狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『風人録/坂口安吾』です。
文字数8000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約24分。
作品の内容解釈、メディア報道のあるべき理論的基礎、ビジネス化している現代宗教――難しいことはよくわかりません。ただ、なんかわかる、そっちじゃないだろ、それでいいのか……みたいな?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
この世にはとてもありえないと思えることがけっこうある。たとえば、ある男が電車に飛び込もうとして、走り幅跳びの勢いで飛び込み、線路を飛び越してしまって、無事だった。男はびっくりして飛び込みを断念した。
この奇抜なできごとは翌日の新聞で小さく報道された。まったくメディアの報道というものは理論的基礎が曖昧である。どのような情報が人々にとって有益か、それには多くの議論が必要だが、メディアの報道精神には理論的検討の基礎づけを見出すことができない。
ところで、ここにもひとつ奇妙なできごとがある。それはまったく人格の異なる三人の坊主が、親友ともいえる間柄で、いつも同じ酒場で一緒に飲んでいるのである。
一人は寂念モーロー先生。三十七、八歳。とある仏教大学でバラモン哲学を教える先生である。ひどい酒飲みで、いつも二日酔いで、眠そうにしている。
一人は颯爽先生。同じく三十七、八歳で、仏教史の先生である。政治家になろうという野望を持っており、弁舌さわやか、その態度が人を惹きつけるが、忍耐力には欠け、派手好き。
一人は冷静なる居士。三十二、三歳。前記の二先生の後輩で、七年間も研究室に座り通している。もちろん学者や先生になりたいという願望がないわけではないのだろうが、それを一般の人たちと同じものとして語ることはできない。彼は非常にマイペースなのだ。何事においても焦ったり、走ったり、一生懸命になったり、ということがない。
そんな彼らがなぜ親友たりえ、同じ酒場に通ってくるのか、誰にも意味がわからない。しかし、酒場の三人の女は彼らがくるとそれぞれに覚悟をかためなければならない。
一人は酔いつぶれた寂念モーロー先生の膝の上で退屈な時間を過ごさねばならず、ひとりは颯爽先生の政治談議を愛想まじりに聞かねばならず、一人は女に興味を示さない冷静なる居士に心にもない接客をしなければならない。
さて、以上のことはいまから三、四年前の一九三六、七年頃の銀座の夜の一角の話である。四年足らずのうちに時勢は一変した。いろいろな国でいろいろな戦争があった。人は「今」という瞬間について考える。「今」という瞬間、どこかで誰かが血を流している。
こうして四年の歳月が流れ、突然話は地球の最も新しいある一日へ飛ぶのである。
狐人的読書感想
……う~ん。正直、何が言いたい作品なのか、僕にはよくわかりませんでした。何かがあるのはわかるのですが、それが何なのかがわからない――つまりよくわかりません。
最後の一文が言いたいことなのだとすれば、「どんなに奇抜なできごとであっても、それは世界のどこかで起こっているひとつのできごとに過ぎず、時間というものはそういうできごとの繰り返しで流れているんだなあ」みたいなことなのでしょうか……自信なしです。
とはいえ、おもしろく思わされる場面がところどころあったので、以下に書き残しておきます。
まず、「メディア報道は理論的基礎が曖昧である」といった点です。まさにそのとおりだと思うことがあります。「取り上げるべきニュースはそっちじゃないだろ」みたいな。
もっと報道されるべき内容が報道されず、どうでもいいようなニュースが多くメディアによって流されている、といったことは想像しやすいように思えるのですが、どうでしょうね?
しかしながら、価値のある情報というのは人によって違ってきますし、メディア側も視聴率や広告費を稼げるニュースを報道しなければならず、そのあたりが「メディア報道は理論的基礎が曖昧である」由縁なんでしょうね。
すべての発信側とすべての受信側の利害が完全に一致する報道はありえず、よってみんなが満足できる報道もまた不可能で、「メディアの報道精神には理論的検討の基礎づけを見出すことができない」のは当たり前のことにおもえるのですが、それでもたまに「なんだかなあ……」と思わされるニュースが連日取りざたされている光景が見受けられますよね。
なんだかどうにもできない難しい問題ですね、これも。
つぎはお坊さんについてです。この作品には三人のお坊さんが登場しますが、それぞれにお坊さんらしくないんですよね。
飲んだくれの寂念モーロー先生は言うに及ばず、颯爽先生は野心という欲望が全開ですし、冷静なる居士は無欲といえばお坊さんっぽくもあるのですが、何かを良くしようとしたりする意欲みたいなものが感じられません。
三人共お坊さんっぽくなくて、だから妙に気が合うのかな、って気はしますが、だけどこれ、現代のお坊さんもそんな感じがするんですよね……、とか言ってしまうと、お坊さんの方に失礼になってしまうかもしれませんが。
現在の日本の仏教僧って、大昔のそれこそ仏教が誕生した頃の仏教僧みたくストイックに修行したり、節制した食事をしたりしませんよね。
日本では昔からそうなのかもしれませんが、お経を唱えるだけで幸せになれたり極楽へ行けたり、なんだか衆生のためを想って便利な教義にしているようでいて、自分たちが楽をするために都合よく宗教の教えを改変して利用しているイメージを、どうしても持ってしまうんですよね。
とはいえ、いまや宗教はビジネスであり、お坊さんは職業であるととらえるならば、以上のこともそれほど不自然なことではないように思えます。
お坊さんは宗教的行事をサービス業として提供しているだけであって、別に好きなものを好きなだけ食べたり、恋をして結婚したり、クラブへ行ったり、豪遊したりしているからといって、それを昔の仏教のイメージとかぶせて批判するのは間違っているのかな、って気もします。
本作にも、「元来坊主というものは、天下の政治家に大変良く似た商売だということである」という一文があるんですよね。もっともらしい話しぶりに妙を得て、善男善女をまるめこむ素質が似ている、ということのようですが、ちょっと辛辣な感じはありますが、たしかに、と頷かされてしまいます。
であれば、「宗教はビジネスなんだよ、宗教家は職業なんだよ」って、ちゃんと言ってほしいところですが、それだとなんだかあからさまというか、ありがたみが薄れるというか――本音と建て前みたいな感じ? やっぱり難しく感じてしまいます。
作品の解釈も、メディア報道のあるべき理論的基礎も、ビジネスになっている現代の宗教も――世の中難しいことばかりですね、というのが今回の読書感想のオチです。
読書感想まとめ
『風人録』の内容解釈、メディア報道のあるべき理論的基礎、ビジネス化している現代宗教――世の中は難しいことばかりです。
狐人的読書メモ
・寂念モーロー先生は婆羅門哲学の先生であるが、バラモンってなんだっけ、ってなってしまった。調べてみると、インドのカースト制度(バラモン―司祭者―、クシャトリヤ―王侯―、バイシャ―庶民―、シュードラ―隷属民―)の最上位の階級。バラモン教とかあったよね、そういえば。という無知をさらす狐人的読書メモ。
・『風人録/坂口安吾』の概要
1940年(昭和15年)『現代文学』にて初出。解釈不十分。何か論文を読んでみたいところだが、見つけることができなかった。とはいえ、おもしろくないわけではない。何かを言わんとしていることは十分に感じられる。とはいえ、文学とは最低限そういうものであるのかもしれない。とか知ったかぶりしてみたり。
以上、『風人録/坂口安吾』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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