狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『海から帰る日/新美南吉』です。
文字数2000字ほどのエッセイ。
狐人的読書時間は約5分。
新美南吉のエッセイ。
これを中学生が書いたのはすごいと思った。
ところで、
人気の小説家って卒業文集もいいこと書いてるの?
って思ったことある?
やっぱいいこと書いてるみたい。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
(今回は全文です)
『海から帰る日/新美南吉』
1
五年間に通過して來た道、それは今考へたつてわからない。たゞわかるものは今の心だ。五年の最後に到達した心だ。人の心ではない。自分の心だ。
2
雲はビルデイングになつてくれない。風鈴草はいくら振つても鳴つてくれない。木馬は乘つたつて走らない。
3
私の生活は私の生活。私の心は私の心。あなたの生活もあなたの心もあなたののだ。いかに暴逆なネロでも、私の生活を窺ふ事は出來ない。私の生活は矢張り私の生活。
4
初夏のうらゝかな日の午後、せんだんの枝を見てゐると、私は存在してゐるだらうかと思つた。
そしてせんだんの實がつぶら/\となる頃に、私は一つの木の實を拾つた。
――存在しないと私が思つた時、私は存在しないのだ。KもMも存在してゐないと思つた時、私に於てKもMも存在してゐないのだ。牛が人間より頭がいゝと思つた時、牛は人間より非常に頭がいゝ。
5
1+2=3 A=B ナルトキ A+C=B+C 2>1
私達が數學の問題を解く時、若し上のやうな公理が存しなかつたら、問題がとけるだらうか。私達はいつも無意識の裡にそれ等を眞として數學のプロブレムを取扱つて來た。が若し一度
1+2=3 2>1
なる事に疑をもつたらどんな簡單な問題も解く事が出來ない。
2>1
を眞としてかゝればこそどんな複雜なものも解けるのだ。では、
1+2=3 2>1
とは何か。私達はこれを「信仰」と云ふ詞に解釋しよう。一點の疑もいだかない信仰と云はう。
1+2=3
が數學の問題に解決を與へる樣に、信仰は人生の問題に解決を與へるのだ。
6
去られたミノベ先生が、こんな事を云はれた事があつた。――科學の源は神樣である。例へば、人類の原始へ科學が溯つてゆくとき、どうしても神樣がなければ、人類の最初のものが生じない事になつて、科學の大きな建物は土臺を失つてしまふ。――私達が神樣の作られたものならば、私達の周圍のすべてのものも神樣の作られたものである。だから私達の周圍にはむだなものは一つもありません。偶然に空から落ちて來た隕石みたいなものは一つもありません。
7
僕の父は鰡が生長して膃肭臍になると信じてゐる。このいなが食卓にのぼる度に云ふ。僕がそんな事はない。魚が獸になるなんて事はないと説明する。しかし父は肯んじない。「學問上ではさうかも知らないが、いなは確かに膃肭臍になる。」さう云ふ。
父は幼い時から、父の兩親から或は友達からさうきかされて來たに違ひない。そして信じて來たのだ。だからおつとせいになると云ひ張る。僕は此の頃
鰡=おつとせい
の信仰に、却つて一種敬虔な感を持つやうになつた。無學な父には夜と晝のやうに明白な眞理なんだ。
眞理は信仰から生れる。信仰のない者には眞理がない。すべて無だ。水蒸氣の樣なものだ。すべてが無である事はその者が生きてゐない事だ。だから人間の存在すると云ふ事は、その者が信仰を持つてゐると云ふ事だ。
8
信仰に善惡があるか。客觀的にはあらうが、主觀的にはない。自分の信仰が正しくないと分つた時、その信仰は信仰でなくなる。
信仰に大小があるか。主觀的にも客觀的にもある。或る物にぶつかつて、心に迷が生ずる。即ち彼に信仰の不足が生じてゐるからだ。
では、すべての宇宙間に存する物に一點の迷をもたぬ信仰をもつ事が出來るか。それは釋迦だ。孔子だ。基督だ。
彼等の信仰は皆色彩を異にするけれど、その大きさは同じだ。昔から多くの人に尊敬されて來た理由として私は新しい解釋を加へよう。
「彼等の信仰が宇宙と同じ大きさであつたからだ。したがつて間隙のない人生を生きたからだ。」
小學校の生徒に、教壇から、社會の醜をさとす。「皆さん、社會は學校と違ふ。醜いものですぞ。」けれども彼等の頭にそれが信仰となつて這入るか。彼等はさうかしらと思ふだらう。いくら信じようと思つても、「さうかな」の信仰より深入りは出來ない。彼等には經驗がないからだ。つまり自分の信仰を掴んでゐないからだ。自分で掴んだ信仰! それは爆彈のやうに強い。
