狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『散華/太宰治』です。
文字数9000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約28分。
臨終の美。人間には二つの型がある。チャラい人じつは計算?
顔がキレイだってことは一つの不幸ですね。
後輩や先輩との付き合い方。
どこか好感の持てる太宰治の人柄が感じられた小説。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
簡単にいうと太宰治さんが戦争で亡くなってしまった後輩をベタ褒めする話。
その後輩は三田くんといって、詩の勉強のために太宰治さんのところへよく通っていた。太宰治さんには三田くんの詩のよさがよくわからなかった。だけど先輩の山岸さんは三田くんの詩が一番いいという。太宰治さんにはそれでも納得できない。
そのうち三田くんは戦争に行くことになって、戦地から太宰治さん宛てにハガキを送ってくれた。太宰治さんは最後にもらったハガキの文面を見て自分が間違っていたことに気づく。三田くんは間違いなく一流の詩人だったのだ。
三田くんは戦争に行って玉砕した。太宰治さんはそれを新聞で知った。山岸さんと三田くんの弟と、三田くんのために遺稿集をつくることになった。太宰治さんはもちろん開巻第一ページ目に三田くんの最後のハガキの文章を載せたいと思った。大きな活字で載せたいと思った。それ以外の詩は小さな活字でも構わないと思った。それほどその言々句々が好きだった。
狐人的読書感想
冒頭に「まず『玉砕』というタイトルにするはずだったけど、『玉砕』という言葉はあまりに美しくて、結局『散華』というタイトルにした」という作品タイトルについての経緯などが書かれているのですが、ここにちょっとした違和感を覚えました。
「玉砕」って美しい言葉なのかな? みたいな。
たしかに「国のため、戦争のために玉砕した」などと聞けばなんだか尊いことのように感じるのですが、本来的に人の亡くなることが「美しいこと」であるはずがないのではなかろうか、などと思ってしまいました。
犠牲的な精神を尊く、また美しく感じる心が人間にはありますが、戦時中の日本ではその精神作用を利用して、人々を戦争へと駆り立てていた印象が強く、「『玉砕』が美しい」という考え方はなんだか素直に受け入れられない、とか感じてしまうのはひねくれものの僕だけ?
戦争は悪いことです。
ともあれ『散華』という小説で太宰治さんが書いていることは、戦争についてということではなくて、創作についての持論というか想いみたいなものなのかなあ、と読み取りました。
太宰治さんの人柄も感じられておもしろい小説でした。
たとえば、太宰治さんはこの小説の中で三田くんのほかに三井くんについても書いているのですが、三井くんは病気で息を引き取ります。
この三井くんの亡くなり方は、寝たきりのままお母さんと世間話をしているうちに、ふと口をつぐんだと思ったらそのまま息を引き取っていたというものでした。
太宰治さんはこの三井くんの亡くなり方を『三井君の臨終の美しさは比類が無い』と書いており、また『人間の最高の栄冠は、美しい臨終以外のものではないと思った』とも書いていて、ここには強く共感を覚えました。
静かに、眠るように息を引き取れる人って、実際にはどのくらいいるものなんでしょうね? 現実では事故や病気などで苦しみながら亡くなることのほうが多いようなイメージを持ちます。
事故は場合によっては一瞬の苦しみで、案外楽なものだという話も聞きますが、やっぱり苦痛を感じずに、ある日眠るように、というのがひとつの理想の臨終というような気がしました。
『人間には、そのような二つの型がある』という部分があって、これは太宰治さんの後輩の戸口くんと三田くんが訪ねてきたときの話なのですが、戸口くんは場を盛り上げる役で、三田くんは聞き役だったことを指しています。
一見すると、ただ道化のように愚問を連発する戸口くんよりも、適確なタイミングで頷きながらよく話を聞いてくれる三田くんのほうに好感を抱いてしまうのですが、太宰治さんは場を盛り上げようと道化のようにふるまう人のほうがじつはすごいんだ、みたいなことを言っていて、たしかにそうかもしれないなあ、と改めて考えさせられてしまいました。
こういうケースって、友達関係とかでもありますよね。チャラいというか、ムードメーカーというか、ときに愚かしく感じてしまうほどにはしゃいでいるというか、的外れな質問をしてくるような、空気が読めないように感じてしまう人ってアナタの周りにはいませんか?
