狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『橡の花―或る私信―/梶井基次郎』です。
文字数11000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約35分。
「私」が友人に書いた手紙。書簡体小説。
誰かに見られている気がする、
流行のファッションにイライラする、
電車の音が音楽に聴こえる、
――共感できるアナタはひょっとして病んでいる?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
「私」は手紙を書いた。
京都にいた頃は梅雨の季節になると肋膜を悪くしていたが、東京に来てからそんなことはなくなった。しかし心は病んでいる。
電車に乗れば常に誰かに見られている気がするし、学生の流行りのズボンや靴、女の髪型などがいちいち癇に障る。電車の音は音楽に聴こえて、それはときに嘲笑的に聞こえてとても不快だ。
ある日友人のOが訪ねてきてくれた。机の上に置いていた「Waste」と書きつらねられた紙を見られて、「恋人でもできたのか?」とからかわれた。それで「私」は五、六年前の失恋を思い出した。Oが親戚の子供を遊園地に遊びに連れて行った話などを聞いて、「私」はOの健康をうらやましく思った。
やはり雨の降ったある日の午後、「私」はAの家に出かけていった。同人誌を出すための積立金を持っていくためだった。Aの家ではAの結婚問題について友人たちが話をしていた。Aの家で夕飯をご馳走になってからの帰り道はなんとなく気分がよかった。雨後の橡の花は美しかったし、電車に乗っている女も美しく見えた。
この手紙を書こうと思い立った日、「私」は久しぶりに銭湯に行った。そこで「私」はひとつの問題を考えてしまって、のびのびした気持ちで湯をあがった。その問題とは以前友人の腕の皺を指摘したとき、友人が自分の醜いところが少しでも我慢できない、といった様子を見せたことだった。「私」は「私」にもそんな頃があったことを思い出した。
妄想で自らを卑屈にすることなく、戦うべき相手とこそ戦いたい、そしてその後の調和にこそ安んじたいと願う私の気持をお伝えしたくこの筆をとりました。
狐人的読書感想
副題が「或る私信」となっているように書簡体の小説です。梶井基次郎さんの病みっぷりが存分に出ていて、内容としては大したことが書かれているわけでもないのですが、おもしろく思わされるところがけっこうあります。
ツイッターで病み垢というアカウントを作って、病みツイートというものをしているのを見かけることがあるのですが、読んでみると心を病んでいるという人たちのものの感じ方がわかるような興味深いものもあって、『橡の花』を読んでいるうちになんとなくそのことを連想してしまいました。
こんな感じで、もしも文豪がツイッターをやったらおもしろいんじゃないかなあ、と思うことがあるんですよねえ。
さて、以下は今回の読書で気になったり、共感したり、おもしろかったりしたところをつづっていきたいと思います。
冒頭の「私」が電車に乗るときの話で、常に誰かに見られている気がする、といったところが気になりました。
この誰かに常に見られているような気がするって、たしかうつ病の症状だという話を聞いたことがあるんですよね。
僕もなんか人の目が気になるというか、人目を意識してしまうことがありますが、おそらく自意識過剰なだけなんですよね。
案外人って他人のことを見ていないものですし、逆に見ていてもすぐに忘れてしまうものなので、そんなことを気に病む必要はないのですが、常に誰かに見られていると感じることはあるように思います。
人の流行りのファッションや髪型が癇に障る、というようなことも、感覚的にはわからなくもないように感じました。
精神が不健康というか、病んでいるというか、イライラしているときって、ちょっとしたことが気に障ること、ありますよね。
病んでいるという人たちって、このイライラしている状態がずっと続いているってことなんだろうなあと、どうも当たり前のことを再認識したところでした。
「私」はさらにそういった癇に障るところをわざわざあら探しして、効果的に恥を与える言葉を並べて、致命的にやっつけてやりたい衝動に駆られたというのですが、さすがにそれは陰険すぎかな、などと思いました。
結局「私」はそんなことはしなかったのですが、言って後悔することと言わないで後悔することが日常生活にもあるような気が、ふとしました。
これはメールとかツイッターとかで多いような気がします。
誰かに返信したりいいことをツイートした気でいても、あとで読み返してみると適切でないことを言っていたり恥ずかしいことをツイートしてしまっていた、みたいな。
まあ、これもこっちが気にするほど読んだ人は気にしていないのかもしれないのですが、返信はできるだけ短くしたほうがいらないことを言わなくてすんでいいのかなあ、などと考えることがあります。
同じように、いらないことを言わないほうがいいんだよなあ、と思った箇所に『俗悪に対してひどい反感を抱くのは私の久しい間の癖でした』という一文があります。
ニュースで政治家の不祥事とか芸能人の浮気とか見てしまうと、僕にもひどい反感を抱いてしまうところがあるように思うのですが、それを言葉にして誰かに言ったことを後悔することがよくあります。
政治家の不祥事については国民という当事者として非難する権利があるのかなあ、というようにも思いますが、浮気などについては赤の他人が何かを言う資格はないのかなあ、などと考え直すことがあって、だけどついつい口出ししたくなってしまうんですよね。
それから「私」は電車の響きが音楽に聴こえるというのですが、これは思ったことがなかったので新鮮な気持ちがしました。
絶対音感がある人などが、よく日常の物音が音楽に聴こえるというのは耳にしたことがありますが、そんな感じなんですかねえ。
ただうるさいだけの電車の音や騒音が、音楽に聴こえたら少しはマシなのかな、などと思ったのですが、「私」いわくそれは不快な音楽に聴こえることもあるらしいので、そううまくはいかないみたいですね。
梶井基次郎さんは聴覚が敏感で、音楽的な才能が、少なくとも音楽的な感覚を文章に変換する才能があったように思いますが、ちょっとうらやましい才能ですね。
もうひとつうらやましいといえば、梶井基次郎さんには友達がたくさんいたらしいところです。
逸話などを聞くと梶井基次郎さんはけっこう破天荒な人だったらしく、そういうトラブルメーカー的な人物には多くのいい友達がいるイメージがあります。
破天荒というのは、なんかおもしろそうに見えて、人を惹きつける魅力になっているのかもしれませんね。
友達に関しては、何が友だちで何が友だちじゃないのか、ということについてよく考えることがあります。
自分が楽しむために友だちを利用しているだけなんじゃないのか、あるいは反対に利用されているだけなんじゃないのか、と思うことがよくあります。
何が友だちで何が友だちじゃないのか、ということはほかの人間関係についてもいえることですよね。
何が家族で何が家族じゃないのか、何が恋人で何が恋人じゃないのか、みたいな。
結局のところ自分以外はみんな他人さ、ということを考えてしまいそうになる僕はひょっとして病んでいる?
――というのが今回のオチ。
読書感想まとめ
病み手紙がおもしろく感じられるアナタ(僕)は病んでいる?
狐人的読書メモ
「Waste」という単語から友人が「恋人」を連想したのがよくわからなかった。「Waste」には「浪費する、むだにする」などの意味があっても「恋人」という意味はない。有名な作家や詩人の一節から? あるいは恋人は浪費するものだということ?
「自分のどこかに醜いところが少しでもあれば我慢出来ない」というところにはコンプレックスを思った。とくに思春期のコンプレックスのことを思った。
・『橡の花/梶井基次郎』の概要
1925年(大正14年)11月『青空』にて初出。梶井基次郎が武蔵野書院版『檸檬』に収録されるのを拒んだといういわくのある作品。書簡体小説。
以上、『橡の花/梶井基次郎』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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