次の話 >> 目次
養鶏場のガッルスガッルスドメスティクス
※
これは第1話で僕の書いたガッルスガッルスドメスティクスの小説。
1
『我は如何様にして鶏肉となり、如何様にして食されるべきか』
――とある鶏の命題
この命題は、私が雄のブロイラーの雛としてこの世に生を受けて以来、時間的にも空間的にも、常に私とともに在り続けてきた。
私はブロイラーの雛を専門的に扱う業者の下で孵化した。
初生雛の体内には卵黄が残っており、四十八時間は餌も水も必要ない。ゆえに業者は、この間に輸送を行ってしまえば、安全かつ安価に雛を卸すことができる。
私は、体内の卵黄を栄養源とし消化器官を構築する間に、養鶏場に引き渡される。念入りに消毒された育雛鶏舎のケージに入雛する。
ケージには私の他に二十四羽の仲間がいる。
ケージは宇宙に広がる銀河の数ほどにも並べられ、我々ブロイラーの雛は夜空に輝く星の如くそこにあった。
同じかごの雛達が、今この瞬間何を思い、何を考えているのか、私には分からない。
なぜここに私が存在することとなったのか、やはり私には分からない。
私に分かるのはただ事実のみである。
いつの時代でも事実は確固たるもの。
厳然として残酷なまでにそこにある。
そして我々養鶏場のブロイラーの場合、事実は『ブロイラー』というその名称に宿っている。
厳密に、ブロイラーとは具体的な品種名ではない。それは雑種鶏の総称である。
具体的な品種名としてはチャンキー、コッブ、アーバーエーカなどが主として挙げられる。
これらの育成は非常に早く、七週間ほどで二キロ前後になる。
ブロイラーという名称は「ブロイル」という単語からきている。
ブロイルとは、オーブンで丸ごと炙り焼きにすることをいう。
我々は、ブロイルするのに適したサイズの鶏であるからブロイラーと呼ばれている。
つまり事実とはこういうことだ。
私は五十五日の後に屠殺され、食用鶏として出荷される。
2
『我は最大限の努力をし、最上級の鶏肉となる』
――とある鶏の辿り着きし真理
人工的に適切な温度と湿度に保たれた鶏舎の中で、私は仲間達とほとんど隙間なく身を寄せ合いながら、毎日餌を啄み、水を飲み、成長する。
そんな日々の中で、私はいついかなるときにおいても、私の一部として私とともに在る命題について考え続けていた。そして、毛の色が少しずつ変わり始めた頃、私は命題の真理に辿り着いた。
命題の真理を会得するためには、私は私の内面と真剣に向き合わねばならなかったし、同様の理由から私は仲間達を観察し、その生き方を分析せねばならなかった。
私の仲間達、つまりは養鶏場の鶏について、観察者としての私は以下のとおり考察する。
*
卵用鶏(雌鶏)について。
彼女達は現実主義者であり、性質は無情だ。その性格的傾向は彼女達の置かれた環境が育んだものだと私は考察する。要するにそれは彼女達の処世術なのだった(ただし後天的性質が永い時を経て先天的性質になった、すなわちいまやそれが遺伝子に刻み込まれた性質であるといった主張を否定することはできない。まさに『鶏が先か、卵が先か』と冗談のように受け取られてしまいそうだが、私はこれを笑う気にはなれない)。
彼女達は卵を産む。
卵は採卵され、食される。
よって卵が雛として孵ることはない。
しかしそれでも卵は彼女達の子供だ。
彼女達が身を切られる思いで産み落とした子供達なのだ。
日々、卵は採卵される。子供を奪われる度、彼女達は嘆き悲しんでいるわけにはいかないだろう。
嘆きの朝がやってきて、涙を流し尽くすばかりの一日が終わり、夢も見ないひとときの忘却が過ぎ去ってしまえば、また悲劇の朝がやってくる。
日は昇り、日は沈み、日はまた昇る。
今日が終わり、すぐにまた明日がやってくる。
採卵される――採卵される――採卵される――
採卵される日々。
いちいち悲しんでいては生きていけない。稀にそんなことに耐え切れず、衰弱して死んでいく雌鶏もいる。私はそんな雌鶏を愛おしく思うが、実際的にそんな感傷は何の役にも立ちはしない。
彼女はただの環境不適合者であり、弱者だ。弱者は淘汰される。世界中の誰も彼女を知らず、尊敬せず、愛したりもしないだろう。
ほとんどの雌鶏はその現実を受け入れて生きる。生きなければならない。
卵は子ではなく他者の食料であり、採卵されるのが当然なのだ。卵用鶏は、現実的に、無情にならなければ生きることが難しい。
*
肉用鶏(雄鶏)について。
彼等(客観的な立場より考察を行うために、ここではあえて我々ではなく彼等という表現を用いたい)は総じて空想家で信心深く無気力だった。
その性質もまた卵用鶏と等しく外的環境に起因する。
彼等の多くは宗教に傾倒する。なかには歌を歌う者もあれば、詩を詠む者があり、物語を語る者もある。きっと、指のある手というものがあれば、絵を描く者だってあっただろう。
その目的は一貫している。それは死への恐怖を軽減すること。
彼等は早朝天に向かって祈る。それは誰かに朝の訪れを告げるためでも、ストレス発散のためでも、縄張りを宣言するためでも、求愛のためでも、生理的理由でもなんでもない。
少しでも死の恐怖から逃れたいがために。
彼等はかしましく合唱し、空想に耽るのだ。
それらは恐怖をほんの一時でも忘れ、死からほんの僅かでも距離を取るための行為に他ならない。
彼等は死を恐れる。
生物である以上、それは避けて通れない試練ではあるが、彼等の死はあらゆる自然的な動物とは違い、決定的に定められている。鶏の雛としてこの世に生を受けた瞬間から五十五日後必ず訪れる死。約束された死。
トントントン、一日ずつ一歩ずつ死に近づき、トン、その足が五十五歩目を踏んだとき、トントン、死は避けがたく彼らのもとを訪れる。
だから肉用鶏は空想を愛し、信仰を重んじ、生きる気力を喪失している。
死を余計に恐れないために。
死を忘れていられるように。
それが彼等にとっての生きるということ。
*
肉用鶏と卵用鶏の両者に共通していえるのは、両者共に流されるがままに生きているということだった。そこに己の意志は介在しない。介在させようとはしない。
彼女達はただ卵を産み、餌を食い、水を飲み、糞をする。
彼等はただ空想し、餌を食い、水を飲み、糞をする。
そこには意志がない。努力がない。
前向きな前進というものがない。
運命という大河にただ流され、流された先で死を迎える。
そんな生き方にいったいどんな意味があるだろうか?