だけどひょっとしたら、その人は計算して道化を演じているのかもしれず、計算でなくても集団に必要な役割を無意識で演じているのかもしれず、だとするとその人のことを「バカだなあ」とか「しょうがないなあ」とか思ってしまう自分の方がじつは愚かなのかもしれない、という考え方は普段したことがなかったのでちょっと新鮮に感じました。
どんなに愚かに滑稽に見えても、見方を変えればそれは尊敬できるところなのかもしれない、という発想はちょっとすごいような気がしてしまいます。
『愚問を連発する、とは言っても、その人が愚かしい人だから愚問を連発するというわけではない。その人だって、自分の問いが、たいへん月並みで、ぶざまだという事は百も承知である。質問というものは、たいてい愚問にきまっているものだし、また、先輩の家へ押しかけて行って、先輩を狼狽赤面させるような賢明な鋭い質問をしてやろうと意気込んでいる奴は、それこそ本当の馬鹿か、気違いである。気障ったらしくて、見て居られないものである。愚問を発する人は、その一座の犠牲になるのを覚悟して、ぶざまの愚問を発し、恐悦がったりして見せているのである』
なるほどなあ、と思った部分でした。
三井くんにしても三田くんにしても、太宰治さんの忠告をきっかけに関係が疎遠になってしまいます。
三井くんには「小説を書く前に病気を治すことに専念すべきだ」、三田くんには「軽薄に見える友達でも深い考えがあってそうふるまっているのかもしれない。友達を不真面目と決めつけてものを言ってはダメだ」みたいなことを太宰治さんは言っているのですが、どちらも気遣いや相手のことを思って言ったことでも、相手が重く受け取ってしまうみたいなことはよくあるように思います。
太宰治さんの言葉から、三井くんは「才能ないから小説はあきらめろ」と言われたと思ったかもしれないし、三田くんは太宰治さんに嫌われている、というかあまり好かれていないと受け取ったのかもしれません。
発言には気をつけたいと思っていますが、気づかぬうちに相手を傷つけることを言ってしまって、知らぬ間に関係が疎遠になる、ということはよくあることのように思います。
人間関係のむずかしさを思ったところでした。
以下の文章にも太宰治さんの人柄がよく表れているように感じました。
『私は、年少の友に対して、年齢の事などちっとも斟酌せずに交際して来た。年少の故に、その友人をいたわるとか、可愛がるとかいう事は私には出来なかった。可愛がる余裕など、私には無かった。私は、年少年長の区別なく、ことごとくの友人を尊敬したかった。尊敬の念を以て交際したかった。だから私は、年少の友人に対しても、手加減せずに何かと不満を言ったものだ。野暮な田舎者の狭量かも知れない』
なんかすなおな人だなあ、という印象を受けます。三田くんの詩を理解できなくて、後日戦地からのハガキの文面でようやく三田くんの才能に気づいたときも、すなおに『私には、三田君を見る眼が無かったのだと思った』と言っているんですよね。
こういうすなおさというのは僕も見習いたいところです。
『純粋の詩人とは、人間以上のもので、たしかに天使であると信じている』
『この世に於いて、和解にまさるよろこびは、そんなにたくさんは無い筈だ』
――というところなども、なんとなく太宰治さんの人柄が感じられて、共感を覚える部分でした。
突然ですが、『文豪ストレイドッグス』とか『文豪とアルケミスト』とかで、実在のほうの文豪に興味を持つ人ってそんなにいないのかなあ、そういう人におすすめしたい小説だなあ、とか、ふと思った作品でした。
読書感想まとめ
『文スト』『文アル』などで太宰治さんに興味を持った人におすすめしたい小説です。
狐人的読書メモ
陽気なイケメン、脇役(?)の戸口くんのキャラクターがよかった。「顔が綺麗だって事は、一つの不幸ですね」。言えるものなら言ってみたいセリフである。
・『散華/太宰治』の概要
1944年(昭和19年)『新若人』にて初出。好感が持てる著者の人柄が感じられる小説。
以上、『散華/太宰治』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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