狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『清貧譚/太宰治』です。
文字数9000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約29分。
菊を愛する男のところに、菊の精の姉弟が恩返しにくる話。
菊の恩返しの真意が深い。
お金のために美しい菊を売るのは汚いか?
売るための小説を書くのは汚いか?
自己満足を自己肯定していいんだよ。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
三十二歳、独身、貧乏、菊の花が大好き――馬山才之助は、よい菊があると日本全国どこへでも行った。いまも菊の苗を宝物のように大事に抱えて、伊豆の沼津から江戸の向島まで帰る途中だった。
箱根の山を越え、小田原の町が見えた頃から、後ろで馬の足音が聞こえている。なぜか並足のまま、才之助の後をずっとついてくるのだ。才之助が振り向くと、少年が馬から降りて挨拶をする。
二人は肩を並べて歩き始める。話は才之助の旅の目的から菊のことに及ぶ。少年は菊の花の栽培について語る。才之助は目を輝かせて菊の苗の良し悪しについて話す。菊の栽培か、菊の苗の良し悪しか……いつの間にか話は議論のようになり、才之助は自身の劣勢を感じる。
「見てもらえばわかる」と、才之助はむきになって少年を自宅へ無理に誘う。が、少年は「自分たち姉弟は江戸へ勤め口を探しに行くので、のんびりしてはいられません」。見ると、馬の陰に赤い旅装の娘がいることに才之助はようやく気づく。「ならばうちで住めばいい」と、結局才之助は強引に姉弟を連れて帰る。
才之助は貧しいながらも、親から受け継いだ家に暮らし、その遺産を食いつぶして生活していた。姉弟は菊畑の納屋に案内されたが、汚い母屋よりはたしかにマシだった。
「やれやれ。とんだことになった」と弟の陶本三郎。
「あら、私はここが気に入ったわ」と姉の陶本黄英。
翌朝、姉弟の馬が才之助の菊畑をめちゃくちゃに荒らして逃げた。才之助は青くなった。馬は黄英が逃がしたのだ。黄英は三郎に、荒らされた菊畑の手入れをするように言った。
菊畑は見事に復活した。三郎は才之助に、畑を半分貸してくれれば、よい菊を育てるから、その菊を売って生活の足しにしてはどうか、と提案する。が、愛する菊を売って金を得るなどとんでもないと、才之助はまくしたてる。結局、才之助は畑を半分貸すが、姉弟とは絶交すると、つい勢いで言ってしまう。
やがて秋になると、才之助の畑の菊が見事に花開くが、隣の畑をそっと覗くと、それ以上に見事だった。才之助は素直に自分の負けを認め、三郎に弟子入りを申し出て、姉弟と晴れて仲直りする。
自分には貧しくとも遺産があるが、兄妹は菊を売るしかないのだ。才之助の態度も軟化する。姉弟は菊を売ってお金を稼ぎ、納屋はやがて立派な大邸宅になったが、才之助は自分が菊を売ることはよしとせず、貧しい茅屋住まいのままだった。
そんなある日、三郎が姉と結婚してほしいと才之助に言い出す。才之助は黄英を憎からず思っていたが、男のプライドが邪魔をして、「姉弟の邸宅へ婿入りするのは断るが、清貧が嫌いでなければうちへきなさい」と、居丈高に言うことしかできない。
その夜、黄英は才之助の貧しい茅屋の寝所へ、白い蝶のように忍び入った。
黄英は邸宅から茅屋にいろいろと道具を持ち込んで、才之助の生活を豊かにしようと努める。才之助は、またしても男のプライドから黄英と別れると言い出して、庭の隅に小屋を作って住み始めるが、どうしても寒さに耐えられず、三日目の晩にとうとう我が家の雨戸を叩く。別れを言い渡されたときには泣いていた黄英が、「あなたの潔癖も、あてになりませんわね」と笑顔で才之助を迎え入れた。
以後、陶本の邸宅と才之助の茅屋はひとつになり、両家の区別はつかなくなった。才之助も自分の意固地なところを深く恥じ、強情なことは言わなくなった。
