南島譚 -01 幸福-/中島敦=あなたは幸福ですか?何が幸福か考えてみませんか?

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

南島譚-01 幸福--中島敦-イメージ

今回は『南島譚 -01 幸福-/中島敦』です。

文字数6000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約23分。

幸福って何?

哀れな男と富める長老。幸福なのはどっち?

中島敦さんの描くパラオ。
食物、生活、信仰。
普段触れられない南島譚が珍しい。

カタッツ?
ドラゴンボール雑学、
語っる。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

昔パラオのある島に、とても哀れな男がいた。もう若くない、顔は醜い、お金も持っていない、島一番の貧乏人で、だからもちろん彼女も妻もいない。長老の家の物置小屋のすみっこに住まわせてもらい、最も卑しい召使として仕えている。家中のあらゆるいやしい仕事を一人で負わなければならない。食事は犬猫のえさのようなクカオ芋のしっぽと魚のあらだ。

一方、男の主人たる長老は島一番の金持ちである。いいものを食べてぶくぶくに太っている。表向きの妻は一人であるが、実際その数は無限といってよい。

哀れな男は長老の前では立って歩くことも許されず、匍匐膝行ほふくしっこうしなければならなかった。それはカヌーに乗って海に出ているときにも同じであった。たとえ大きなさめがいても、長老の舟が近づいてくるときには、海に飛び込まなければならなかった。それで男は足の指を三本失うことになった。

パラオで伝染病が流行ったとき、哀れな男もこれにかかった。軽い咳が続き、顔色が青ざめ、身体の疲れがとれず、血を吐くこともあり、痩せ衰え、いつかは果てる病だった。それでも長老は男を休ませなかった。それどころかますます仕事を増やした。

哀れな男は、それでも自分が不幸だとは思わなかった。主人はいかにも苛烈だが、見聞きすることや呼吸することまで禁じられたわけではない、ありがたい。足の指を三本失ったが、足すべてを失わなかったことを感謝しよう。病気も、もっとひどい人のあることを思えば、自分はまだマシなほうだ……。

しかしそんな哀れな男でも、病がひどく仕事がつらいときには神にも祈りたい気持ちになった。パラオの信仰では、善神は何もしなくても祟らないが、悪神は機嫌をとらないと祟りを起こす。男は悪神に、病の苦しみか仕事の苦しみを、いま少し減じてほしいと祈った。

それから哀れな男は奇妙な夢を見るようになった。その夢の中で、哀れな男は長老の立場になっているのである。同じ頃、長老も奇妙な夢を見るようになった。その夢の中で、長老は哀れな男の立場になっているのである。

そんな晩が幾晩も続くと、さらに不思議なことが起こりはじめた。夢での美食と栄耀栄華えいようえいがのためか、哀れな男は日に日に太り、顔色もよくなり、空咳もしなくなったのである。他方、長老は夢の粗末な食事と労働のせいか、どんどん痩せ衰えて、いやな空咳までするようになった。

腹を立てた長老は、夢の意趣返しをしようと男を呼びつけた。そこで話をしてみると、驚くべき事実がわかった。二人は同じ夢を見ていたのだ。現実の哀れな男は夢の中の長老であり、現実の長老は夢の中の哀れな男だったのである。

が、それを知っても男は驚かなかった。満足げな微笑を浮かべて鷹揚おうように頷いた。幸福な顔をしていた。哀れな長老は幸福な男の顔をねたましげに眺めた。

――これは1860年頃に洪水で沈んだとされるオルワンガル島の伝説である。以来パラオには、このような幸せな夢を見る男はいないということである。

狐人的読書感想

南島譚-01 幸福--中島敦-狐人的読書感想-イメージ

1941年(昭和41年)、中島敦さんは南洋庁の役人として、国語教科書の編纂調査のため、戦時日本統治下のパラオに赴任しました。中島敦さんは、そこではエリート官僚的な立場だったこともあってか、周囲の反感を買って孤立し、着任後すぐデング熱にかかってしまったそうです。

こうした経験とパラオでの見聞をもとに書かれた小説のひとつが、この『南島譚 -01 幸福-』ということになります。中国の古典である荘子さんの『胡蝶の夢』を思わされる作品であるあたり、漢文学者の家系で自身も漢文の造詣が深い中島敦さんらしい小説でした。