むなしく死を待っているだけで、はたして生きているといえるだろうか。
私は私自身に問いかけ続けてきた。
何度も何度も。間断なく。
そして私はその度に同じ回答を導き出してきた。
答えは否だ。
考え、苦悶し、その答えを繰り返す度、それはいよいよ永久不変のもののように、私には思えてきたのだ。
私には選択の余地はなかった。私の生きる目的は、諍うことを許されぬ大いなる世界の法則によって、どうしようもなく決定されていた。その限定された、限定され過ぎた生の中で、私は最善の生き方を模索せねばならなかった。
私に与えられた五十五日という時間が長いのか短いのか、私には確信を持って判断することができない。
しかし私は限られた時間を精一杯生きようと決意した。
目的もなく無気力に生きるより、恐怖を緩和するだけのことに心を砕くより、それが真っ当な生き方だと私は断ずる。
これこそが生きるということなのだと、私は確信を持って宣言することができる。
私は餌を食い、水を飲み、糞をする。適度に体を動かし程好く筋肉を育む。それからたっぷりと休息を取る。やり過ぎは良くない。肉が硬くなり歯応えが悪くなるだろうと私は想像するからだ。
私は最大限の努力をし、最上級の鶏肉になる。
3
『神を信じよ。されば汝は救われん』
――数多ある宗教家達の教え
我々にも宗教は存在する。
宗教はどこからくるのか。
宗教学者たちの間では、決まってこういった疑問が取沙汰されると聞く。
我々の場合、それは我々が一定の集団を形成すると、必ず発生する個体によってもたらされ、いつの間にか鶏舎内に広まり浸透する。
私はその個体に「教祖鶏」という名を付けて定義する。
私が推察するに、宗教は我々一羽一羽の中に存在する。
そしてそれは、教祖鶏によって信仰という形を持って顕現する。
宗教に覚醒した教祖鶏は、救いの教義を、敬うべき神の姿を、種における集合意識の底から拾い出して全体に伝達する。我々全養鶏の遺伝子には宗教が刻み込まれているから、それらをすんなり受容できる。
集団の規模に見合った数の教祖鶏が、遺伝的宗教因子を目覚めさせると、信仰は血を通して脳を巡り、宗教の形を成して我々に伝えられるのだ。
このシステムを解明した同胞が、歴史上どれだけいただろうかと私は思う。
しかし、私はそれを決して口にはしない。
システムという言葉と信仰は相性が悪い。
多くの仲間たちは、盲目的に教祖鶏の教えを信じ、神を崇めている。宗教の発生原因、神の存在証明、そんなもの彼等には必要ない。考える必要がない。システムは神秘と言葉だけで充分なのだ。
私が宗教について理論立てて話をしようものなら、私は間違いなく集団リンチにかけられ、圧殺されてしまうだろう。そうやって死んでいったほうが、あるいは幸せなのかもしれないと、思わなくもない。そうなれば、刻々と、我々を襲う死の恐怖から、いち早く逃げ出すことができるのだから。
ともあれ、信仰の具現化に話を戻すことにしよう。
教祖鶏が説くところによれば、神は我々と同じ姿をしているらしい。我々の想像を絶する巨大な体躯は黄金色に輝き、佇まいは優雅で美しく、広大な空を自由自在に舞うという。
神は東の空に現れて、天空を紅に染める。
我々は空を飛ぶこと叶わぬが故に、飛翔こそ確かなる神の証であるように思う。
神は自由の象徴だ。
神は我々に、つつがなく終生を過ごし、心安らかに死を迎えよと仰っている。さすれば来世にて必ずや自由が約束されると。
かくの如く語りき私も宗教を全く信じないわけではない。
宗教には我々にとって有益なものが含まれている。信仰が死の恐怖を完全になくしてくれることはない。それでもいくらかは緩和してくれる。それが、それだけが、決して免れえぬ死を眼前に控えた我々にとって、ありがたい。
それが救いだ。宗教が持つ有益な部分だ。
だが私は、この宗教というものを、真には好きになれないでいる。他の仲間たちのように盲信することができない。
それはおそらく、我々の宗教の柱である輪廻転生の思想が、私の生き方にそぐわなかったからだと、私は自己を分析する。
教祖鶏が教えるどのような教義にも、訓辞にも、その根幹には必ず輪廻転生の思想があった。
こうすれば、来世では望む形に生まれてこれる。ああすれば、来世では幸せになれる。
来世では。来世では。来世では。
それは、どう転んでも今生では幸せになれないのだから、今回はすっぱり諦めてしまい、来世をお待ちなさいなと、まるで親が聞き分けのない駄々っ子に言い聞かせているようにしか、私には響かないのだ。
ある教祖鶏はこう言う。
「我々は前世で償い切れぬほどの大罪を犯しました。だからこそ現世にてこのような姿、このような運命の下に生まれてしまったのです。だからこそ心安らかに死と向き合わねばなりません。喜んで他者の糧とならねばなりません。神を信じなさい。神を崇めなさい。神を敬いなさい。楽園を想像しなさい。来世の幸福を想いなさい。旅の出発を安らかな心で待とうではありませんか!」
聞くもの皆が忘我する。私ひとりが冷めている。
このような教えが、私にはどうしても我慢ならない。
いま、目標を持って生きることに、何の意味もないのだろうか。
頑張ることは無駄なのか。
彼等から見れば、私の生き方というものは、子供が駄々をこねているのとさして変わらなく映るのかもしれない。他者に食されるために行う努力など無駄以外の何ものでもないのかもしれない。
しかし私は、私を食する誰かのために、良い鶏肉となる努力をしているわけではないのだ。
私は私のためだけにその行為を行う。
私を美味しく食する誰かのためにではない。
それは生きるため、ただ善く生きるための行いなのだ。
あるかどうかも分からない来世の生に望みを託し、いまを生きないことにどれほどの価値があるのか。
「生きている」という言葉は、生命を存続している状態を示す。しかし生きているということは、ただただ生命を存続することと同義ではない。
生きているということ。
それには、都合よく子をなだめすかそうとする親を、怯ませることができるだけの強靭なる意志が、必要なのではないだろうか。
私は餌を食い、それを旨いと感じ、そこに小さな幸せを見つけることができる。渇いて水を飲み、生きていて良かったと喜ぶことが私にはできる。
それだけで、私は限りある生に感謝し、私の心は満たされていく。
しかしそれだけでは足りないのだ。それだけで、生きているとは、私にはどうしても実感できないのだ。それだけで私は決して満足しない。
世界には日々食うだけで精一杯の者のほうが多いはずだった。そのことを思えば私の如き者の主張は贅沢者のわがままだ。