春、一家三人花見に出かけた。才之助はいい気分で飲み始め、三郎にも酒を勧めるが、黄英はそれを目で止める。が、三郎は「姉さん、もういいんだ。私がいなくても、もう姉さんたちは一生遊んで暮らせるでしょう」と言って酒を飲み、酔いつぶれて――三郎の体はみるみる溶けて、後には着物と草履だけが残る。
才之助は驚いて着物を抱き上げた。下の土にはみずみずしい菊の苗が一本生えていた。陶本姉弟は菊の精だったのだ。が、いまや才之助は姉弟の才能と愛情に敬服し、嫌厭の情は起こらなかった。
才之助は菊の苗を我が家の庭へ移し、哀しい菊の精の黄英を生涯深く愛したという。
狐人的読書感想
菊を愛してやまない人間のところへ、菊の精がお礼にやってくるという、菊の恩返しですね。すごくよかったです。
泉鏡花作品をはじめ、近年では西尾維新さんの『〈物語〉シリーズ』など、やはり怪異譚には惹かれてしまう、自分の読書嗜好のひとつを実感させられてしまいますが、本作は中国清代の短編小説集『聊斎志異』(怪異文学の最高峰といわれている)の一篇を翻案をしたものなのだそうです(『竹青』もそうでしたね)。
ただの素敵な怪異譚として読んでもおもしろいのですが、この作品には太宰治さんの文学(芸術)に対するジレンマが描かれているのだ、とも読めそうです。
今回はそのことを、以下につらつら綴っていきます。
『おのれの愛する花を売つて米塩の資にする等とは、もつての他です。菊を凌辱するとは、この事です。おのれの高い趣味を、金銭に換へるなぞとは、ああ、けがらはしい、お断り申す。』
上の引用は、「菊を売ってお金を稼いでみては?」という三郎の提案を受けたときに、才之助が返した言葉ですが、これは「小説を売ってお金を稼ぐことはどうなの?」という感じのアンチテーゼのように思えます。
もっというならば、「お金のために小説を書くべきか?」ということで、これについてはいろいろな視点からいろいろな作家さんが考えていたようです。
たとえば、文語体から口語体へ、小説の主流の文体が移行していく際には、文語体を愛する作家は少なからずそのことに抵抗を覚えたようですし、純文学から大衆文学へ、やはり世間に好まれる小説の主流が移行していく際には、多くの作家の葛藤があったようです。
文語体から口語体へ。純文学から大衆文学へ。
こうした変化というのは、結局のところ世間一般の読者の嗜好の変化を意味していて、つまりは多く読まれる小説、すなわちよく売れる小説がどういったものになるのかを表していて、作家が書きたいものが必ずしも売れる小説ではなく、しかし生活するためには売れる小説を書かねばならず――ひょっとすると現代でも、このジレンマを抱える小説家という職業の人は、結構いるのではなかろうか、などと想像してみるのですが、どうでしょうね?
『文を売つて口を餬するのも好い。しかし買ふ方は商売である。それを一々註文通り、引き受けてゐてはたまるものではない。貧の為ならば兎に角も、慎むべきものは濫作である。』
上は芥川龍之介さんの『漱石山房の冬』の中で、師・夏目漱石さんから弟子・芥川龍之介さんへおくられたアドバイスとして紹介されているのですが、買い手を意識せずに好きに書いても、たしかに売れる作家のいることを思えば、まさに天才が天才に言えるアドバイスだと感じられます。
才之助は単純に、自分が好きで、一生懸命育てて、美しい菊(芸術)をお金に代えるようなことをしてもいいのか。
貧しくとも純粋に芸術を愛する心を清いものとし、その清い魂を売ってしまうような行いを貧しいものとしてとらえているわけですが、作家としての太宰治さんは、ここまでつらつら書いてきたような悩みを、あるいは才之助の心に投影していたのかもしれません。
『清貧譚』の清貧とは、物質的な清貧のことがメインではなくて、心の清貧のことがメインなのではないか、と僕は思いました。
夏目漱石さんが『貧の為ならば兎に角も……』と言っているように、「まずは生活を優先してもいいんだよ」ってことが、結局菊の花の精の恩恵を受けたまま終わる才之助の、この物語の結末に、表れているのではないでしょうか?
