狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『碑文/横光利一』です。
文字数5000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約22分。
消滅都市。
人々の享楽と退廃と滅び。
終末小説。
歴史の証明としての碑文。
お腹が空く、イライラする、
ひとにやさしくできなくなる。
発言の場で手をあげられない。
自己嫌悪エンドレスワルツ。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
ヘルモン山の上にガルタンという都市があった。そこでは雨が降り続いていた。ガルタンの市民たちはもはや、いつこの雨が降り出したのかさえ思い出せなくなっていた。
市民たちの心は日増しに荒んでいった。みな酒に溺れていった。雨はへルモンの山に降り続いた。「ガルタンの危機がやってきたのだ、ヘルモンの危機がやってきたのだ」
ある日、市の会堂にガルタンの哲学者たちが集められた。この未曾有の大豪雨の原因と、その対策について議論がなされた。哲学者たちは原因については激しく論じ合ったが、対策については忘却の態度をよそおった。
静まり返った会堂に、山から落ちる瀑布の音が高まったとき、ひとりの名高い哲学者が立ち上がった。そしてガルタンの滅亡を予言し、みな自ら命を絶てとを声高に叫んだ。
彼はその言葉どおりに行動し、翌日からこれが市民の間に流行り出した。彼らは生の終末に臨み、彼らの悪行、怨恨、そして生き残る市民の罪徳とを城市の壁に刻みつけた。それは穢れたガルタンの罪の石碑となって雨に打たれた。
つぎに流行したのは他者の命を奪うことだった。それから貴族や富豪の金品を奪うこと。街のいたるところに男女が倒れ、酒杯のように開いた傷口には雨水が溜まった。それでも生き残った者たちは肉の快楽に耽溺し、衰弱した者から眠りについた。
ガンタルアの大路で、二人の市民がこの滅びを互いのせいにして争った。これは周囲にも伝染し、人々は相手かまわず打ち叩き、罵り合った。「ガルタンを滅亡せしめたのは汝である。ガルタンを我に返せ」
地獄と化したガルタンで、僅かに生き残った二人の市民が出会い、抱き合い、互いの温もりを感じながら、眠りに落ちて横に倒れた。
こうしてガルタンは永久に沈黙した。天高くからガルタンの城市を見下ろせば、ガルタンの罪の碑文が刻まれた壁に囲まれて、変わりはてた市民の姿が黴のように蒼白く見える。雨は依然としてへルモンの山に降り続く――。
狐人的読書感想
人々の罪によって滅びへと向かう都市といえば、やはり旧約聖書の「ソドムとゴモラ」を連想してしまいます(字だけのイメージでは『消滅都市』)。
今回の『碑文』では「ヘルモン山の上にあるガルタン」が消滅都市として描かれているわけなのですが、「ヘルモン山」はやはり旧約聖書ヨシュア記に出てくる山なので、横光利一さんはこれら聖書のエピソードをモチーフにして、この作品を書いたのだと見て間違いないでしょうか。
大豪雨のあたりは「ノアの箱舟」の大洪水物語を彷彿とさせます(ちなみに「ソドムとゴモラ」は発見された古代の石板から小惑星の衝突によって滅んだという説があります。神の裁きではなくて、というところが非常に興味深い説です)。
とはいえ「ガルタン」についてはわかりませんでした。あるいは横光利一さんが響きのよさそうな言葉をパッと思いついて、この作品の都市名にあてたのかもしれません。
人名とか地名とかなんでもいいのですが、響きのよいオリジナルな単語を考えるのって結構難しいですよね。いいのを思いついても、検索してみたりすると、すでに存在している単語だったりします。「ガルタン」で検索してみたら「ガルタン大王」というウルトラマン(ウルトラマン80)に出てくる宇宙人がヒットしてちょっとおもしろかったです。
余談過ぎました。
さてタイトルの『碑文』とは、このガルタンの市民たちが自らの命を絶つ間際、彼ら自身の悪行、怨恨、そして生き残る市民についての罪悪などを城壁に刻み込んだものでした。
これには何か禍々しいものを感じてしまいます。授業中、ノートや机に落書きをしてしまうのとは次元の違う行いだと感じてしまいます(当たり前か)。
しかしノートや机ならまだしも(?)文化財や公共物にいたずらや落書きする行為はいただけませんよね。心理学でいえば、こうした行いは「自分をみてほしい、主張したい」という自己顕示欲の表れなのだそうです。