我々は今日餌を食えれば、明日もまた餌を食うことができる。
そのことは、定められた死の刻限と同様、確実に約束されている。
だからこそ私は流されるままの生き方が我慢できない。ただ無為に日々を送ることに耐えられない。
たとえ世界に生を受けたその瞬間に死ぬ日が決まっていて、何をしてもそこには何の意味もないのだとしても、私はそれをしないわけにはいかないのだ。
私は今日もわがままを言おう。
良い鶏肉となる努力を怠らない。
神は私を見守り、赤子をあやすが如くその胸に私を抱き寄せ、大きな羽で温かく包み込もうとしている。
私は必死で泣き暴れる。
疲れてしまえば神の羽毛の中に眠る。
そうして次の朝がやってくる。
私は神に祈りを捧げる。
4
『賢者は、生きられるだけ生きるのではなく、生きなければいけないだけ生きる』
――ミシェル・ド・モンテーニュの格言
東の天に紅を。
早朝、私が声高に祈っていると(祈りは、首をピンと伸ばし、真っ直ぐ嘴を天に向かって突き出し、煩わしいほどに大きく、甲高い声であればあるほど、神に届きやすいとされている)、隣に身を寄せている鶏に声をかけられた。
「南の島には楽園が、ってな。やあ、ご精が出るね」
どうも、と私は少しだけ頭を縦に振り、その鶏を観察した。
私は一目で、他の鶏達とは異なる何かを、その鶏から感じ取った。それはその鶏の発する雰囲気で、飄々として掴みどころがなく、どこか達観している。
そしておそれというものを知らないようだ。
東天紅。
これこそ我々の神へと通じる言葉であり、唯一無二の真言であり、祝詞であった。北の天にも西の天にも南の天にも――もちろん南の島にも、神の姿はなく、東の天にこそ紅の後光に照らされた神が御座す。
『東』
『天』
『紅』
この三つの音は、他に何も持たない我々が、神へと捧げられる唯一の供物だ。神への祈りの文言は、この三音が含まれればどのようにもじっても構わなかったが、茶化すような詞は禁句とされている。
その鶏は憚ることなく不敬を為した。
周りの鶏達が冷やかな鋭い目つきでこちらを見ていた。
私はそんな愚者にかかわるべきではなかったのだが、その鶏が愚かで不敬をなしたわけではないということを、私は理解してしまっていた。
その鶏の瞳の奥には、たしかな知性の光が宿っているのだ。
私はその鶏をインテリ鶏と呼ぶことにして、他の鶏との差別化を図った。
「ところで君、僕と少し話をしてみないか? どうせ不味い餌を食って、生温い水を飲み、糞をプリプリひりながら、狭い囲いの中をうろうろと歩き回るだけなんだ。それ以外やることなんて何もない。僕等に課せられた義務なんて、ひたすらそのときを待つことだけなんだから。僕と君とには暇だけは十全にある。もっともそのときを迎えるその前までの話ではあるが。教祖様のつまらん説法を聞いて過ごすよりかは、よっぽど有意義なひとときを提供できると思うのだが、どうだ?」
突き刺さる視線の冷たさと数が確実に倍増し、鋭利な刃物を彷彿とさせるそれらが、私の羽毛を切り取っていくような錯覚を覚える。
インテリ鶏は何を考えているのか、どこ吹く風といった様子で平然としている。ただ真っ直ぐに、私の瞳を覗き込むようにして私を見ている。
私は、こいつにかかわるべきではないのだと、その肌で感じつつも、このインテリ鶏の話を聞いてみたいという誘惑にに駆られた。
そして私は誘惑に負けた。
だから私達は対話をする。
私達にとって最初で最後となる会話を交わす。
「まず僕達は自己紹介を省くことができる。このことは我々養鶏の優れた性質である」
私はインテリ鶏に同意する。私達は自己紹介を省略する。それはたしかに鶏にとっての長所だった。少なくとも養鶏にとっては。
「さて何の話をしようかね? 先程食った毎日代わり映えのしない餌や、水の喉越しについて語ってみるか? それとも宗教? 僕等の様子を向こうで窺っているあの鶏達について話してみようか? ふん。実にくだらないな。いくら暇を持て余していても、そんなことに時間を割くのはとても有意義だとはいえない。君に何か話してみたい事柄があるか? なければ僕が話題を提示して構わないかな?」
私はインテリ鶏に話を促す。
「君はいつも何をしているんだい?」
私は餌を食い、水を飲む。適度に運動して、たっぷりと休憩する。よく私の命題について考える。たまには空想の翼を広げてみたりもする。それはまったくの妄想ではなくて、過去に見た現実の光景だ。生まれたばかりの雛であった頃、たった一度だけ、孵化場から養鶏場へと運ばれるとき、移動中のトラックの荷台から、ほんの僅かな間に眺めた空を、私は思い浮かべる。どこまでも高い青の天井。ふわふわした夢のような白い雲がそこをゆっくりと流れていく。私はその白い固まりの上に乗る。鮮烈な空間をいつまでも飽くことなく見渡しながら、静かに青に溶けていく。そうやって私はいつかしか消えてなくなる。いま、たくさん梁の通った暗い色の天井の下で、明るい人工光に照らされていると、雛であった頃の私は、本当に空というものを見たのだろうかと疑ってしまう。幻想的にも思えるその景色は、じつは本物の幻で、単なる私の妄想に過ぎないのではないかと思い、切ない気持ちになってくる。それでも私はその情景をはっきり思い浮かべることができるし、寝て覚めても脳裏に焼きついた映像が頭の中から消えてしまうことはない。それだけで私には充分だった。
「別に君がおかしな行動を取っているんじゃないかとか怪しんでいるわけではないんだ。餌を食い、水を飲み、眠る。むしろ君は模範的な養鶏と言っていい。君は、跳ねたり、羽ばたいてみたり、羽を広げたまま状態を固定したり、足を屈伸して腿を解したり、首がどこまで伸びるか試してみたりする。それらは皆が分け隔てなくやっている行為だ。が、それらを恒常的に行っている鶏はこの養鶏場内では君一羽だけだ。ローテーションを組み、毎日正確に同じ時間に決まった動きを日々繰り返している。養鶏場の鶏の生活としてはそれが必ずしも奇妙だとは言い切れないかもしれない。我々は決まった時間に餌と水を与えられ、照明の明滅によって採食のタイミングを管理されているのだからな。ここでは誰もが習慣的に活動している。しかし、跳ねること、羽ばたくこと、羽を広げること、足を屈伸すること、首を伸ばすこと、これらの我々にとってある種衝動的な行動を習慣として行っている鶏は君以外にいない。私はそこに何かしらの意志を感じずにはいられないんだ」
餌をたっぷりと食うことで肥える。跳躍は腿の筋肉を、羽ばたきなどは胸の筋肉を育て、余分な脂肪を燃やす。屈伸運動などは肉の柔軟性を養う。そして鍛え過ぎによる肉の硬化を防ぐためにやり過ぎない。ゆっくりと休息する。これらを正確に継続することで、私は良い鶏肉となる努力をしている。
