狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『地獄変/芥川龍之介』です。
文字数29000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約76分。
これにまつわる話ほど、恐ろしいものはまたとない。
何も捨てることができない人には、
何も変えることはできないだろう。
至上の目的のためならば人間性は切り捨てるべきなのか。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
平安時代、堀川の大殿様が描かせた地獄変の屏風――これにまつわる話ほど、恐ろしいものはまたとない。
堀川の大殿様に命じられて、地獄変の屏風を描いたのは、良秀という名の絵師だった。良秀は五十歳くらいの老人で、ケチで傲慢で性格が悪く、とにかく人に嫌われていたが、絵だけは天下第一の腕前だった。
良秀には十五になる一人娘がいた。娘は美しく、心優しく、大殿様にも気に入られて、その屋敷で仕えていた。
性格の悪い良秀も、この娘ばかりは溺愛しており、あるとき大殿様が絵の褒美を与えようとしたとき、娘を返してくれといって不興を買った。
そんな矢先、大殿様は良秀に、地獄変の屏風を描くよう命令する。
このことには噂がある。
良秀は見たものでなければ描けない。ならば地獄という見えないものを描かせることで、大殿様は良秀の傲慢をこらしめようとしたのではないか。
あるいは、大殿様が良秀の娘に惚れており、娘の気持ちが意のままにならないことへの、また煩わしい父親への仕返しとして、無理難題をふっかけたのではないか。
良秀は何かに憑かれたように地獄変の屏風制作を進めていく。そのために、恐ろしい地獄の夢を見たり、弟子を鎖で縛りあげたり、蛇や鳥をけしかけて襲わせたり――その様子は明らかに常軌を逸していた。
またその頃、良秀の娘もふさぎがちになり、ある夜、着物を乱して逃げ出してくる姿を、大殿様の家来が目撃する。誰に襲われたのか、家来が問い質しても、娘は目に涙をいっぱいためて、ただ首を振るばかりだった。
地獄変の屏風が八割方完成した頃、良秀は大殿様の屋敷を訪れて願い出る。
絵の中核となるべき部分、猛火に焼かれた牛車の中で、黒髪を振り乱して悶え苦しむ女の姿が、どうしても描けない。どうか牛車を一輛、自分の目の前で燃やしてほしい、そしてできるならば――。
後日、良秀の願いがかなえられる日、焼かれる牛車の中にいたのは、良秀の娘だった。
溺愛していた一人娘が業火に焼かれるという地獄を見た良秀は、その一ヶ月後に見事な地獄変の屏風を完成させて、つぎの夜、自宅の梁へ縄をかけた。
狐人的読書感想
「至高の芸術のためならば人命を犠牲にしてもよいのか」あるいは「至上の目的のためならば人間性は切り捨てるべきなのか」ということがこの作品の大テーマとなっているみたいですね。
もちろん「人命第一」「芸術のために人の命を犠牲にしていいわけがない」と言うのは簡単ですが、実際にそのようにして生み出された芸術が、たくさんの人の心をふるわせて、長く長く後世にまで残っていくことを思えば、一概に語れないところがある、というのもまた、考えさせられてしまいます。
ラスト付近で、横川の僧都様が地獄変の屏風にまつわる話を聞いて、「如何に一芸一能に秀でやうとも、人として五常を弁へねば、地獄に堕ちる外はない」と良秀を非難していたにもかかわらず、実際にその見事な絵を目にした瞬間、「出かし居つた」と膝を打ったシーンは、前述のことを表しているようで印象に残ります。
進撃の巨人のアルミンのセリフをふと思い出しました。
「化け物をも凌ぐ必要に迫られたのなら、人間性をも捨て去ることができる人のことだ。何も捨てることができない人には、何も変えることはできないだろう」
まあ、すばらしい絵を描くことと、人類の存続をかけた戦いとでは、ことの深刻さがまるっきり違うのかもしれませんが、しかし芸術のために自らの命を捧げ、他者の命を顧みない覚悟を持った人にとっては、どちらも同じレベルで語れることなのかもしれません。
芸術家にとっても、調査兵団にとっても、「至上の目的のためならば人間性は切り捨てるべきなのか」という命題には変わりなく、それがいいことなのか悪いことなのか、いや、それをしてもいいのかダメなのか、一概には語れないところに、このテーマの深さ難しさを感じてしまいます。
犠牲にするほうは良心の呵責に苦しんだとしても、それをするのはさして難しくないのかもしれません。
問題は犠牲にされるほうですよね。
芸術のために、人類のために、至上の目的のためならば犠牲になることができるのか?
僕は絶対にできない、という気がしますが、犠牲にするほうとされるほうとでは、また違った問題なんですかねえ……本当に難しいです。
『運』を読んだときにも感じましたが、芥川龍之介さんは「答えのない問題」を描くのが本当に巧みな作家さんだと思います。
さて。
とはいえ、このお話、もうひとつの違ったおもしろい読み方ができるようです。
すなわち「良秀の娘にフラれた大殿様の、腹立ち紛れの八つ当たりじゃね?」ということなのです。
そもそもこの物語の語り部は、大殿様の家来である「私」なんですが、ところどころで大殿様よりの擁護的な発言が目立ちます。
こちらも芥川龍之介さんお得意の「信頼できない語り手」、ってか、擁護が行き過ぎている感じがあって、明らかに大殿様の暴君っぷりを暗示しているように思われてなりません。
(※「信頼できない語り手」とは、物語の叙述トリックのひとつで、語り手の信頼性が低く、読者のミスリードを誘うもの。本作の場合、大殿様の側近である語り手「私」の「大殿様びいきの語り」は疑わしく感じられる)
このあたりはぜひとも、実際に読んでみて、感じてみてほしいところです。
しかしそうなってくると、この物語は古今東西にある「権力者の身勝手で残虐なふるまい」の話、ということになるのですが、どうでしょうね?
いやいや、それはうがち過ぎな読み方でしょ、大殿様はやはり善良な名君で、地獄変の屏風のときには良秀同様の何かにとり憑かれていただけ、魔が差しただけでしょ、という読み方もやっぱりできますよね。
おもしろいところでは、良秀がじつは天才美少年絵師で、良秀の娘がじつは良秀の恋人で、大殿様が二人の間に割って入り、無理矢理娘をものにしようとしたが心まで奪うことはできず――地獄変の屏風のなりゆきと相成った、という、「そこまで信頼できない語り手だったの!?」といった読み方もあって、楽しめます。
「答えのない問題」を深く考えてみて、「ドロドロの愛憎劇」を想像してみて、とてもおもしろい小説でした。
読書感想まとめ
「答えのない問題」を深く考えてみて。
「ドロドロの愛憎劇」を想像してみて。
狐人的読書メモ
もうひとつ、重要なキャラクターとして猿の良秀が登場する。かれは良秀の良心として象徴的な存在だった。
・『地獄変/芥川龍之介』の概要
1918年(大正7年)『大阪毎日新聞』および『東京日日新聞』にて初出。1919年(大正8年)、短編集『傀儡師』(新潮社)に収録。芥川龍之介の王朝もの。『宇治拾遺物語』の「絵仏師良秀」のアレンジ。芥川自身の芸術至上主義と絡めて論じられることが多い。
以上、『地獄変/芥川龍之介』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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