まず、物語自体もおもしろいのですが、あまり知らない(昔の)パラオという土地の、暮らしや信仰に触れられているところが、とても興味深く感じました。

哀れな男は、犬猫のえさになるようなクカオ芋のしっぽと魚のあらだけしか食べられなくてかわいそうに思いましたが、ところでクカオ芋って何? みたいな(タロイモ? と思ったのですが、別に記述があるので、カカオのことでしょうか? では、カカオのしっぽって?)。

富める長老は、海亀の脂や、石焼の仔豚や、人魚の胎児や、蝙蝠の仔の蒸焼むしやきなど食べられてうらやましいなあ、みたいな――いえ、あんまりうらやましくはありません、蝙蝠の仔の蒸焼って……、てか人魚の胎児って……(ジュゴン? それとも人魚の肉は不老不死の霊薬だという、あれなのでしょうか?)。

神様に対する考え方も、日本に暮らす僕からしたら独特なものに感じました。いい神様はお供えをしなくても祟らないから放っておいて、悪い神様は祟るからお供えをする、というのはなんだかおもしろくないですかね?

日本では、いい神様にはお供え物をして、悪い神様は「触らぬ神に祟りなし」のようなイメージを、僕は持っているのですが、同じ人間でも、住む場所によって真逆のことをしているのにはおかしな印象を持ちました(とはいえ「人間が神をつくり出す」という人間のエゴ的な部分はやはり共通しているように感じましたが)。

ちなみに作中、哀れな男の祈った神として、「椰子蟹やしがにカタツツ」と「蚯蚓みみずウラズ」の二神が出てくるのですが、気になって検索してみたら、「カタッツ」という言葉がヒットしました。これは『ドラゴンボール』に登場するキャラクター名なのですが、誰のことかわかりますか?

じつは名前のみの登場ということで、これがわかったらかなりのドラゴンボールフリークだといえそうですが、「カタッツ」は(デンデになる前の)地球の神様(とピッコロ大魔王)の親の名前です。

ひょっとして、ドラゴンボールの「カタッツ」のネーミングの由来は、中島敦さんの小説『南島譚 -01 幸福-』の悪神・「椰子蟹カタツツ」なのか!? と一瞬テンションが上がったのですが、そうではありませんでした。ドラゴンボールの「カタッツ」の由来はどうやら「カタツムリ」のようです。

で、ここまで「なじみのないパラオが知れておもしろい」みたいなことをつらつらと書いてきたのですが、「クカオ芋」や「椰子蟹カタツツ」や「蚯蚓ウラズ」など検索してみてもパラオ関係の情報がヒットしないんですよね……、もしかしてこれらは「中島敦さんの創作?」とか考えてしまうと、あまりパラオのこととして真に受けてはいけないような気がしましたが、はたしていかに……。

同じように、最後に伝えられた「オルワンガル島」についても、旧約聖書の「ノアの方舟」同様の、パラオに伝わる洪水伝説のひとつだそうで、実在したか否かは不明のようです。

そんなわけでこれらの話は、中島敦さんが現地で聞いた伝承なのかあるいは創作なのか、ということはとても興味を惹かれるところですが、いずれにしてもおもしろい話だと思いました。

さて、肝心の物語についてですが(……ここから? ここからです!)。

『世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにでもなるのだ』(『ハムレット』の原文からと思われる、ウィリアム・シェイクスピアさんの名言とされる言葉)――というのが、この小説のメインテーマを端的に言い表しているのではないでしょうか。

これは一見、素敵な考え方のようにも思えるのですが、作中の哀れな男の姿勢を鑑みるに、一概にはいえないところがあるなあ、と感じてしまうのは、はたして僕だけ?

どんなにひどい扱いを受けても呼吸まで禁じられたわけじゃないからありがたい、とか、ひどい扱いのせいで足の指を三本失ったけど全部じゃなくて感謝、とか、病気になってもほかの重病でないだけマシだ、とか、……たしかにすばらしい考え方のようにも思えますが、ちょっと怖いような気がしてしまうのは、僕だけ?