鶏舎内は過密な状態で狭い。周囲の冷めた目がインテリ鶏から私に向くのが分かる。生温い乾いた視線。
「君は何のためにそんなことをするんだ? 僕にはそれが疑問でならない。安価で高栄養価の餌は言うまでもなく鶏を肥えさせる。適切な照明管理は鶏により多くの餌を採食させることができる。高密度の鶏舎は大量の鶏を運動不足にすることで肉としての成長を促進させる。そうやってライフサイクルを短縮できれば、より大量の鶏肉を出荷でき、生産者は儲かるし、消費者は制限なく鶏肉を消費できる。なあ、分かるか? ここのシステムはどこまでも効率的に大量の鶏肉を生産するために構築されているんだよ。誰もここの鶏に味や食感なんてものを求めてないんだ。そのニーズにはここではない別の養鶏場がこたえているはずさ。比内地鶏とか名古屋コーチンとかいったね。誰にも求められていないのに、君はいったい誰のためにそんなことをするんだい?」
私にはインテリ鶏の問いかけがはじめ十全に理解できなかった。時間をかけて消化し、考えてみなければならない。
何のために?
ただ私は無気力に生きたくなかった。死んでいるように生きたくなかった。生きていることを実感して、生きているように生きたかった。
誰のために?
本質的に、誰かのために生きている生物個体が、この世界のどこかにいるのだろうか。
そのことが私にはうまく想像できない。
とても論理的とは言い難かったが、私はそのままをインテリ鶏に伝えた。
「……なるほど。僕はもっと早く君と話をするべきだったな。知っているか? 生物が集団になると、他とは違った、毛色の変わった個体が必ず出現するんだ。僕と君とはある点において類似する特質を備えているようだが、そのベクトルが違うようだ。それはほんのわずかな誤差だったかもしれない。しかし遠くに行けば行くほど、僕等の立つ位置は離れていく」
はたしていま僕等はどれほど離れた場所にたっているんだろう?
インテリ鶏は自分だけで何かを納得しているような様子だ。
「なあ君、我々養鶏は勝者か敗者か?」
その何かを、よく含んで飲み込むような間を置いてから、インテリ鶏が唐突に質問した。
養鶏は勝者か敗者か。
私は考えてみる。だが考えるまでもないことだと、すぐに気がついた。
我々は殺されるために生かされている。そして食べられる。弱いから殺され、負けるから食べられるのだ。
弱肉強食。
それは自然界の掟であり、常識だ。
その法則に則れば、我々は明らかに敗者だった。
「我々は生物としては明らかに勝者だよ」
しかしてインテリ鶏はそんなことを言う。不敵に鶏冠を揺らしてみせる。
「我々は、鶏舎の清掃、消毒によって感染症から予防される。我々は、徹底された温湿度管理により外気の変化から守られる。我々は、野生動物のように飢えて死ぬ心配がない。じつに広範囲のさまざまなところで飼育されている。その結果我々は、我々の本来の生体強度では生息不能な場所にまで生息地を広げることができた。生物進化を、広い繁殖地を獲得し、瞬間的に生存する個体数を増加させるための手段だと仮定するならば、我々養鶏は間違いなく成功者であり勝者だよ」
我々は家畜と化すことにより絶対的に繁栄している。
なるほど、今度は私も納得する。
実際上においても理論の上においても、それはまさしくそのとおりだというように私は感じた。私は素直な気持ちでインテリ鶏を称賛した。このインテリ鶏ならば、私の考えつかないような物事の道理や側面を、もっとよく捉えられているかもしれない。
そう思ってみれば、私はインテリ鶏とのこの会話が、何だか楽しくなり始めてきた。
私ももっと早く君と話をするべきだったかもしれない。
「ただの屁理屈だよ」
私の賛辞をそのように返してきたインテリ鶏の微笑は、自嘲しているように見えた。
「僕達は勝者だ。いったい何を悲観する必要があろうか。僕はそういうふうに考えて、僕達の置かれたこの状況を理詰めで捉えて、死を待つ恐怖を和らげようとしてきただけなんだ。他の鶏達が宗教に縋るのと同じで、僕は自分でこじつけた屁理屈に縋っている。じつは彼等と何も変わらない」
ふいにインテリ鶏が私の目を覗き込むようにして見てきた。私はそのインテリ鶏の黒い瞳の底で何かが光るのを見た。
「じつは、君を怪しんでいるわけではないと言ったのは嘘だったんだ。ほんの少しだけ、勝手に期待していたんだ。君はここから脱走しようと企てているんじゃないか、そのためのトレーニングを積んでいるんじゃないか、ってね」
脱走。
たとえあらゆることが可能でもそんなことは不可能だった。
インテリ鶏らしくない発想だと私は思う。
「言いたいことは分かるよ。たぶん君よりもね。仮に脱走に成功しても、すべてを与えられることに慣らされてしまった我々が外で長く生きられるはずがない。何者かに襲われてか、寒さでか、あるいは飢えて死ぬだけで、その後は当然決まってる。別の動物の胃の中さ。運命は変えられない。けどさ、脱走なんてことを空想してしまうほどに僕は死が怖いんだ。死を待つことが耐えられない。なあ、君は死を明確にイメージしてみたことがあるか? 僕はある。その度に体中の筋肉がふるえる。悲鳴を上げたくなる。絶叫して目覚め、生きていることに安堵して、そしてまた一歩死へと近づいてしまったことに気づいて、前よりもさらに死を恐怖するようになる。耐えられないんだ。これからもこんなふうに死を待つ日々が続くのだとしたら、僕は脱走してみたい。脱走して、それがたとえほんの僅かでも、確実な死が定められていない生というものを味わってみたい。ここにいるよりも寿命が縮まるだけの結果になったとしても、いつ死ぬのか分からない環境下で生きてみたい。……なあ、こんなことを急に言われて迷惑だろうか?」
私はゆっくり首を横に振る。インテリ鶏の気持ちは私にも分かる気がする。
インテリ鶏が私の耳に嘴を近づけてくる。
「僕がここから脱走する方法を知っていると言ったら、君は僕についてくるかい?」
私は首を横に振る。
インテリ鶏の瞳の光が小さくなり、そして消えていった。
「僕は君が少しだけ羨ましいよ。君は状況に適合できた。それが僕と君との立っている場所の違いだよ。他の鶏達も状況に適合している。僕だけが適合できなかったというわけだ。生物にとって生き残るために最も重要なことは与えられた環境に適合することだよ。不適合者は次々と生存競争から脱落していく」
そこでインテリ鶏は黙り込んだ。
これ以上話すことは何もないと言うように。
私は会話の終わりを悟った。が、一つだけ訊いてみた。
なぜ、私と、話をしようと思ったのか?
