狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『弟子/中島敦』です。
文字数30000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約77分。
孔子と子路の師弟関係。
弟子は師を、師は弟子を、尊敬していた。
現在、生徒が先生に暴力を振るう事件がある。
先生は職業? 生徒はお客?
どっちが偉いとかじゃない。お互いを尊重する気持ち。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
国は中国、時は春秋戦国時代、櫓に子路という乱暴者がいた。同じく、賢者との噂も高い孔子がいた。子路は生意気な孔子を辱めてやろうと意気込んで出かけたが、逆に孔子の弁舌と人柄に圧倒されて、そのまま弟子入りすることになる。
ほどなく子路は孔子に心酔するようになる。このような人間は見たことがない。知恵はもちろん、武芸でも孔子は子路よりはるかに上だとわかる。が、孔子はそれらを不用意に用いず、全体として平凡に見えるほど能力のバランスが取れ、一個の人間として完成されている。
子路は孔子が好きになった。そこには弟子になって仕官したいなどという打算的な考えは一切なかった。ただただ、この人の傍にいて、この人を守りたい。純粋な敬愛の情だけがそこにはあった。
一方の孔子も、この弟子の得難い資質には驚きを禁じ得なかった。子路はたしかに乱暴者ではある。しかし私利私欲というものがなく、本能的に物事を捉える。ゆえに理論的思考には向かず、ずけずけと反論してくるので、孔子はいつも子路を叱らねばならなかったが、とはいえそれは必ずしも欠点とはいえないものだった。
子路のこの種の美質は誰にも理解されず、むしろ奇異なものとして一般的には認められないかもしれない。が、孔子だけはこの弟子を愛した。そしてある危惧を覚える。子路は純粋すぎる性質ゆえに、保身ということができず、己の信奉する正義や敬愛する者のために非業の最期を遂げるかもしれない。それはのちに現実のものとなる。
孔子は櫓の宰相として辣腕を振るうも、これを恐れた隣国斉の策略により国を去らねばならなくなった。ここから孔子一門の長年にわたる流浪の旅が始まる。
子路は思った。この世に正義はないのかと。なぜ孔子ほどの人が不遇を囲わなければならないのか? 古来より善人が究極の勝利を得たためしはない。なぜ……?
そして、ときに孔子に対しても不満を募らせた。師は、ぜひ自分を用いたいという君主にしか仕える気はないと言うが、そんなことを言わなければどこでだって仕官の口はある。世の中をよくするためには、まず孔子という人物の身を立てることこそが一番なのではないか?
孔子はただ困ったように苦笑するばかり。
子路は歯噛みする思いがした。
とはいえ、子路の孔子への敬愛の情が揺らぐことはなかった。子路は孔子一人のために泣き、命をかけて孔子の後につき従った。
やがて子路は孔子の推薦を受けて衛に仕えることになる。孔子は十数年ぶりに故国の櫓に戻れることになったが、子路は衛に留まり、子弟は離れ離れになった。
子路は統治が難しいといわれる邑を任され、気難しい人々とよく話をし、見事にこれを治める。三年後、孔子は邑を一目見るなり統治の行き届いていることを知り、これを喜ぶ。
のち、衛ではクーデターが起こった。現王に、もはや勝ち目はなかったが、子路は己の使える主君のため、果敢に火中に飛び込んでいく。王を救うため、二人の剣士と激しく切り結ぶが、子路の情勢不利を見て取った群衆に石を投げられ――ついに力尽きる。
見せしめのため、子路のなきがらは塩漬けにされてさらされた。これを聞いた孔子は涙を流し、家中の塩漬けを捨てさせると、生涯それを口にすることはなかったという。
狐人的読書感想
まず『弟子』というタイトルからは、「昔は弟子入りをして勉強する」のが当たり前だったんだなあ、ということを思います。
いまでは弟子入りしてまで勉強することってないですよね(塾とか習い事とかは一種の弟子入りか?)。
現代では義務教育が当たり前の時代ですが、ふと「何のために勉強しているんだろう?」と思ったことは、誰しも一度くらいあるのではないでしょうか?
