源おじ/国木田独歩=無常(無情)、絶望してなお生き続けるということ。

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

源おじ-国木田独歩-イメージ

今回は『源おじ/国木田独歩』です。

文字数14000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約50分。

大切な妻と子供を失って、絶望した源おじだったが、
ひとりの乞食の少年を、我が子として愛そうとして――。

国木田独歩の孤独と運命。商売+パフォーマンス。
絶望してなお生き続けること。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

源おじは九州の佐伯さえきの港で舟渡しをしていた。口数は少なかったが、をこぎつつ歌う歌声がすばらしく、みんな彼の舟に乗りたがった。そんな源おじの歌声に惹かれたのが、ゆりという美しい娘で、彼が二十八、九の頃、二人は結婚して夫婦となった。

それから夫婦の幸せな日々が続いたが、一人息子の幸助こうすけが七歳のとき、妻ゆりは二度目のお産が重く帰らぬ人となってしまう。そしてその後幸助も海で溺れ、十二歳でこの世を去った。以来源おじは、まったく口を利かず、歌わず、笑わなくなってしまった。

佐伯の町にはある乞食こじきがいた。幼くして母に捨てられ、以来人々のお慈悲にすがって生きてきた。しかし人々の慈悲も無限ではなく、引き取り手もなく、いつまでも乞食として生きるしかなかった。はじめは母を想って泣いていた。しかしじきに母を想うことはなくなった。泣くことも、笑うことも、怒ることもなくなった。この乞食は紀州生まれらしいことから「紀州」と呼ばれるようになった。

源おじはある年の雪の夜に、佐伯の町の大通りでたまたま紀州と出会い、鉢合わせて彼を引き取ろうと決めた。しばし見合わせた紀州の目は、石を見るように源おじを見ていた。もし一人息子の幸助が生きていれば二十歳くらい、紀州はそれより二つ三つ下だろう。

雪の夜から七日後、源おじは客たちを乗せて櫓をこいでいた。源おじは昔のようにすばらしい歌を歌って客たちを驚かせた。紀州のことを聞き知っていた客のひとりがそのことを尋ねると、源おじは「紀州は我が子だ」と答えた。

家には我が子が待っている、今度櫓のこぎ方など教えてやろうと、源おじが帰ると、家に紀州はいなかった。急いで町を探すと、紀州はひとり道を歩いていた。「ひとりでどこに行くんだ」と、怒り、喜び、悲しみ、または失望を込めて源おじが訊くと、紀州はいつもの無感情な目で源おじの顔を見返した。源おじはやさしい言葉をかけながら紀州を家に連れ戻した。

どうやら風邪を引いてしまったようだ――源おじはその晩、我が子がいなくなる夢を見た。目を覚ますと、紀州はまたいなくなっていた。その日、源おじは布団から出ることができなかった……。

翌日、源おじの小舟が岩の上に打ち上げられて、砕けていた。それを見つけた人々のうち、ひとりの若者が源おじに知らせに行くと、道の途中の松の枝に、怪しきものが下がっていた――源おじだった。

山のふところの小さな墓地に「池田源太郎之墓」が建てられた。幸助のを中にして、源おじ一家の墓が並んでいた。紀州は前と同じく佐伯の町で乞食をしている。ある人が彼に源おじのことを伝えたが、紀州はその人の顔を、ただ見返すだけだった。

狐人的読書感想

源おじ-国木田独歩-狐人的読書感想-イメージ

『源おじ』は国木田独歩さんの処女小説です。文語体ですがそれほど読みにくい印象は受けませんでした。あらすじでは省いてしまいましたが、『武蔵野』などに見られる巧みな情景描写が美しく、内容的には無常(無情)が感じられるように、僕には思えて、とてもいい小説でした(やっぱり流石は国木田独歩さんです!)。

この作品にはタイトルのとおり、『源おじ』(源叔父)の生涯が綴られているわけですが、思わされるところは多かったように思います。順番に綴っていきたいと思います。

源おじは舟渡しで、もちろん腕もたしかでしょうが、それよりも彼の歌う歌を聴きたくて乗客が集まってくる、といったところに、現代にも通用する商法を見ました(源おじの場合商売目的でやっているわけではないのですが)。

実演販売などで用いられるように、ある種のパフォーマンスを商売に取り入れるという試みは、有効な商法だと思えるのですが、振り返ってみれば、結構昔からあったんだなあ、という気がします。

たとえば最近、坂口安吾さんの『梟雄』を読んだのですが、これはコンパクト版・斎藤道三さんの一代記ともいえる内容となっているのですが、その道三さんが若い頃に、油の行商人をしていたときに、一文銭の穴に油を通して一滴もこぼさず、お客の壺に油を移して売っていて、これが大ウケにウケたという逸話があるのですが、まさに商売におけるパフォーマンスの有効性を証明したお話です(ただし、最新の歴史研究ではこれは事実ではない可能性が高いそうですが)。

このような『商売+パフォーマンス』の行いが、世界的にはいつごろからあったのか、調べてみてもおもしろそうに思いました。

しかしながら調べるのはまた今度にして(本当に?)、話を先に進めます。源おじの妻ゆりは、その歌に惹かれて夜に乗客として源おじを訪ね、それがきっかけで源おじと夫婦となるエピソードは、なんとなくロマンチックを感じました。