ともあれ「石に刻まれた文章は燃えないので紙よりも長く残る場合がある」ということは聞きますが、残された文書が歴史をつくってきた事実とあわせて考えるに、「歴史の証明としての碑文」みたいなことが書かれた小説なのかなあ、と思いました。「歴史の象徴としての碑文」と言い換えてみてもいいかもしれません。
ただ「歴史と事実は違う」ということはよくいわれることですよね。以前中島敦さんの『文字禍』を読んだときにも同じようなことを考えました。
歴史とは昔あった事柄なのか、それとも文書なのか。書かれなかった歴史がなかったのと同じことならば、反対に書かれた嘘の事実も歴史となり得るのではないだろうか、みたいな。
なかなか考えさせられる話なのですが、考えたからといってどうにもできないところがまた考えさせられるというか……(エンドレスワルツ)。
――終末世界での人々のふるまいというのはやはり快楽や退廃、自分本位に走ってしまうものなのかなあ、ということを思います。
終末に向かう世界を描いた作品は、小説、漫画、アニメ、映画などなど媒体を問わず多数ありますが、やはり退廃的なイメージが主流という気がします(もちろんなかには「静かな世界の終わり」といった作品もありますが)。
大災害時など大変なときだからこそ、他人でもお互いに助け合わなければならないのですが、どうしても自分のこと家族のことを優先してしまうところが人間(または動物)にはあると思います(太宰治さんの『貨幣』で百円紙幣がそのことを指摘していました)。
大変なときだからこそひとにやさしくできる人間でありたい、ということはよく思うのですが、実行できているとはとてもいえません。とてもとてもいえません。
自分がものすごくお腹が空いているときにひとに食べ物を分け与えることは難しく、自分がイライラしているときにはついついひとにも冷たく接してしまいます。
そんな気持ちからでしょうか、ガルタンの市民たちもやがて街の滅びをひとのせいにして、互いに殴り合い罵り合いの暴動になってしまいました。
『人のせいにするか自分のせいにするか』といったフレーズを思い浮かべましたが、普段からどういった考え方を持って生きるかによって、あるいは非常時にも理性的に行動できるかどうかが変わってくるのかもしれません(しかしながら極限状態において人はいつまで理性を保っていられるのだろうかという思いも……)。
それでもやっぱり、ひとはひとりだけで生きてはいけません。地獄と化したガルタンで、僅かに生き残った二人の市民が抱き合いながら倒れていく場面に、そのことがよく表れているように思いました。
いつでもひとにやさしくできるひとは本当に凄い。自分もそんなひとになりたい。だけどお腹がすいて、イライラして……(自己嫌悪エンドレスワルツ)。
市の会堂にガルタンの哲学者たちが集められて、大豪雨への原因と対策が話し合われるシーンですが、原因については活発に意見するのに、その対策となると誰もが口を噤む、というのは、現実の学校や会社の会議でも往々にして起こることだと感じました。
とくに議会ではこれがよく見受けらるように思います(政治の問題や汚職の疑惑について、その原因については言及されても、対策や真相についてはいっこうにはっきりしない、みたいな。――最近こういうことを思うことが多いような気が……、いわずもがな)。
豪雨の原因については激しく論じ合っていた哲学者たちが、その対策になると忘却の態度をよそおったというあたり、彷彿とさせられるところがあります(とはいえもちろんひとのことばかりはいえず、発言の場で黙り込んでしまったり手をあげられなかったりすることが僕にもあるので、基本的にこれは自省を込めての感想です)。
最後、滅びてしまった都市ガルタンの俯瞰描写は、その景色自体がまさに『碑文』であるように感じられて、人が滅んでも雨は降り続くといった余韻を残した終わり方が秀逸な描写に思えました。とても勉強になりました。
読書感想まとめ
終末小説。
歴史の証明としての碑文。
終末世界にあってもひとにやさしくありたいけれど……。
狐人的読書メモ
やはりいろいろなことを考えさせられる小説でした。
・『碑文/横光利一』の概要
1923年(大正12年)『新思潮』にて初出。(おそらく)旧約聖書などをモチーフにした終末小説。小説の神様、横光利一の初期短編。
以上、『碑文/横光利一』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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