人間まずは生きることが第一ですし、それに売るための小説を書いたからといって、それが芸術として認められないわけでもありませんよね。
自分が好き勝手に書いて、誰が認めてくれなくても、自分の中ではそれが文学で、自己満足するのもひとつの芸術の在り方でしょう。
また、売れるために書いても、より多くの人が読んでくれて、満足して認めてくれたなら、たとえ自分ではそれが文学だとは思えなくとも、それもひとつの芸術の在り方だという気がします。
簡単にいってしまえば、純文学にもラノベにも、どちらが偉くてどちらが劣っているか、清貧の違い(貴賤)なんてなくて、菊の花だって貧乏なまま自己満足のために楽しんでも、売ってお金を得て人々を楽しませて満足しても、それはどちらも自己満足に過ぎず、そしてそれに清貧の違いはないのではないでしょうか?
『あなたの潔癖も、あてになりませんわね』
人間それぞれの想いなどは必ずしも正しい答えがあるわけではありません。
菊の精・黄英のこの一言は、人間悩んだり葛藤したりしながらも、菊を売ってもいいんだよ、芸術を売ってもいいんだよ、と肯定してくれているように、僕には響くのですが、あるいはそうであってほしいという、僕の願望がそうさせているだけであって、ほかのひとにはまた違った意味で響くのかもしれませんね。
こんなことを長々書くつもりではなかったのですが、書き終えてみれば狐人的には興味深い読書感想になった気がする……と、自己肯定(自己満足)してもいいですか?
――というのが、今回の読書感想のオチです。
読書感想まとめ
芸術を売ることについて書かれている? だとすると『清貧譚』の清貧は心の話がメインなのかもしれません。自己満足を自己肯定してもいいんだよ?
狐人的読書メモ
・『私は、この四枚半の小片にまつはる私の様々の空想を、そのまま書いてみたいのである。このやうな仕草が果して創作の本道かどうか、それには議論もある事であらうが、聊斎志異の中の物語は、文学の古典といふよりは、故土の口碑に近いものだと私は思つてゐるので、その古い物語を骨子として、二十世紀の日本の作家が、不逞の空想を案配し、かねて自己の感懐を託し以て創作也と読者にすすめても、あながち深い罪にはなるまいと考へられる。』――冒頭、二次創作についての太宰治の考え方が垣間見られた気がした部分。狐人的にも大変興味深く読んだ。
・『天から貰つた自分の実力で米塩の資を得る事は、必ずしも富をむさぼる悪業では無いと思ひます。俗といつて軽蔑するのは、間違ひです。お坊ちやんの言ふ事です。いい気なものです。人は、むやみに金を欲しがつてもいけないが、けれども、やたらに貧乏を誇るのも、いやみな事です。』――たしかに。自分の描きたいものでなくても、売れる小説を書こうとして売れている小説家は、それだけでも本当に凄いと思う。
・『お前のおかげで、私もたうとう髪結ひの亭主みたいになつてしまつた。女房のおかげで、家が豊かになるといふ事は男子として最大の不名誉なのだ。私の三十年の清貧も、お前たちの為に滅茶滅茶にされてしまつた。』――さすがに古い考え方だと思った。が、どこか憎めないところが、才之助にはある。
・『清貧譚/太宰治』の概要
1940年(昭和15年)『新潮』にて初出。中国の清代の短編小説集『聊斎志異』(怪異文学の最高峰といわれる)の一篇を太宰治が翻案した作品。とてもおもしろかった。
以上、『清貧譚/太宰治』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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