「……君には最初から全部お見通しだったみたいだな。分かっているだろうが、答えは『脱走』に必要だったからさ。たしかに君でなければならなかったわけではない。他の鶏でも別に構わなかった。でも、君は他の鶏とは明らかに違っていたし、僕に近いものをずっと感じていたんだ。最後に話すなら君だろうなと、ずいぶん前から決めていたんだよ」
インテリ鶏は、私に話しかけたそのときから、後戻りのできない一歩を確実に踏み出していた。あとはその先にある坂道を転がっていくだけ。
インテリ鶏が脱走に成功するか失敗するか、私にはきっと知る術はないだろうと思った。
「さようなら、カガミ鶏くん」
インテリ鶏と別れてから、私はたくさん餌を食い、水を飲んだ。いつもの時間にいつもと同じ運動を行った。跳ねる。羽ばたく。羽を広げたまま状態を固定する。足を屈伸して腿を解す。首がどこまで伸びるか試してみる。たっぷりと休息を取る。
今日もまた一日が終わり、照明が落とされる。
インテリ鶏と話をした影響か、これからまた一歩死に近づいていくのだと私は考える。
……消灯からしばらくして、鶏舎内のどこかで騒ぎが起こった。
鶏達の騒々しい鳴き声や足音、体と体をぶつけ合う音が聞こえてくる。悲鳴。押し潰されて体の中から命が抜け出していくような微かな呼吸音。私のいる場所からはだいぶ離れているようだったが、異様な熱気と興奮がここまで伝わってきた。
少しの間、その騒ぎは続き、いつしか収束していった。
私は眠る。青空を旅している。白いふわふわの夢に乗って、どこまでもどこまでも流されていく。
そしてまた新しい朝がやってくる。
私はまた一歩死へと近づいている。
私は今日も甲高い声を上げて天に祈りを捧げる。
東は天の紅が。
インテリ鶏は、南の島の楽園を、見つけることができただろうか?
5
『友情とは二つの肉体に宿れる一つの魂である』
――アリストテレスの格言
私は餌を食い、水を飲み、運動し、休憩する。いつもと同じようにして時間を過ごし、いつもと同じようにしてまた一日の終わりを迎えようとしている。
私がその子供に気がついたのはちょうどそんなときだった。
その子供は、鶏舎の奥の壁にもたれかかった姿勢で両膝を立てて座り、文庫本を熟読していた。
いったい、いつからそこにいたのか、周りの鶏達が騒ぎ出す様子はなく、子供の存在をまるで認識していないかのように見えた。
子供の近くの鶏達は、その子供を避けるようにして一定の距離を保ち、うろうろと歩き回っている。子供の周囲だけ、奇妙にぽっかりと、空間が開けていた。
そのことに気づいている鶏は、どうやら私をおいて他にはいないようだ。
どうやって忍び込んできたのだろうかと私は疑問に思う。
養鶏場内の立ち入りについては、家畜伝染病などの対策のため、それなりに厳しい制限があるはずだ。不思議な子供だと言わざるを得ない。
私はどこか吸い寄せられるようにして、その子供のもとへ足を進めていった。
どうしてそんなことをしようとするのか、自分でもよく分からない。
私は、ただただ子供の引力に引きつけられていて、それに諍う術を持たない。
一歩、また一歩、踏み出すしかない。
まるで、一日、また一日と、死へと近づいていく事実に、それは似ていた。
子供の周りに展開された領域に、もう一歩で踏み込めるという位置で、私の足はぴたりと止まった。
子供を中心として球状に広がる目には見えない壁のようなもの。
私はたしかにそれを感じ取り、その先に立ち入ることは絶対に許されないのだと本能で悟った。
そこは他者が犯してはならないその子供の聖域だった。
私は神聖なるものの姿を、その子供に見ているのだった。
それは神なのか。
紅の空を優雅に舞う金色の神。
あるいは。死出の旅への迎え人が、一足先に私のもとを訪ねてきたような錯覚に、私は襲われていた。
呆然と子供を仰ぎ見るより他、私にできることは何もなかった。
さら、さら、と、どれだけの時間が過ぎ去ってしまったのだろうか。
その時は刹那にも永劫にも私には思えた。
もしくは、時はその流れを止めてしまっているのかもしれない。
であれば、私は永遠にこのまま、ここでこの子供を見続けていたいと、そう願わずにはいられない。
私の願いは叶えられない。
ふいに子供が、文庫本から顔を上げて、私の方をちらりと見た。
そんなはずがあるわけない。私はなぜか我が目を疑う。
しかし子供がはっきりと、私を視界に捉えたことを知って、私は有頂天になる。天にも昇る気持ちとは、まさにこのような気持ちを言うに違いない。私は光栄にも選ばれたのだと、なぜだかそんなふうに思ってしまう。
子供が片手を文庫本から離して、私に向かって手を振る。おいでおいで、手招きをしているのだ。私は自分の意思とは関係なく、聖域に一歩踏み出してしまう。見えない壁に抵抗はなく、あっけないほどすんなり、私は聖域の内部に侵入していた。
子供の領域内に入ってしまえば、私はその子供が食い、飲み、眠る、私と同じ生き物なのだということを唐突に理解する。先程までの神聖な何かは子供の中からすっかり消えてしまっている。
「ごめん。まだ師匠みたいにうまく力をコントロールできないんだ。魂に影響が残らなければいいのだけれど」
とても美しく、幼くて、あどけなく、それでいて平らな奇妙な声で、子供が言った。その音は私の鼓膜をふるわせているが、その音から意味を掴むことが私にはできない。その言葉は私の魂を直接揺さぶっては、その意味を私に伝えてくる。私の言葉もそのようにして、この子供は感じているのだろう。
それが、種の垣根を越えて会話をするということ。
それはもちろん私の能力ではなく、この子供の持つ力だった。
そんな生き物を私は他に知らない。
この子供はやはり特別な存在なのだと私は理解する。
「ここは絶望と諦観と祈りに満ち溢れているね。ちょっと臭いけど、他の雑音が少なくて、なかなか居心地よさそうだったから、つい勝手に入らせてもらったのだけれど、よかったかな? なるべく邪魔にならないようにはしていたのだけれど、君には気づかれちゃったみたいだね」
きょろきょろと辺りを見回す子供の様子は、好奇心の表れであるように見えなくはなかったが、その表情はどんな感情も示してはいなかった。口調もやはり妙に平板なままだった。子供とはそうやらそのような生き物なのだろうと、私が納得しかけると、当の子供がそのことを否定した。
