狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『一塊/芥川龍之介』です。
文字数10000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約34分。
嫁姑問題と自己批判に言及。
人間関係は難しい、家事は評価され難い、
だけど家族だけはときに感謝の気持ちを伝えたい。
言わなくても伝わるのが家族?
言わなくては伝わらないのも家族。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
姑のお住はじつの息子が亡くなってほっとした。八年、息子は寝たきりだったからだ。息子には嫁のお民がいた。姑が心配したのはこの嫁の身の上だった。というのも、嫁に家を出て行かれては困ってしまうからだ。孫の広次の世話もあるし、生活は到底立ち行かなくなる。
姑が考えたのは、息子の従弟にあたる者を婿にもらおうということだったが、嫁は笑ってその考えを退けた。この家を出て行く気はないし、亡き夫の分まで働けばいいし、いずれ広次が相続する財産をわざわざ二つに割ることもないでしょう、と嫁は言った。姑はそれで納得した。
嫁の働きぶりはまさに男勝りだった。外に出て働く嫁の代わりに、孫の世話と家事全般はすべて姑がこなした。姑は嫁にいつも敬意を感じていた。敬意というよりもそれは畏怖であったかもしれない。それほど嫁の働きぶりはすごいものだった。
ある日、嫁は桑畑にも手を広げ、片手間に養蚕もはじめようと切り出した。姑はこれに反対した。家の仕事はいまでも大変なのに、これ以上大変にしてほしくなかった。隠居でもしたくなったのか、嫁の放った一言に姑ははっとした。男手もなく、裕福でもない農家の家で、隠居したいなどとは恥ずべき考えだったからだ。話し合いの末、桑畑はやることにして、養蚕のほうは断念することになった。
三年経ち、四年が経った。嫁は相変わらず外でせっせと働いて、姑はひとり家事全般を引き受けていた。が、ひとりで家事をこなすのは、老いた姑にとっては大変な苦しみだった。だけど嫁だって遊んでいるわけではない。姑は何も言わずにじっと苦しみに耐え続けていた。孫が母よりも祖母になついてくれているのが、唯一の慰めだった。
八年目、姑は一家の暮らしを支え続けた。嫁の働きぶりは村でも評判になった。いまや世の女性の鑑とまでいわれるようになっていた。十二、三になった孫が学校から帰ってきて、ぼくのお母さんは偉い人なのか、と聞いてきて、姑の忍耐の堰が切れた。孫の前で泣きながら嫁を罵ってしまった。
その翌晩、ちょっとしたことで姑と嫁との間にいざこざが持ち上がった。嫁は「働くのがいやならこの世からいなくなればいい」と冷笑を浮かべて姑に言った。八年間の、我慢の限界だった。姑ははじめて、嫁を大声で罵ったが、嫁は寝転んでその言葉を聞き流していた。
翌年、嫁が腸チブスで亡くなった。村長をはじめ、村人は一人残らず会葬し、嫁の早逝を惜しんでくれた。しかし姑はほっとしていた。貯金もあり、畑もあり、孫も一緒にいてくれる、これからは小言を言われる心配もない、自分の好物だって気兼ねなく食べられる、一生のうちでこれほどほっとしたことがあっただろうか……、はっとした。
九年前に、同じようにほっとしたことがなかったか。それは息子の葬式のすんだ晩のことではなかったか。姑は自分の情けなさに涙した。たしかに嫁は情けない人間だったし、そんな嫁と悪縁を結んだ息子もまた情けない人間だった。親子三人ことごとく情けない人間だ。しかしその中で、いまでもひとり生き恥をさらしている自分こそが、最も情けない人間ではないか。お民、なぜ先に逝ってしまった? 姑の涙は止まらなかった。
狐人的読書感想
まず思ったのは、本当にいい小説というのは、いつの時代でも人の共感を得られる物語なのかなあ、ということでした。
わくわくするようなおもしろさのある小説というのも、広い意味ではひとの共感を得ているといえるわけで、そんなふうに捉えてしまえば、またしても当たり前のことを言っているだけになってしまうかもしれませんが。
『一塊の土』も多くのひとが共感できる作品だと思いました。
姑と嫁の方はとくに(読め!)。
この物語を簡単に言ってしまえば、「嫁姑問題」ということになるのではないでしょうか?