9
五箇年の間どう歩いたか。それは云ひ得ない。たゞ無意に過した五箇年の最後の瞬間に、はつきりと物を見、掴み得た事だ。それは海から歸る日である。自分は嬉しくてたまらない。自分はこれから、海岸の人々に向つて叫ばう。
――おゝい! 獲れた獲れた! 小い鰡が三四匹! けれど皆んなぴち/\とはちきれさうに生きてゐる、と。
眞珠貝を拾つて來たかの樣に双手をひろげて叫ばう。そして明日はまた海に行く船出の日だ。
狐人的読書感想
新美南吉さんの、エッセイですかね? 童話とはまた違った趣があります。てか、正直理解がむずかしいところが多かったです。
まず、5年間を振り返っているようなのですけれども、どうやら中学校生活を振り返っての、卒業文集(?)的な内容のようです。
初出誌が、学友会誌の『柊陵 第一二号』(1931年3月)となっていて、この時期はちょうど新美南吉さんが半田中学校を卒業した時期なので、そのもの卒業文集と捉えていいんですかねえ……確実なことはわかりませんでした。
中学生でこの文章が書けるというのは、単純にすごいと思いました。中学生とはいえ、現在でいうところの高校生くらいになるんですかね?(執筆時の年齢を逆算すると、当時の新美南吉さんは17歳くらい)それにしたってすごさは変わらないと思いますが。
そういえば、「人気の小説家って卒業文集もいいこと書いてるの?」という疑問を解決する企画をテレビで見たことがあるのですが、たしかに、取材を受けていた作家さんたちは、みんなのちの活躍を予感させるような文章を書いていました。
そのうちのおひとりが、当時の自分の文章を振り返って、「自意識がすごい」みたいなことを言っていたのが印象に残っています。
『海から帰る日』にもちょっとそんなことを感じさせる部分があったりします。
――存在しないと私が思つた時、私は存在しないのだ。
とか? 中二病(?)的な?(当時新美南吉さんは17歳だから、中学生ではあっても現在の中二ではないのですが……)
そんなふうに感じるのはひょっとして僕だけ?(多くの人は深い哲学的テーマだと捉えるのでしょうか?)
ともあれ、これが本作の主眼なのではないでしょうか? 要するに「存在とは何か?」という問いが書かれているように感じました。
――せんだんの枝を見ている自分は存在しているのか。
――数学の公式が存在するから数学の問題が解けるわけだけれども、公式そのものを疑ってしまえば、導き出された答えも疑わねばならないわけで、したがって問題は解くことができない。
――鰡(ボラ)が膃肭臍(オットセイ)になる――生物学的にも現実にも、魚が獣になるなどということはありえないけれど、それを信じている人にとって、それはたしかに真実として存在する。
――信仰の善悪も大小も、結局は個人の主観、その強さによっている。
学術的、宗教的など、いくつかの異なった視点から「存在の所在」について書かかれている感じですが、総じて哲学的な内容だといっていいのではないかと考えます。
つまり、デカルトの『方法序説』の中の命題「我思う、ゆえに我あり」(コギト命題)がテーマとして描かれているエッセイだと思いました(違ってたらごめんなさい)。
実際、「ないものをある」と言い張って生きるのは詮無いという気がしますし、しかし人は信じることで、何か大きな成果や結果を現すことができるというのも、また現実のような気がします。
「自分で掴んだ信仰! それは爆弾のように強く」、「いまわかるのはいまの自分の心でしかない」――いまの心で、いま見えるものの中に、信じられる希望を見つけて、「明日はまた海に行く船出の日だ」、前向きに生きようよ、みたいなことなんですかねえ……。
そんなふうに感じた読書感想でした。
読書感想まとめ
存在しないと私が思った時、私は存在しないのだ。
狐人的読書メモ
文章から自意識をなくすのが難しく感じるのは、僕がまだまだ未熟だからなのか……。
・『海から帰る日/新美南吉』の概要
1931年(昭和6年)3月『柊陵』(第一二号)にて初出。『柊陵』は愛知県立半田中学校の学友会誌である。新美南吉の随筆、エッセイ。コギト命題的内容。僕はおもしろかったが、読む人は選ぶだろうと思った。
以上、『海から帰る日/新美南吉』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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