狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『久助君の話/新美南吉』です。
文字数5000字ほどの少年小説。
狐人的読書時間は約14分。
久助君は友達とじゃれ合っているうちに、
それが冗談なのか本気なのか、
だんだんとわからなくなってくる。
友達との適切な距離感について思いました。
友達は失くしたくないです。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
久助君は学校から帰ってきてすぐ一時間、お父さんの言いつけで勉強しなければならなくなった。当然久助君はこの規則を喜ばなかった。一時間も経ってからでは友達がどこで遊んでいるのかわからなくなるからだ。
勉強を終えて外に遊びに出た久助君が友達を探し回っていると、干し草の積み上げてあるそばに兵太郎君の姿を見つけた。久助君は兵太郎君に遊ぼうと言っていろいろな遊びを提案するが、兵太郎君は乗り気にならない。
焦れた久助君は兵太郎君に組みついた。しばらく冗談半分の取っ組み合いが続いた。しかしそのうち、相手が冗談なのか本気なのか、久助君にはわからなくなってきた。冗談のつもりでやったり、本気のつもりでやったり……。
そんなことを繰り返しているうちに夕方になった。取っ組み合いを終えて、起き上がった兵太郎君の顔を見て久助君はびっくりした。久助君の前に立っているのは兵太郎君ではなかった。見たこともない、さびしい顔つきの少年がそこにはいた。
久助君は世界がうら返しになったように感じた。これは誰だろう? 自分が半日じゃれ合っていたこの見知らぬ少年はいったい……。が、一瞬のちには、それが日頃の仲間の兵太郎君であることに気づき、久助君はほっとした。
久助君はこう思う――ぼくがよく知っている人間も、ときにはまるで知らない人間になることがある。ぼくの知っているのが本当のそのひとなのか、それともぼくの知らないのが本当のそのひとなのか、わからない。
その思いは、久助君にとってひとつの新たな悲しみだった。
狐人的読書感想
誰でもが共感できるような、こういった小学生の頃の感性で感得した思いというものを、長じてからもみずみずしく描けるというのはすごいことのように思います。
子供の頃は自分の気持ちを言語化、文章化するのがなかなか難しいですし、成長していくにつれてひとは子供時代の記憶というものを忘れていってしまうものではないでしょうか?
しかしある種のノスタルジックな記憶というものは、忘れたと思っていてもじつは心の奥底に眠っていて、何かのきっかけでよみがえることがあります。
映画であったり絵画であったり音楽であったり――新美南吉さんの少年小説「久助シリーズ」もそんな作品のひとつだと僕は思っているのですが、はたして……。
久助君は「多感な少年」というのがぴったりの子供ですね。劇的な事件や出来事は起こりませんが、彼の行動、考え、思いには毎回思わされるところがあります。
登場する友達も、クラスにひとりはいそうなキャラがそろっていて、感情移入しやすいです(しかしこのあたり、個性の多様性とは逆のことを思わされるところでもあります。人間は集団の中では、自然発生的にある役割をそれぞれ振り分けられることとなり、ゆえに複数の独立した集団において似たようなキャラクターが存在することになる、みたいな)。
今回は兵太郎君がおもな登場人物として出てくるわけですが、「ほら兵」とあだ名をつけられてしまうほどのうそつきで、音痴だけどそれを気にせず大声で唄うため、合唱のときにはクラスメイトたちにウザがられてしまい、だけど悪気がないことがわかるからみんなには嫌われていないという、どこか憎めないキャラですね。
こういう子がのびのびと過ごせる学校のクラスというものは、いいクラスだと感じます。もちろん昔からいじめというものはあって、近年になってその問題がはっきりと顕在化したのだということは意識しているのですが、昔の学校、あるいは田舎の学校のクラスはなんとなく「みんななかよしいいクラス」というイメージを持ってしまいます。現代、都会にだっていいクラスはあるのでしょうが、こちらは「スクールカースト」などの言葉からくる印象が強いです。
そんな兵太郎君のことをあらわす描写に「兵太郎君はほらふきで、ひょうきんで、ひとをよく笑わせるが、自尊心を傷つけられるから、ある種のからかいは好まない」というような文があるのですが、ここは友達との接し方について考えさせられるところでした。
兵太郎君に相手にされず、ふざけていきなり取っ組み合いに持ち込んだ久助君が、そうしているうちにそのじゃれ合いが冗談なのか本気なのかわからなくなってしまったところからも同じことがいえます。
それはつまり「友達と接するときの距離感の難しさ」みたいなことなのですが――。
この子とはすごく仲がいいと感じていたり、あるいはその友達がおもしろい性格の子だったりすると、自分の言動がついつい行き過ぎてしまった、と感じることがあります。
相手が嫌がっていたり怒っているのがわかって、すぐに謝って許してもらえればよいのですが、そのことに気づけなかったり、また気づけたとしても時すでに遅しで謝りづらい空気になっていたりすると、そのまま距離ができてしまって、だんだんと話さなくなって、ついには友達でなくなってしまうというようなこともありえるような気がするのです。
とくに楽しくてテンションが上がっているときなどには、こういった配慮がなかなか難しいように思えます。
それで終わってしまうような友情ならば、大した友情ではなかったということが言えるのかもしれませんが、その意見はどこか現実的なものではない、理想論みたく聞こえてしまうように、僕には思われるのです。
「親しき仲にも礼儀あり」とはいいますが、円滑な友人関係にも適切な距離感が必要である気がしています。
もちろん、少年漫画みたく、とまではいかないにしても、けんかしたり、自分の意見をぶつけ合ったりして仲良くなっていく友情だってあって、そういったものに憧れにも似た思いを抱くことがありますが、僕の性格ではこれが相当難しく思われてしまいます。
最近、中島敦さんの『悟浄歎異』を読んで「傷つくことをおそれずに人と接してみようということ」を思ったばかりなのですが、友達との適切な距離感と積極的に仲良くしていく姿勢と、おそらくどちらも大切で、このバランスをはかりながら人付き合いをしていくのが、現実的な人間関係を構築していくうえでベターなやり方だと思うのですが、このバランスがやはり難しいのですよねえ……。
考え過ぎなのかなあ……、と思わなくもないのですが、ちょっと誰かと話してみたいところですね。
ラストの部分、急に友達の自分の知らない一面を垣間見たときに感じる哀しみ、みたいなものはわかるような気がしました。
結局ひとは完全にはわかり合えない――と言い換えてみれば、久助君が感じた「ひとつの新しい悲しみ」も、あるい人の持つ普遍的な哀しみとしてわかりやすいもののように思います。
そんなこんなで以下読書感想まとめ――
読書感想まとめ
――人付き合いって本当に難しいですよね。
狐人的読書メモ
――とはいえ前向きにひとと接していきたい。
・『久助君の話/新美南吉』の概要
1943年(昭和18年)『哈爾濱日日新聞』初出。久助シリーズ。童話集『おぢいさんのランプ』に収録。ちなみに『おぢいさんのランプ』は新美南吉が生前に編んだ唯一の童話集。
以上、『久助君の話/新美南吉』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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