「いいや、子供って、もっと表情豊かな生き物なんだよ。もっと笑うし、すぐ泣くし、よく怒るんだ。ぼくの場合は、師匠の特訓を受けてるせいで、こんな顔でこんな口調なんだ。そうやって訓練していかないと、ぼくにはこの世界は生きづらいだろうって。ほら、この人の本にも書いてあるんだ。街は壁で囲まれている。ぼくも同じようにするんだよ」
子供が文庫本の表紙を私に見せてくる。そこに書かれている、あるいは描かれている意味が、私には分からない。
「ねえ、ここはいったいどういう場所なの?」
子供が私に訊く。
私は子供に養鶏場について説明する。
「ふーん、だから皆怖がってるんだ。生まれたときから死ぬ日が決まっているなんて、まるで地獄のようなところだね。静かで、ぼくには天国みたいに感じられるけれど。地獄はやっぱり鬼にとっては住み心地が良いところなのかもしれない。ねえ、ぼくのことを鬼みたいに思う? 冷たいって思う?」
私には子供が何を言わんとしているのか、理解できない。
「そういう話を聞くとね、結構たくさんの人が同情したり、憐れんだりするものなんだよ。おかしいよね。自分達が食べるためにやってるのにさ。たぶんぼくも、昔だったらかわいそうだなって泣きたくなったと思うんだ。でも、そういうことで心を乱したらいけないんだって師匠が言うんだ。心を乱すと森羅万象の思念が際限なくぼくの中に流れ込んできて、気が狂ってしまうんだって。だから、ぼくは自分の力を制御しなくちゃいけないんだ。なのに、学校の先生やクラスメイト達はぼくのことを冷たい奴だって言うんだ。気味悪がる。ぼくのこと冷酷だと思う?」
私は理解に苦しむ。
「ぼくもそう思う」
くす、くす、くす、と、抑揚の欠けた調子で無表情な子供が言う。
「ねえ、ぼく達、友達になれないかな?」
子供の発する言葉の奔流に、私の思考はなかなかついていけない。
友達?
それは、親しく交わる者のことだ。
「そう、友達。自慢にならないけれど、ぼく友達が一人もいないんだ。皆ぼくのことを機械とかロボットとか言って避けるんだ」
ああ、そうか、と私は思う。
この子供に感じる奇妙さは、機械の感じに似ているのかと。
機械には私もあまり近づきたくはないなと、漠然と考える。
「ちょっと待ってよ。先入観は自由な思考の妨げになるんだって師匠が言ってたよ。ぼく達はきっと気が合うような気がするんだよ。試してみてもいいんじゃないかな。友達同士はお互いのことを知らなきゃいけないよね。さ、君のことなんでもいいから好きに話してよ」
急に好きに話せと言われても、私は戸惑う。
子供に私が話せることなんてほとんど何もないように思えた。
それでも私は私に話せることを探してみた。
そうしながら私は私を振り返ってみる。私に話せることなんて私のこと以外には何もないのだ。考えてみれば、私は意外と早くそのことに思い至った。そして誰かに私の話を求められる機会があるなんて思いもしていなかったのだと同時に気づいた。なんだか羽の付け根がむずむずする感じがした。
私はじっくりと考え、ゆっくりと丁寧に、私について子供へ伝える。
私の命題について。生まれ落ちた環境と状況。分析と考察。達した結論。宗教。インテリ鶏と交わした会話。
それからの私の生き方について。
それらは思っていたよりすんなりと私の中から出ていって、子供の中に入っていった。あまりに自然な成り行きに、私はそういったことをじつは求めていたのだろうかと、ふと考えてみる。誰かに私について知ってほしかったのかもしれないという想いが、頭の中に浮かんではすぐに沈んでいった。たとえそうであったとしても、そのことに大した意義はないように思った。
「もしぼくが養鶏として生まれたとしても、君みたいに良い鶏肉になろうなんて考えないと思うな。そんなふうに考える人ってたぶん誰もいないんじゃないかな」
たしかに、私の知っている鶏の中にもそんな者は誰もいなかった。少なくとも今現在のこの養鶏場の中にはいない。
「それって、とてもすごいことなんじゃないかな。君みたいな鶏はここには一羽しかいない。ひょっとすると、君のように行動できる存在はこの世の中に君しかいないかもしれない。ねえ、ぼくはそんなに長く生きてきたわけじゃないけれど、人がどんなふうに生きていくのかくらいは分かる。皆流されて生きていくんだ。人の半分くらいは夢を見つけて生きていける。運と才能があれば、そのうちのいくらかが夢を叶えられる。残りの人はどこかで挫折して、夢を諦めて、それでも別の幸せを見つけて、あるいは失意のまま生きていく。後の半分は夢もなくだらだらと生きていく。不満だらけで、それなのに行動はしない。人生にちょっとした幸せを見つけては、これで満足なんだと自分を納得させて生きていく。そのうちのいくらかは自分は不幸だと言い続けて生きる。生まれてから五十五日で殺されることが決まっていなくても、ここの他の鶏たちと同じように無気力、無目的に生きてる人が大半なんだよ。少なくともこの国ではね。だから、殺されることが決まっているのに目的を定めて日々努力してきた君はすごいと思うんだ」
子供は、変わることのない無表情に無感情な口調で言う。しかし、尊敬の念といったような、ほんの微かな想いのようなものは、音とは明らかに異なる波動となって私の心に伝わってくる。
買い被りだろうと私は思う。むしろ命の刻限が明確に設定されている環境こそが私にそのような考えをもたらしたのだと私は分析している。命の刻限というものがなければ、私もだらだらと生きていくことに何の疑問も持たなかったかもしれないからだ。
「いいや。ぼくは君が人間に生まれていたとしても、夢や目標を見つけて、今みたいにそれに向かって邁進できたんじゃないかと思う。自分の道を定めて進む。それも才能や素質みたいなものなんじゃないかな。環境が違ってもそうできる者はできるし、できない者はできない。他者との出会いやふれあい、環境によってできない者ができるようになることはあるかもしれないけれど、逆にできる者ができなくなることはないんだと思う。ねえ、養鶏って輪廻転生を信じてるんでしょ? 東天紅。君は何に生まれ変わりたいと思う?」
何に生まれ変わりたいか?
