親友交歓/太宰治=「威張るな!」に何を思うか、対等な友達関係とは何なのか。

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狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

親友交歓-太宰治-イメージ

今回は『親友交歓/太宰治』です。

文字数15000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約40分。

小学校時代の親友を名乗るその男、
私にはまったく覚えがないのだが、
親友交歓しているうちにわかる事実。

その男にはいいところがみじんもない!

が、男の最後の言葉に何を思うか。
友とは?

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

私のところにある男がやってきた。その男は小学校時代の親友を名乗るも、私はまったく覚えていなかった。

その男がものすごかった。いいところがみじんもなかった。

私の秘蔵のウイスキーを暗に催促して、それを惜しげもなくがぶがぶと飲み、つまらない同じ自慢話を何度も何度も繰り返し、私の妻に酌をさせろとしつこく迫り、散々飲んだ挙句、最後に残った大事なウイスキーをまるまる一本お土産によこせと言い出し――

私はそのすべてに我慢して応じていたのだが、その男はこう言い残して去っていった。

「威張るな!」

狐人的読書感想

親友交歓-太宰治-狐人的読書感想-イメージ

……なんかわかるなあ、とか共感して、前回の読書感想(『一塊の土/芥川龍之介』)で、「本当にいい小説というものはいつの世でも読者の共感を得られる小説なのかもしれない」とか語っていたばかりでしたが、この『親友交歓』という作品は、おそらく多く読者の共感を得られる物語だとは思うのですが、しかし著者自身は共感を得ることを意識して書いたものではなかったのかもしれないなあ、みたいなことをふと思いました。

非難や悪口はよくないことかもしれませんが、「こんなひとがいて、こんなことがあったんだよ」といったようなことは、ついつい誰かに聞いてほしくなりますよね。

そんな気持ちが伝わってくるからなのでしょうか?

だからこそ余計に共感できる小説に仕上がっているのではなかろうか、と感じるわけなのですが、太宰治さんは実際の体験から作品を執筆されていたと語られていることも多いので(たとえば『舌切雀』では「私は多少でも自分で実際に経験した事でなければ、一行一字もかけない……」)、これも実際の出来事から着想を得て(あるいは出来事そのままが)書かれたものなのかなあ、とか想像してしまうわけなのですが、意図的でなかったとしても意図的であったとしても、このように読んだひとが深く感銘を覚える小説を書ける、というのは本当にすごいことだと改めて思いました。

親友を名乗る男は、無遠慮で自慢屋でずうずうしくて――「私」いわくそれは『好いところが一つもみじんも無かった』ということになってしまうのですが、さすがにここまでひどくはなくとも、自分本位なところというのは、人間誰しもが持っている感情ではないかなあ、という気がしました。

なんとなく、有名になったら知らない親戚や友人が増えた、みたいな話を連想してしまいましたが、自分の利益のために友達と接するというところが、僕にもあるように思うのです。

なんだろうなあ……、それはたとえば気前よくおごってくれたり、漫画やゲームや小説とかを貸してくれたりする友だちがいると、自分はそれが目的でこの友だちと仲よくしているのかなあ、みたいな。

または、寂しかったり誰かに話を聞いてほしかったりするときに、友だちがいてくれるというのは、ただそのためだけに友だちを利用しているような気分のすることがあります。

何も求めないのが友だち、といえばなんとなくそんな気もするのですが、だけど、助けたい助けられたい、と思うのも友だちであって、助け合うのが友だちであって、どこまでのどの感情が自分本位でない友情なのかなあ、というのはたまに考えることなのですが、納得できる答えを出せた試しがありません。

相手の気持ちもあるからこれがまた難しく、相手が不快に思えばそれは自己本位な態度だったのかなあ、みたいな、自分がどう思うかというよりも相手がどう思うか、とは思ってみても、相手の不快の理由がまったく理解できないこともあって、それでも自分が悪いと思わなければならないのかなあ、みたいな。

だからそうはいっても、いろいろ心の中で思いつつも、無難に大人な対応をしている「私」を、すばらしいように感じたのですが、しかしその思いは親友を名乗る男の、最後の一言で一変させられることになってしまいました(このあたりすごく巧みな技法ですね)

「威張るな!」

ひとに怒らないでいられるということは、たしかにそのひとのことを対等に見ていないということになるのかもしれないなあ、と考えさせられました。

親友を名乗る男は、たしかに行動が行き過ぎていますが、本当に「私」のことを親友だと信じていて、あるいは友情とはまるで関係なしに、人間として対等に接してほしかったのかなあ、と感じました。

この対等な関係というのがまた非常に難しいですよね。ひとは優越感を求めてしまうものですが、ではやさしさや余裕はすべて優越感からくる態度なのか、と問うてみれば、決してそんなことはないように思います。

だけど、スクールカーストとかママカーストとか、いろいろな条件や能力やレベルやランクといったものの近しい者同士で、友だちグループが組まれる傾向が、現実にはありますよね。

そう考えてみると、やはりお金持ち同士はお金持ち同士で、頭のいい者は頭のいい者同士で、スポーツのできる者はスポーツのできる者同士で、おしゃれな者はおしゃれな者同士で、仲良くするのが当然であって、それ以外の友情関係というものは、なかなか成立しがたく思ってしまうのです。

しかしながら、もしも感情だけの話をするならば、誰かにイヤなことをされればそのひとに怒って、誰かがおもしろいことを言えばそれに笑って、誰かが泣いていれば一緒に悲しんで、誰かが楽しいことをしていればそこに参加して楽しんで――同じ感情を共有するというのは、たしかにひとつ大事な友だちの条件だと思いました。

とはいえ、なかなか感情を露わにするというのも難しく感じていて、ここまで考えてきたことをぐるぐると考え続けているから、僕はダメなのかなあ、という気がします。

人は考えるからこそ尊いのかもしれませんが、生きる上では考えないことも重要だということはひとつの真理だと感じています。だけど考えることと考えないこととのバランスもまた難しい……(今回はこの辺にしておきます)

読書感想まとめ

親友交歓-太宰治-読書感想まとめ-イメージ

友だち関係というものについてつらつら思いを馳せてみました(それだけだ!!)

狐人的読書メモ

作中の親友を名乗る男は確かにひどい。だけど、これはあくまでも「私」の主観で書かれたものであって、一方的な批判なのだということも忘れてはいけないような気がした(もちろん正真正銘の事実を綴っているだけなのかもしれないけれど)。一方的に有名人を叩く最近の報道を連想した。が、この作品からは「他者を否定しているようでいて、じつは自分をも否定する」みたいなところが読み取れたように感じた。他者を批判することは、自己の批判にもつなげて行うべきことなのかもしれない、と、ぼんやりと思った。

・『親友交歓/太宰治』の概要

1946年(昭和21年)『改造』にて初出。のち『ヴィヨンの妻』(筑摩書房、1947年8月)収録。友情とはなんなのか?

以上、『親友交歓/太宰治』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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