昔(明治や大正、あるいはそれ以前)の日本を舞台とした小説で、恋愛や結婚について女性が積極性を示す作品にはこれまであまり触れた記憶がなく(単に僕の読書量不足のためかもしれませんが)、草食系男子とか絶食系男子とかまたは肉食系女子みたいな、これはどちらかといえば恋愛に積極的な印象を受ける現代の女子を連想させられたところでした(とはいえ、奥ゆかしい日本人女性というのはそれこそ古典文学からくるイメージであって、実際はやはり昔から女性のほうが恋愛には積極的だったのかもしれません、女性は強し!)。

それから源おじは愛する美しい妻と息子と、幸せな月日を過ごしますが、小説にも「夢よりも淡く過ぎたり」とあるように、妻と子供とを続けて失ってしまいます。そのことで源おじは、ものいわず、歌わず、笑わなくなってしまい、周りの人たちもそんな源おじを敬遠するようになってしまい、孤独な生活を送るようになります。

愛する人が、大切な人がいなくなってしまったとき、残されたひとはどうやって生きるべきだろうか、というのは最近の読書やあるいはニュースを見ていてよく考えさせられることのひとつ、という気がします(織田作之助さんの『妻の名』の読書感想と小林麻央さんの訃報)。

そのショック、喪失感、生きる気力の減退――立ち直るのは容易ならざることのように感じますが、しかしそれで源おじのように無感情になって無気力になって、ただ生命活動を維持しているに過ぎないといったような状態に陥ってしまうのは、やはりよくないことだと感じました。

時間が解決してくれる、辛い記憶を忘れさせてくれる、というのはよくいわれることですが、かといって完全に忘れてしまうのも何か違う気がするし、だけど忘れなければ前向きに生きていくのは難しく、では前向きに生きていけるのであれば完全に忘れるのもありなかなあという気がして、忘れられるほうからしたらそれは寂しいことのように感じますが、これからも生き続けていかなければならない大切な人のことを思えばそれは我慢できるのかもしれない(没後のひとの気持ちを思うのはあるいは合理的ではないことかもしれませんが)、とかなんとか、いろいろと考えてしまいます。

とはいえそう簡単に忘れられないから苦しいんであって、小説や漫画やアニメや映画やドラマやなんかでは、時間の流れとともに心に整理をつけて、大切な人の思い出を胸に、ときどきはその人のことを思い出したりして、新たな人生を歩んでいく、というのがひとつの理想の在り方として描かれますよね。

そこには人間の心の強さというか、実際的な生き方を学ばされる気がするのですが、真剣に自分が大切な人を失ったときのこと、あるいはそれに匹敵するような絶望を味わったとき、やはり僕は源おじのような生き方をしてしまうように思うのです。

絶望から立ち直ることの難しさを思わされたところでした。

もうひとり、絶望から立ち直るのでなく、感情をなくすことで生命活動を維持しているのが、幼くして母親に捨てられ、乞食となった紀州です。源おじは、自分のように感情を表に出せなくなった紀州を、あるいは亡くなった一人息子の幸助と重ね合わせて見ることで、彼を引き取って我が子として育てようとするわけですが、その結末は無情(無常)なものでした。

物語にハッピーエンドを求めるひとはけっこう多いのではなかろうか、と勝手に想像するわけなのですが、僕としても源おじと紀州の明るい未来を願いたいところでしたが、結局そうはなりませんでした。

ラスト、熱を出した源おじの夢によく表れているところなのですが、源おじはやはり紀州を紀州として見ているわけではなくて、やはり亡くなった一人息子の幸助としてしか見ていなかったことがわかります。

あるいはそのためだったのでしょうか、紀州は源おじの前から二度も消えてしまい、源おじはそのことに絶望して、あのような最期となってしまいました。

自分が満たされるための一方的な愛情は、たしかに相手に伝わらないもののように思いますが、しかしもっともっと時間をかけて、触れ合っていけば、あるいは源おじと紀州の間に、本物の親子の情が芽生えたのではなかろうか、と想像すると、この結末はちょっと残念に思いましたが、文学的な観点(とか僕のようなものがいってよいものか……)からしてみると、このような作品が必要なのだということもわかるような気がします。

だから、ラストは悲しく寂しいものではありましたが、すごくいい小説だと思いました。

読書感想まとめ

源おじ-国木田独歩-読書感想まとめ-イメージ

たぶん無常(無情)を描いた小説?

狐人的読書メモ

超余談だが、佐伯銘菓に『源おじ』(出雲堂)というお菓子がある。外はさっくり、中はしっとり、口に入れた瞬間、卵とフレッシュバターの甘みがふんわりと広がる――のだという、ちょっと食べてみたく思った、という超余談。

・『源おじ/国木田独歩』の概要

1897年(明治30年)に書かれた国木田独歩の処女小説。『文藝倶楽部』にて初出。テーマは「孤独」と「運命」。妻・信子の離別が独歩にこの小説を書かせたともいわれている。

以上、『源おじ/国木田独歩』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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