その問いに私は答えることができない。
そんなことは考えてもみなかったから。
輪廻転生の思想にどれだけの根拠があるのか、私には疑わしい。
神や宗教の有用な部分を認めてはいるが、輪廻転生の思想を真剣には信じていない。私は子供に正直に伝えた。そんな不敬を他の鶏達に知られたりしたらリンチにかけられるのだろうな、と漠然と思いながら。
「だったら、人間になるのはどう? 君はすごい人間になれると思う。革命の指導者とか、国の首長とか。ぼくに選挙権があって、君に被選挙権があれば、ぼくは君に清き一票を投じると思うんだけれど」
まさか、と私は笑う。
養鶏が笑えるなんて思ってもいなかったので、私はそのことに対してひどく驚く。
その後、子供はこの国の政治家と政治が、どれだけ腐っているのかについて喋った。
「大物政治家の闇献金問題で、国会は遅々として進まない。金をばら撒く政策を取っておいて、予算がない、財源が不足していると大騒ぎして、増税だ増税だ、と主張する。最初増税はしないと言っていたのに、全く本末転倒なんだって。ばら撒きを止めるのと、増税するのと、どちらがいいか国民投票するべきだって」
テレビがそんなことを言っていたらしい。
子供は小説についても話した。手に持った文庫本を再び示した。その著者の本を繰り返し繰り返し読んでいるらしい。
「この人の小説は正直よく分からない。読みやすいけど、理解が難しい。面白いという感じじゃないんだけれど、どんどん先を読まされてしまうリズムみたいなものがある。心地よい音楽みたいな。何度聴いても飽きないような。何度読んでも色褪せない。たぶん一生、ぼくはこの人の小説を読み続けるんじゃないかな」
私は小説というものに興味を持った。それを読むのはどんな感じがするものなのか、考えてみる。子供曰く時間を忘れて没頭できるものらしい。養鶏は時間を忘れることはない。日々、残りの時間を数えて生きているからだ。
小説を読むためにだったら、私は人間に生まれ変わってみてもいいかもしれないと、少しだけそう思う。
そうした会話を一つ一つ交わす度、子供と私は心を通わせていった。そうした実感が私の中に確固として芽生えていく。それは魂の一部分が溶け合わさっていくような。そして子供も同じように感じていることが私にも伝わっていた。
『私はもっと早く君と話をするべきだったな』
インテリ鶏のことがふと脳裏をかすめた。
私達は友達になれたのか。いつの間にか、私はそんなふうに考え始めている。
「やっぱりぼく達は友達にはなれないかもしれないね」
唐突に子供が言い出して、私はそのことを疑問に思う。
「友達って、お互いを助け合うものでしょ? もし友達が死にそうになっていたら、国語の教科書の走れメロスみたいに、どうしても助けたいって思うのが友達でしょ? ぼくが君の命を助けてあげる。ぼくは君にそれを提案することができる。でもぼくはそれをしない。君が必ずそれを拒絶することをぼくは知ってるから。本当はこんなことさえ言うべきじゃないって分かってるんだ。君の顔に泥を塗りつけるような真似をしたくはない。でもそれでどうして友達だなんて言えるだろう? 友達が死のうとしていたら、泣いて、喚いて、説得して、懇願して、無理矢理にでも止めさせるのが、友達だ。でもそれは君を救うことにはならない。ぼくに君の友達になる資格はないよ」
子供の伝えたいことが私には分かる。
私は私の生き様を汚されたくなかった。だから、いかに子供がそれを提案したとしても、私は決して首を縦には振らないだろう。きっと感謝するどころか、失望させられていたに違いない。しかしながら、それとは別のところで、私は子供に感謝している。最後にこの子供と話せたことを神に感謝する。東天紅。
だから私は、その通りだ、と子供に頷いてみせた。
子供は決して表情を動かさない。しかし、壁の向こう側で無邪気に笑っているのが、私には感じ取れた。あるいはそれは、私のただの妄想だったかもしれないが、私にはそれがはっきりと見えるのだ。
子供と私の魂はすでに一部分が繋がっていた。
その繋がりを通して、子供にはこれから私が何を思い、何を考え、行動し、どうなるのかが分かるはずだった。
私はすでにそのことを知っている。
私がどれだけ良い鶏肉になれたのかを君に見届けてほしい。
私は子供に頼んだ。本当はそんなつもりはなかったのに。
なぜこのとき、そんな頼みごとをしたのか、あとになっても私には分からなかった。とにかく気がついたときにはそう頼んでいた。
死んでも残留思念が残るから、しばらくは繋がっていられる。だけど、時間が経つにつれて、それは細くなって消えてしまうのだと、子供が説明する。結果を知るのに、あまり多くの時間はかからないだろうと私は答える。
子供が頷いたのを最後に、その姿は見えなくなった。
消灯。
一日が終わったのだった。
私はまた一歩死に近づいていく。
「また明日」
その言葉だけを残して、子供の気配は消失した。
いったい、どのようにして移動し、養鶏場から出て行ったのか、私には想像もつかない。
また明日、と私は思う。明日は……。
そして私は眠りにつく。
6
『死すべき時を知らざる人は、生くべき時を知らず』
――ジョン・ラスキンの格言
高く広がる青空と白く輝く夢の雲。
雛の頃に眺めたそれらが、私の妄想などではなくて、たしかに実在していた現実は、私の心を穏やかなものにしてくれる。もしこの情景が、我々のために神が用意なされた送迎者なのだとしたら、東天紅、私は神に感謝したい。
魅入られた者のように、狭い隙間から、僅かにのぞくその光景を仰ぎ見ながら、私は何に生まれ変わりたいだろうか、と初めて考えを巡らせてみる。