何があっても前向きに捉えて、ポジティブに生きる、というのはたしかにすばらしい考え方のように思えます。しかし度が過ぎるのもよくないように感じてしまうのです。

哀れな男がひどい扱いを受けるのは、たしかに哀れな男のせいではなくて、何の権利も与えられていない最底辺の状況で、「人間として生きるための最低限の権利」と、長老に主張することは難しいかもしれませんが、現実的にはそれをしなければならないように僕は思いました。

ひどい状況を変えるためには訴えなければなりません。もちろんその状況で、がんばって、がんばって、がんばって、がんばって――それで訴えなければなりません。

哀れな男はとてもがんばっていたと思います。だけど訴えることはしませんでした。現状を受け入れて、そこに幸福を見出して、それで朽ち果てていって、……それが本当に幸福なのかな、と思いました。

――だけど、それが本当の幸福なのかもしれない、と思いました。僕が哀れな男の在り方に疑問を持ったのは、僕という主観からそう思ったわけで、哀れな男はもしもそのまま朽ち果てたのだとしても、あくまで幸福に逝けたのかもしれません。

人にとって幸福とは客観的なものではなくて主観的なものなのだと、その人が幸せならそれでいいのかもしれないななどと、なんだか当たり前のようなことを改めて実感させられてしまうところでした。

悪神の恩恵ともいうべき哀れな男の見た夢は、自身の願望の表れである、という言い方もできますよね。現実はつらいばかりで、ただただ夢に逃げたい、という気持ちは現代だからこそ多くの人の共感を得られる場面のように感じました。

――というのも、近年のラノベで「異世界転生もの」というジャンルが流行りましたが、これはつらい現実から逃れたい、現代人の願望の表れだという捉え方があるからです。

この部分を、あなたはどう感じるでしょうか?

長老の見た夢については、悪神の祟りとしか思われないわけですが、ひょっとしたら長老にも哀れな男に対する罪悪感が、心の奥底にはあって、その表れであってほしいと願ってしまうのは僕だけ?

これを機に長老が悔い改めて、男の待遇が改善されて、それにより悪神の祟りも消えて、長老の体調も回復し、その後仲良く暮らしました――というのは、さすがにないですかね……。

お金があれば幸せなのか、毎日おいしい食べ物が食べられれば幸せなのか、たくさんの異性にちやほやされれば幸せなのか――物質的な幸福と精神的な幸福と、はたして何が真の幸福なのか。これは人類の永遠のテーマですよね。

夢で酷使された現実世界の富める長老が不幸になり、夢で富める現実世界の哀れな男が幸福になる――本当に幸福なのは、本当に哀れなのは、はたしてどちらなのでしょうね?

読書感想まとめ

南島譚-01 幸福--中島敦-読書感想まとめ-イメージ

現実はけっして夢のようにはいきませんが、客観的には幸福な者でも主観的に不幸であればその者は不幸であり、客観的には不幸でも主観的に幸福であればその者は幸福である――幸福について考えさせられる小説です。

狐人的読書メモ

僕はがんばってから訴えるよりも、がんばらずに訴えることのほうが多いように思う。その意味では男の人格を見習うべきだと思う。

夢が現実となった効果については「プラシーボ効果」でも説明がつくように思う。そのあたりからアプローチしてみてもおもしろかったかもしれない。夢と現実は決して交わらないというのは一般的な見地かと思われるが、そうとばかりもいえないように思う。

オルワンガル島の洪水伝説について。大きなオルワンガル島の隣には小さなンヘヤンガル島があり、小さなンヘヤンガル島民はいつも大きなオルワンガル島民にいじめられていた。とうとうンヘヤンガル島民の長老が「オルワンガル島が海の底に沈むよう」神に祈った。神は七つの波をオルワンガル島に送った。オルワンガル島では一人の娘がこのことを予知しており、島民たちにいかだを作って島を離れるように説いて回ったが多くの者は聞き入れなかった。こうしてオルワンガル島は津波に呑み込まれて海に沈み、娘と娘の予言を信じた者のみが生き残ったという。これは1860年頃の話だとされている。

・『南島譚 -01 幸福-/中島敦』の概要

1942年(昭和17年)11月、『南島譚』(問題社)にて初出。同年8月頃に執筆されたと推定される。物質的な幸福と精神的な幸福。不幸を感じなければ人間は幸福なのか、幸福を感じていれば人間は幸福なのか、タイトルのとおり「幸福」というものについて考えさせられる秀作。

以上、『南島譚 -01 幸福-/中島敦』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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