狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『機械/横光利一』です。
横光利一 さんの『機械』は、文字数21700字ほどの短編小説です。機械的文体? 四人称小説? 事件の真相? 普通じゃない小説です。未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
「私」はネームプレート製造所で働いていた。人体や脳に影響を及ぼす危険な薬品を取り扱うので、長くいるつもりはなかった。また「私」は、ここの主人をおかしいのではないかとときどき思った。お金を持たせれば必ず落とす、貧しいくせに困っている者には材料費まで与えてそれを忘れてしまう――しかし「私」は、この主人のおかしさを、人徳だと考えるようになり、次第に惹かれ、居着いてしまう。
同じ主人の信奉者に軽部という先輩がいた。軽部は、「私」が製造所の研究成果を探りにきたスパイだと思い込んでいた。主人のために仕事をすることが、生活の中心となった頃、「私」はその主人から「新しい研究を一緒にやらないか?」と持ち掛けられる。主人以外入室できない暗室に、「私」が出入りを許されたことで、軽部の嫉妬と憎しみの感情は頂点に達し、「私」は軽部に暴行を受けるも、冷静に説き伏せた。
以来、軽部との関係も落ち着いてきたある日、市役所から5万枚のネームプレートを10日のうちに作ってほしいという注文があった。主人の友人の製作所から助っ人として屋敷という名の職人がやってきた。軽部が「私」を疑ったように、「私」は屋敷をスパイではないかと思い込むようになる。しかし話をしてみると、だんだん親しみを感じはじめ、その優秀さに魅せられるようになった。
しばらくして「私」は、軽部が屋敷に暴力を振るっているのを目撃する。屋敷が暗室へ入るところを見つけた軽部が逆上したのだ。はじめ「私」は、尊敬するようになった屋敷が、暴力を振るわれるとどのような態度をとるのだろうか――好奇心に突き動かされ冷淡に見ていた。その様子を眺めるうち、いろいろな思いが浮かんできて、好奇心が引いていくと、「私」は軽部を止めに入る。すると軽部は、屋敷と「私」が共謀していると言い出し、「私」に殴りかかってくる。3者による乱闘になるも、最終的に「私」は、軽部、屋敷の両人から殴られるはめに……。
事後、「私」が問いただすと、ああしなければ収まらなかったからだと謝罪する屋敷。この頃には、屋敷に影響されたためか、研究成果を広く知らせたほうが世の中のためなのではないか……、とまで考え始めていた「私」は、暗室のほうもうまくいったのかと、屋敷を皮肉ると、君までそんなことを言うなら、軽部が自分を殴るのも当然だと笑う。「私」には何が本当なのか分からなくなる。どこまでが現実として明瞭なのか――「私」には計れない。
それにも拘らず私たちの間には一切が明瞭に分っているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを押し進めてくれているのである。
互いに互いを疑い合いながらも、仕事を完成させた翌日、受け取った製品代金を、主人が帰り道にすべて落としてしまった。その夜、「私」、軽部、屋敷の3人は車座になってやけ酒をあおる――翌朝、屋敷が目を覚ますことはなかった。危険な薬品を水と間違えて飲んでしまったからだ。疑われたのは軽部だが、「私」じゃないと、「私」は断言できない、屋敷を一番疑い、怨んでいたのは「私」ではなかったか、屋敷がいなくなって、一番得をするのは「私」ではないか、「私」かもしれない……、薬品のせいで頭がおかしくなっているのだろうか――
私はもう私が分らなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。
狐人的読書感想
さて、いかがでしたでしょうか。
読みにくいような読みにくくないような少なくとも読みやすくはないというか読後感は気持ち悪いというか独特の味わいがあるというかあまり読んだことがないと感じて普通の小説とはどこか違うしじゃあ何が違うのだろうといろいろ調べてみると小難しい仕組みが満載されている実験小説とかいうらしくて何から書こうかまずは整理しなければ――
といった感じなのですが(笑)、ひとつずつ書いていきたいと思います。
読みにくさ、その正体とは?
