狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『おしの/芥川龍之介』です。
文字数5000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約12分。
神父は仏教の話を聞いてムッとする。
おしのはキリストを臆病者呼ばわりする。
最近思うのはまず人は自分本位に生きるべきだということ。
自分を助けてくれるものが神様なのです。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
梅雨曇りのある日、薄暗い南蛮寺の堂内で、オランダ人神父が神に祈りを捧げていると、武家の女房らしい女が一人、静かに堂内へ入ってきた。祈りを終えた神父が聞くと、女は来訪の目的を話す。
女の名前はしのといい、武家の未亡人で、息子がいま大病を患っており、助けてほしいのだという。神父がすぐに見舞いに出かけようと言うと、険のある能面に近い女の顔に瞬間喜びが輝き、神父はそこに母の顔を見てやさしい感動を覚える。
神父は「できるかぎりのことはするが、もしものときは……」と語り出す。女は穏やかにその言葉を遮り、「そのときは観世音菩薩にお縋りします」と言う。神父は自分の神を軽んじられたと怒りを感じる。
思わず神父は「観音、釈迦八幡、天神、――あなたがたの崇めるのは偶像に過ぎず、真実の神はイエス・キリストのほかにない――」と女に向かって熱弁を振るう。女は「息子の命さえ助けてくれれば一生キリストに仕える」と言う。
感動した神父はさらにキリストの生涯を早口に話し始めるが、キリストがゴルゴタの丘で十字架に磔にされたときの最後の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?)という件にさしかかったとき、女の表情が一変する。
それまでキリストへの感動に打たれていたはずの女の目には、いまや冷ややかな軽蔑と憎悪とがありありと表れていた。女は言った。
「イエス・キリストとはそのようなお方ですか。私の夫は合戦で勇ましく戦って果てました。それなのにキリストは、いくら磔にされたとはいえ、そのような恨みがましいことを言うとは見下げたやつです。そんな臆病者にいったい誰が救えましょう? 息子も勇ましかった夫の子、臆病者の薬を飲むくらいならば腹を切ると言うでしょう。もうけっこうです」
女は去ってしまった。
ただただ驚くばかりの神父をあとに残して。
狐人的読書感想
最近の読書では神様について思うことが多いです。
意図してそのような作品を選んでいるわけではないので、これは果たして偶然なのかな? ――などと思うことがよくあります。
ひょっとして僕は、いま神の救いを必要としているのかな? ――などと考えてしまいますが、これはただの起こりうる偶然というだけの話でしょうね。
宗教や神様はよく小説のテーマになっていますし、むしろこれらを扱っていない小説のほうが少ないようにも思え、宗教や神様は小説と切っても切れない間柄にある、という気がします。
しかしそんなことを言い出したら、じゃあ小説とかかわりない物事ってなんだろう、とか考えはじめてしまい、そうなってくると小説と関係ない物事というのは存在しないようにも思えてくるのです。
さて、余談が過ぎましたが。
芥川龍之介さんの『おしの』は「キリシタンもの」と呼ばれる作品群のひとつです。
芥川龍之介さんの作品にはこのようにキリスト教を題材にしたものがけっこうあります。
著者自身の宗教観みたいなものが反映されているのかな、などと想像しながら読んでみると、よりおもしろく感じてしまいます。
『おしの』では、「対立する二つの精神性」みたいなものが描かれているのかなあ、と感じました。
神父のキリスト教とおしのの武士道精神――といった感じです。
異文化や異宗教を理解するのはむずかしいと思うことがあります。
武家の未亡人であるおしのが、キリストの最後の言葉の話を聞いて、自身の信奉する武士道と照らし合わせて、キリストを臆病者だと言ったところは日本人ならなんとなくわかったとしても、海外の方には理解がむずかしいように想像しました。
ただ調べてみると、キリストの最後の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は「エリヤ、エリヤ、ラッファエロ、迎えに来なさい」という意味だったという解釈もあるので、一概にキリストを臆病者呼ばわりすることはできなさそうですが、しかしユーモアとしておもしろい捉え方だと思いました。
最近の読書でよく思わされるのは、「人間は結局自分本位の生き物である」ということなのです。
この作品に登場するオランダ人神父もおしのも、とても人間らしいという気がしました。
神父はおしのが仏教神の話をし出したときにムッとしていますし、おしのは息子の病気さえ治してくれれば神様なんて何でもいいという態度です。
人は自分の信じるものを他人にも信じてほしいし、自分を救ってほしいときに自分を救ってくれるものが神様なんだなと思いました。
僕はいつもキレイに生きたいと願ってしまいます。
ここでいう「キレイに生きる」とは「人の心を傷つけずに生きる」ということです。
いつも誰かに気を遣って、その人を傷つけないような言動を心がけて――だけどそれはとても疲れることのように感じています。
もちろん、いつもそれができているわけではありませんし、むしろできていないことのほうが多いという気がします。
だけど「人の心を傷つけたくない」という思いは、結局「自分の心を傷つけられたくない」という思いなんですよね。
あとで自分の言動を後悔してウツになるときがありますが、結局誰かに嫌われたくない、自分の評価を下げたくないという気持ちが常に先行しているように思い、相手のことを考えて反省しているわけではないというふうに感じるのです。
そういうのは疲れるし、誰かと話をするのが怖くなるというか、どんどん誰とも話をできなくなっていくので、最近ではまず自分本位に振舞って、その言動が行き過ぎてしまい、誰かに迷惑をかけてしまったとき素直に謝れればいいのかなあ、などと考えはじめています。
ひょっとして、みんなそんなことわかってて生きているのかなあ、などと、ふと想像してみると、いまさらこんなことを言い出している自分が恥ずかしいように感じてしまいますが……。
自分本位に生きることは決して悪ではないのではなかろうか、と思いはじめている今日この頃――という読書感想でした。
読書感想まとめ
自分本位に生きること。
狐人的読書メモ
そういえば、日本で強力な宗教観が生まれなかったのは、島国で外敵がいなかったから、みたいな話を聞いたことがある。自然環境や周辺国など厳しい環境下では強烈な宗教が生まれやすいみたいな。神とはやはり人間の自分本位が生み出した存在だといえるのではなかろうか?
・『おしの/芥川龍之介』の概要
1923年(大正12年)4月、『中央公論』にて初出。キリシタンもの。武士道精神全盛時代の日本人のキリストの解釈がおもしろく、その解釈を理解できないオランダ人神父の様子がどこか可笑しい作品だった。
以上、『おしの/芥川龍之介』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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