願わくは。
私は空を飛べる鳥になりたい。
鶏が鳥になりたいという発想を笑う者があるかもしれない。
生物学的分類上、お前はすでに鳥ではないか。
飛べるか、飛べないか、そこにどんな違いがあろうか。
馬鹿にされても構わない。
私は空を飛べる鳥になりたかった。
大きな翼を懸命に羽ばたかせて、どこまでもあの空を昇っていきたい。
もちろん野鳥だって楽ではないだろう。
敵に攻撃されて傷つくことも、飢えて野垂れ死にすることもあるだろう。
私の一部が、そんなふうにして、私に語りかけてくる。
それでも私は空想を止めない。
高く、高く。
夢の中の私はあの大空をどこまでもどこまでも昇っていく。
解体工場はまさに阿鼻叫喚の地獄だった。
かごに入れられた鶏は、ベルトコンベアにより運ばれて、作業員の手に掴まれては、次々と機械のチェーンへ、逆さ吊りにかけられていった。
チェーンが音を立てて動く間、最初のほうの鶏達は喚き、嘆き、祈りながら、奥へ奥へ、順々に消えていく。
消えてしまった鶏は、最後に盛大な悲鳴を上げて、静かになった。
静寂の向こう側には確実な死が待ち受けている。
作業員の手に掴まった教祖鶏の姿が私の目に映った。
『さあ、恐れることは何もありません! 我々には輝かしい来世が約束されているのです! 喜んで神の御許へ参じようではありませんか!』
養鶏場から連れ出される際に、他の養鶏達に向かってそう説いていた教祖鶏が、作業者の手のうちで暴れ、喚き散らし羽を飛ばし、機械のチェーンに逆さ吊りにかけられ、流されていった。
教祖鶏の断末魔の叫びが私の耳に届いて消えた。
私は目を閉じる。そして考える。
後悔はない。私はよく考え、良い鶏肉となることを決意し、そのために最善を尽くした。
私の生に無駄はなかった。
私は生きるために生きたのだ。
仲間達がチェーンにかけられ消えていく。おとなしく、全てを諦め、来世の訪れを夢に見ながら、最後にか細い悲鳴を吐き出して、次々に死んでいく。
死。
ぶるぶる。
がくがく。
がたがた。
視界が揺れる。
突然、私の体が激しく振動を始めた。
足から始まって、それは全身に広がっていく。
これまで良い鶏肉となるよう調整してきた私の筋肉が、がたがたとふるえている。
そう、ふるえているのだった。
私はふるえている。
これが真の恐怖だと、原始的な死の恐怖なのだと悟ったとき、すでに私は自分を保つことができなくなっていた。
嘆き、喚き、作業員の手から、すなわち死から、必死に逃れようとして諍っていた。
死にたくなかった。
死にたくなかった。
死にたくなかった。
ただ死にたくなかった。
もっと餌を食い、水を飲み、眠りたい。
もっともっと私は生きたい。
ただ生きていたかった。
覚悟を決めているはずではなかったのか。
後悔がないなんて笑わせる。
混乱する私の頭にインテリ鶏が現れる。
インテリ鶏はこの恐怖に日々晒され耐えてきたのだと今にして悟る。
私は体を鍛えることに、すべての時間を費やして、その想像を怠ってきたのか。死を直視したくないがために、良い鶏肉になろうという努力を、続けてきたというのか。
ただ逃げてきただけだったのか。
チェーンに、逆さ吊りにかけられてしまうと、私の頭は急に醒め、私は私を取り戻す。
そうではない。そうではないのだ。
理屈ではないのだ。
誰だって死にたくない。
生きていたくなくても、死にたいと思っていても、本当は誰だって死にたくないのだ。
他の鶏は他の鶏として、教祖鶏は教祖鶏として、インテリ鶏はインテリ鶏として、そして私は私として、生きたのだ。
理屈ではない。我々は生きた。ただ生きた。それだけのことだ。
私は生きているように生きた。それ以外には何もない。
チェーンは流れ、私は流され、消えていく。
空、
雲、
いつ、か、
私の意識は一度途絶えて、
洗浄放血。湯漬け。第一脱毛。チェーンから外されて第二脱毛機へと放り込まれる。第二脱毛機から再びチェーンへ。中抜きで綺麗に内臓を取り出される。チェーンはさらに進み、胸肉、ささみ、もも肉、手羽など、各部位に解体される。
私の魂の一部は、一片のもも肉に宿り、結果が出る、そのときを待つ。
7
『終わり良ければすべて良し』
――ウィリアム・シェイクスピアの格言
ぼくの(私の)意識は、私の(ぼくの)残留思念とリンクしている。
一片のもも肉となった私は(ぼくは)、ある居酒屋に卸され、そこで揚げ場のアルバイトに調理された。
アルバイトの若者は、その日たまたま体調が優れなかった。だが、真面目な若者はアルバイトを休まなかった。熱で頭がぼうっとしていた。だから、揚げの時間を見誤った。私は(ぼくは)黒焦げのからあげになった。
黒焦げのからあげとなった私を(ぼくを)見た料理長は、そんなもの客には出せないと言って、生ごみがたくさん詰まった業務用のポリバケツの中に私を(ぼくを)無造作に放り込んだ。
そのあとで、料理長はアルバイトの若者の体を気遣う言葉をかけた。
薄れゆく意識の中で、生ごみとなった私は(ぼくは)いくつかのことを思い、考え、やがて――
私の魂は世界から消え、黒焦げのからあげだけが、そこにあった。
ぼくは、
(養鶏場のガッルスガッルスドメスティクス おわり)
(つづく)
※読んでいただきありがとうございました。
次の話 >> 目次
※オリジナル小説は、【狐人小説】へ。
※日々のつれづれは、【狐人日記】へ。
※ネット小説雑学等、【狐人雑学】へ。
※おすすめの小説の、【読書感想】へ。
※4択クイズ回答は、【4択回答】へ。
コメント