親が子供に聞かれて、これに答えるのはちょっと難しいようにも感じます。
まあ、だいたいにおいて「自分のため」みたいな答えになると思うのですが、子供としては納得しがたいところがあるようにも思えるんですよね。
自分将来、プロスポーツ選手になるし、クリエイターになるし、芸能人になるし、YouTuberになるし――とかく大きな夢を持っている子には、どうなんでしょうね?
勉強よりも、スポーツの練習、絵の練習、歌の練習、動画をアップ、といったことに時間をかけたほうが有益だという気がします。
しかしながら、大きな夢というのは叶わないことのほうが多いわけで(てか、ほとんど叶わないわけで)、だったらやっぱり社会において一番有益なのは学歴ということになり、汎用性が高いのは勉強ということになり、勉強しなくちゃいけないということになります。
だけど、本気で真剣に大きな夢を追いかけている子がいたとして、親は「夢なんてどうせ叶わないんだから勉強しなさい」とはなかなか切り出しにくいし、子供だって受け入れがたいものがありますよね。
いえ、これはただの想像なので、そんなこともないのかもしれませんが。
最近は、普通に勉強が必要になる堅実な夢を持つ子のほうが多そうなので、これは完全に的外れな想像かもしれません。
公務員とか会社員とかが普通に「子供のなりたいものランキング」の上位にあったりしますし、金融業界で働くというのは漠然としているような、しっかりしているような――さて。
前置きが長くなってしまいましたが、これはかの有名な儒教の開祖・孔子さんと、その弟子の子路さんとのお話です。
中島敦さんの『弟子』という作品は、『論語』を題材にして書かれた作品ですが、実際の『論語』でも孔子さんと子路さんとのエピソードが一番多いんだそうです。
やはりお互いに特別な存在だったのかな、などと想像してしまいます。
子路は素直な気質の持ち主で、素直な人というのはときに愚直に見られてしまいがちだというのはたしかにそのとおりだと思い、しかしその子路の性格を尊重しながら育てようとした孔子さんの師としての在り方は尊敬できるものだと感じます。
子路はただただ孔子さんが好きで、尊敬していて、慕っているんだな、ということが作中の端々から感じられます。
師が偉く、弟子が侍るばかりでなく、互いに尊敬し合えるような関係こそが師弟関係なんだなあ、などと単純に思いました。
現代ではなかなかこういう師弟関係というのは見られないように思いますが、どうなんでしょうね?
スポーツの監督と選手の関係とか、あるいは大学の教授と研究者の関係とか、これに近いものがあるんでしょうか? 想像してみるしかありません。
最近、高校生が教師に暴力を振るったというニュースを見ましたが、少なくとも現在の学校教育では、先生が生徒を、生徒が先生を、互いに尊敬し合える関係はないように思えてしまいます。
教育が社会制度化され、教師は「師」ではなくただの職業に、生徒は「弟子」ではなくただお客様みたいになってしまっているんだな、と感じます。
本来、勉強したいという気持ちや、この人に教わりたいという気持ちは、自然と沸き上がってきて師弟関係というのは形成されるものなのでしょうが、しかしそれだと自分から勉強したいという人はなかなか現れないようにも思い、社会の発展に義務教育が大きく貢献してきたことを鑑みても、何がよくて何が悪いという話でもないという気がします。
とはいえ、たとえいまの世の中でも、師を尊敬する気持ち、弟子を尊敬する気持ち、そういった気持ちは常に忘れず、大切にしていきたいものだと、そんなことを思った読書でした。
読書感想まとめ
師は弟子を尊敬し、弟子は師を尊敬する。
どちらが偉いわけでもない。
そんな気持ちを大切にしたい。
狐人的読書メモ
この作品にもやはり中島敦らしい不条理が描かれているところがある。邪が栄え、正は虐しいたげられる。善行の報いはけっきょくのところ自己満足のみしかないのか。
孔子の弟子の一人の才能に思うところがある。然としか気づかれないものをはっきり形に表す才能。
・『弟子/中島敦』の概要
1943年(昭和18年)、『中央公論』にて初出。儒教の開祖・孔子とその弟子である子路の師弟関係。
以上、『弟子/中島敦』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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