まず読みにくさを感じてしまうのは、上の文章のように、『機械』の文章中に、段落と句読点がとても少ないからです。この調子で、「私」の心理描写が延々と綴られているので、はじめのうちは読みにくさを感じてしまうのですが、慣れてくると、それほど気にならなくなってくる、癖のある文体だと思いました(ただし、集中力が切れると、意味がまったく頭に入っていないことに気づいて、通り過ぎた行を読み直すはめに……、ということが何度もありました)。
これはもちろん意図的にそうされている文体で、『機械』のタイトルどおり、メカニックに人間の心理描写を表現するための工夫なのだそうです。そういわれてみると、たしかにその試みは成功しているようにも感じます。
というのも、読後、気持ち悪い、というか、独特の味わいをこの小説に感じたのは、「私」の在り方に、人間味というものをあまり感じられなかったからかもしれない、と思ったからです。
『機械』では、「私」の感情の動きを如実に描いているにもかかわらず、「私」の人格は、人間的というよりも、たしかに機械的だと感じました。
最初、流れのままにネームプレート製造所で働くことになった「私」は、そこに不満を持っていて、長く続ける気はなさそうな雰囲気なのですが、結局そこに同化していくのです。内心見下していた主人を見直すようになり、軽蔑していた軽部が自分にしたと同じように、屋敷を疑うようになり、今度は屋敷と話すうちに親しみを覚え、尊敬の念を抱くまでになっていく……。
「私」は、ネームプレート製造所(機械)を観察する人間だったはずなのに、だんだんとその歯車のひとつになっていったように思います。その様子は、人としての感情の移り変わりが明確に描かれているのにもかかわらず、どこか人間らしくない、機械的だと感じさせられてしまうのです。
しかし現代社会を俯瞰してみるに、これがまさに人間を描いているのかもしれない、とも思わされたのでした。幼稚園、学校、会社、村、町、国……、人間は、周囲の環境を維持するために、進んで社会の一部として機能しているように思うのです。その構造は、機械仕掛けの巨大な何かを連想させます。
近代化が進むことで、人間は人間性を失っていく……、でも人間性っていったい何? 「私」は、自分の心情を『機械』のなかで語っていて、感情がないわけではなさそうなのですが、主体性が著しく欠損している印象を受けます。
主人、軽部、屋敷――他者の人格を、自身の置かれた環境に適するように、いうなれば、社会で自分が生きやすいように、吸収し自分の人格を組み上げていくように見えるのです。これは不自然にも感じ、また自然なことのようにも思いました。
人間誰しも、尊敬する人物や憧れの人から何かしらの影響を受けて、自分の人格や性格を構築していくものですよね。ただ、それは自分という核がたしかにあって、それを飾っているだけにすぎないのか、はたまた自分なんてものは存在しなくて、人格や性格といったものは、結局外的な刺激から発生する反応に過ぎないのか……、インプットを処理してアウトプットするコンピューターのように。
うまくいえずに歯がゆいのですが、機械的なのは人間らしくないはずなのに、機械的なのが人間らしさだと感じてしまう……、「じゃあ人間らしさって何なの?」というようなことを考えさせられてしまった、というお話でした。機械的で気持ち悪いと感じた「私」の在り方は、いまを生きている僕の在り方と何の違いもないよなあ――と。
普通じゃない小説、その理由
横光利一 さんの『機械』の特徴は、前述した句読点の少ないメカニックな文体ともう一つ、四人称小説ということが挙げられます。
四人称って何?
――と、僕は思ってしまったわけなのですが。
一人称「私」、二人称「あなた」、三人称「彼、彼女」、それ以外の外側にいる何者か、が四人称ということになるそうです。
小説を読んでいる読者は四人称だし、映画を見ている観客も四人称だといわれてみると、なんだか分かったような気もするのですが、それをどうやって小説にしているんだろう……、と考えると、よく分からなくなってしまいます(まさに『機械』の「私」のように)。
なのに、横光利一 さんの『機械』は四人称小説だといわれている……、僕は一読してみて一人称小説だと思いましたし(なにがしかの違和感はたしかに感じましたが)、正直いまだ十全に理解できているとは言い難いのですが、調べてみたことを一応残しておきたいと思います。
横光利一 さんの『機械』では、「現在の私」が「過去の私」について一人称で書いている形なのですが、
「現在の私」=四人称、「過去の私」=一人称
という構図になっています。
過去と現在、時間軸のずれを利用することで、四人称の設定に成功しているのだとか……、そう指摘されて読んでみると、たしかに文中、この部分は「現在の私」視点かもしれない――と思わされる部分はあります。
それが一番顕著なのは、あらすじでも引用したラストの部分です。
一人称である「過去の私」を物語ることで、四人称である「現在の私」が事件の犯人であるかもしれないと疑い始めます。この時点で、「過去の私」と「現在の私」は一つに重なったと思えるわけで、では、もう四人称小説ではないのでは……、とも思うのですが、だったらそれまでは一人称と四人称が明確に分かれていたともいえるわけで、やっぱりこれは四人称小説なのかなあ……、と正直いまだによく分かっていません。
ただとても秀逸な表現技法だと感心させられてしまいます(偉そうでごめんなさい)。
まるでミステリー小説みたいなラストですよね。「私」は危険な薬品の影響で、頭がおかしくなってしまっているのかもしれません。となれば、まずは事故だったのか、あるいは……、だったら犯人は……、軽部? それとも本当に「私」が……、真相はいったい……、と考えさせられずにはいられません。
読書感想まとめ
では、最後に横光利一 さんの『機械』の見どころを狐人的にまとめておきたいと思います。
- 句読点の少ないメカニックな文章表現!
- 普通じゃない、四人称小説という試み!
- 事故? 軽部? 私? 事件の真相は?
『機械/横光利一』おすすめです。
僕には読み解けない部分がありましたが、ぜひ読み解いてみてください。
狐人的読書メモ
僕がやりたくて、やろうとして、やれていないこと(⇒『egg<目次>』)のヒントが、『機械/横光利一』にはあったように思います。自分で発見したように思えても、やっぱり誰がやっているものですよねえ……、世の中って(なんかお恥ずかしい)。四人称――引き続き勉強したいテーマです。
・『機械/横光利一』の概要
1930年(昭和5年)、雑誌『改造』にて発表された。句読点を少なくしたメカニックな文体と、四人称を取り入れた実験的な小説。
・ネームプレート製造所の主人の不思議な人望は、『三国志』の劉備玄徳を彷彿とさせた。キャラづくりのモチーフによさそう。
以上、『機械/横光利一』の読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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