐人的読書メモ
深い苦悩を感じることなく、長く人々に高評価される才能こそが、真の天才だという気がする。それがたとえただの幸運であったとしても。
もうひとつ、アイデンティティーの確立、自己肯定の難しさみたいなものも感じた。
・『水仙/太宰治』の概要
1942年『改造』にて初出。作中で取り上げられている『忠直卿行状記』は菊池寛の著書と推定される。秋田富子が送った手紙が作品のヒントになったといわれているが、秋田富子本人は手紙を無断で使われたことなど好まない部分があったらしい。誰かを傷つけてしまうのも小説、誰かを楽しませることができるのも小説、というあたりはやはり思うところがある。
以上、『水仙/太宰治』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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