姑の視点で描かれているので、どうしても姑のほうに肩入れしたくなってしまいましたが、それでも姑の言い分ばかりが正しいともいえないところがあって、これは現実の「嫁姑問題」でも多くの場合がそうなんじゃないかなあ、と想像できるところでした。
一家の働き手を失ってしまい、嫁に出て行かれては大変だと、速やかに都合のいい別の婿をあてがおうとした姑は、いかにもエゴイスティックでしたが、その後ろめたさもあってでしょうか、その後はほとんど文句ひとつ言わずに、家事を一手に担っていたのは立派だし、嫁の働く姿勢に敬意や畏怖を抱いているところには好感が持てました。
本来手伝ってくれるはずの、というか自分が手伝うはずの嫁が外に働きに出ていることで、家事はいっそう大変になり、その苦しみを嘆いているところは、まあ、嫁だって働いているんだから、と思わなくもありませんでしたが、当たり前の不満のように感じました。
一方、嫁のほうは、本当に現代のバリバリのキャリアウーマンを思わせるような性格の働き者で、子供の相続する財産を減らしたくないとか、自分だけの苦労だとか、言うこともいちいち論理的なので、姑のほうも言うに言えなくなってしまう感じでしたね。
態度も尊大というか、ちょっと姑を冷たく見下しているようなところもあって、あまり好感は持てませんでしたが、おおむねこのひとが間違っているわけでもないし、一生懸命家族のために働いているのは事実だしで、……僕はひょっとしたら姑と同じような気持ちでこの嫁を見ていたのかもしれません。まあ、現代的視点でいうならば、嫁というよりも会社人、いい会社人ではあってもいい家庭人ではない、ということなのかもしれません。
このように、『一塊の土』の「嫁姑問題」は、パワーバランス的には嫁強しな「嫁姑問題」ですが、いずれにせよ通底するものはあまり変わらないのかなあ、という気がします。
要するに、双方が妥協の姿勢を示さなければならないのかな、ということなのですが。
それがよく表れていたのが、嫁が桑畑と養蚕をはじめたいと言い出したときに、姑はそれに反対して結局桑畑のみをすることにした、という件です。双方ともに我慢の姿勢を示して、妥協点を探るというのが重要なことのように思いました。これは嫁姑の関係のみならず、広く人間関係に適用できる教訓のようにも感じました。
とはいえ、このこと以来ふたりの間にはしこりが残って、たぶんより仲が悪くなっていくのですよねえ。
姑のほうはおそらく、あの調子で普段から強い口調で小言を言われ、それでもひとり家事の苦労を抱えているのだという不満を持っているし、嫁のほうも自分が一家を食わせているのだという自負があるだろうし、こっちはより稼ぐことができる、いいことを提案しているというのに、自分の苦労を増やしたくないからという理由だけで反対する姑にはイライラしたでしょうね。
だけど姑は我慢に我慢を重ねて、嫁は姑を理解しようとはせず……、そのまま長く一緒に暮らしていけば、いずれ破たんするのは目に見えていますね。
だけど、じゃあお互い我慢なんてしないで、日ごろから喧嘩して鬱憤を解消できれば破たんを免れ得るのか――となれば、現実そんなことはないですよね。破たんが早まった可能性さえあるでしょう。
このことも夫婦関係、友人関係――すべからく人間関係には当てはめることのできる事柄かと思うのですが、人間関係は難しいということなのでしょうか? なかなかよい解決案を考えつくことができません。まあ、それができていればいまこのような感想を書いてはいないのでしょうが(汗)
ここから派生して、「女性の社会進出による祖父母の負担」みたいなものも考えられるしょうか? 働く女性が増えている昨今、シングルマザーが増加していると聞く現代、子供の世話や家事を祖父母に任せて、外に働きに出ている女性も増えているのでしょうか?
保育所や電化製品、スーパーやクリーニングといったサービスが、昔よりも充実してきている現在において、家事をする姑の、あるいは専業主婦や専業主夫の苦労を単純に比較するのは難しいことかもしれませんが、このあたりどうなのでしょうね?
ふと思ったのは、家の仕事というのは評価がされにくいということです。外の仕事は評価されるのに対し、家の仕事が評価されることはかなり少ないように思います。そのあたりも、作中の姑の不満を煽る要因になっていたのかもしれませんね。
社会的な評価を得るのも重要なことかもしれませんが、まずは家族が家の仕事をしてくれる方々に感謝を示さなければならないでしょう。おそらく気持ちとしてはいつも感謝していても、それを示す機会はなかなか少ないように考えました。もちろんそんなことない家庭の方もいらっしゃるとは思うのですが。
外で働いてくれる家族にも、家で家事をやってくれる家族にも、家族は家族に感謝していて、ときにそれを伝え合っていかなければいけないのかなあ、と。
『一塊の土』でも嫁のほうはともかく、姑のほうは敬意(あるいは畏怖)の気持ちを持っていたのだから、それはもっと相手に伝えるべきだったのかもしれないという気がします(畏怖ゆえに何も言えなかったのかもしれませんが)。
言わなくても伝わるのが家族とはいいますが、言わなくては伝わらないのもまた家族なのではないでしょうか。
最後姑が、自分が一番情けない人間だと自己批判しているシーンは、狐人的に思わされるところでした。
僕もついつい自分以外のもののせいにしてしまいがちになるのですが、それをよくよく考えてみれば、自分に至らない点があったからこそ至らない結果になってしまったのではないか、とあとで振り返ってみて後悔することがあります。
おそらくそれをつぎに活かせられれば、自己批判にも一定の意味が見出せるのでしょうが、それを活かせないところがどしがたいなあ、とか、思っているばかりではダメなのですが、なかなかうまくできないところです。
人こそ人の鏡、自分が心の貧しい人間では、貧しい人間関係しか築けない、というのは自戒としていつも意識しておきたいことなのですが、言うは易く行うは難し、改めて意識し直したいと思います!(意識するばかりでなくて、実行できなければダメなんだよ? 自戒)
読書感想まとめ
「嫁姑問題」と「自己批判」。
すなわち人間関係について。
狐人的読書メモ
一塊の土を握り涙した。
・『一塊の土/芥川龍之介』の概要
1924年(大正13年)1月、『新潮』にて初出。嫁姑問題。自己批判。姑の複雑な心情。人の共感を喚起する小説。
以上、『一塊の土/芥川龍之介』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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