狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『誰/太宰治』です。
文字数8500字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約24分。
あなたは誰? サタン、悪の子なり?
サタンはゲームでもおなじみ。
人はみな善い弱いだけの存在なのか? 弱さが悪なのか?
良かれと思ったことが、人の心を傷つけてしまう。
人間関係って難しい。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
ある日、私が聖書の一節をまねて「人々は我を誰と言うか」と問うと、学生の一人が「なんじはサタン、悪の子なり」と答える。
私はそのことにショックを受ける。
たしかに、私はお金がはいるとすぐ遊ぶ、また仕事をする、遊ぶ――そんなことを繰り返しているが、しかしサタンと言われるほどではないはずだ。
私はサタンと言われたことがどうしても気になる。いろいろと、サタンについて調べてみて、はっきりとした反証を掴んでおきたいと思う。
調べるうちに、サタンは『この世の君』であり『この世の神』、国々のすべての権威と栄華を持っていることがわかり、私は確かな反証を得る。
なぜなら、私は行きつけのおでん屋の女中にも軽蔑されている。
私はサタンほど偉くない。
ところが、サタンの手下に悪鬼(レギオン)というものがある。私は悪鬼のように、サタンにへつらっていた一時期があるではないか……。
私はいたたまれなくなって、ある先輩の家を訪ねる。そして、過去に私が出した借金申し込みの手紙を見せてもらえるように頼む。
手紙には、先輩が朱筆で評を書き込んでおり、いかにも稚拙なものではあったが、意外と率直に書かれていて、狡智の極みを感じさせるものではなく、私はほっと胸を撫で下ろす。
先輩は、昔のその手紙を読み返して吹き出し、「君も馬鹿だねえ」と一言。思えば、私の悪事は昔からみんなに見破られ、笑われてきた。私はバカというものであった。
私は先輩に例のサタンの話を打ち明ける。
「いったい、悪魔や悪鬼がこの世にいるんでしょうか? 僕には人がみんな善い弱いものに見えるだけです。しんから悪い人なんて僕は見たことがない」
すると先輩が答えて言う。
「君には悪魔の素質があるから、普通の悪には驚かないのさ。大悪漢から見れば、この世の人たちは、みんな甘くて弱虫だろうよ」
またしても暗い気持ちになる私に、先輩は、郵便ポストにマッチの火を投げ入れ、ポストの郵便物を燃やして喜んでいたという、二、三年前の愉快犯の話をする。
私はそれを聞いて、そいつは悪魔だ、と思い、ただのバカであった自分は悪魔でも悪鬼でもないのだと安心する。
ところが先日、いつもファンレターをくれる病気の女性の頼みを受けて、私が病院へそのひとを訪ねに行ったときのこと。
容貌も身なりも悪く、話下手な私は、そのひとに軽蔑されることを恐れ、戸口に立って一言、「お大事に」と言っただけで、その場を去った。
あくる日、手紙がきた。
『生まれて二十三年、今日ほどの恥辱を受けたことはありません。あなたを心待ちにしていた私を、貧しい病室を、病人の姿を、あなたは雑巾みたいに軽蔑した。あなたは悪魔です』
後日談は無い。
狐人的読書感想
太宰治さんらしい滑稽味があって、おもしろく描かれていますが、いろいろと教えられるところの多い小説だと思いました。
まずは冒頭、聖書の話が出てくるのですが、イエス・キリストが「人々は我を誰と言うか」と弟子たちに問うと、ペテロが「なんじはキリスト、神の子なり」と答えます。
イエスは苦悩の果てに自己を見失っていたので、これを聞いて自分の深い宿命を理解し、まさに弟子に教えられた――というのは著者独自の解釈なのかもしれませんが、「弟子に教えられる」というところにちょっとした感銘を受けます。
弟子の発言を、そのように捉えることのできる師は、すばらしいひとのように感じます。
で、「私」がこれをまねて、「人々は我を誰と言うか」と学生たちに問うと、「なんじはサタン、悪の子なり」という答えが返ってきてショックを受けます。
まあ、ショックなのはわかるのですが、大真面目に反証を探すあたり、ちょっと笑ってしまったのですが、しかし何事も真剣に向き合う姿勢は、見習うべきもののようにも感じました(笑うべきだけのところなのかもしれませんが)。
サタンについて、いろいろと調べたことが綴られている箇所も興味深かったです。サタンといえば、現在ではゲームキャラなどでおなじみとなっていますよね。それだけに創作のモチーフとして使い勝手がよさそうで、もっと詳しく知りたいような気になりました(また機会を得て調べたいところです)。
「いったい、悪魔や悪鬼がこの世にいるんでしょうか? 僕には人がみんな善い弱いものに見えるだけです。しんから悪い人なんて僕は見たことがない」
先輩と話しているときの「私」のセリフの要約ですが、「悪とは弱さ」なのかもしれない、ということは改めて考えさせられるところでした。
単純に「勝者が正義で、敗者が悪」という極論のこともありますが、人間は弱さゆえに悪事を働いてしまうという部分がたしかにあるように思えるのですよね。
「弱さは悪ではない」といったような反論もできるように思うのですが、パッといいものが浮かんできません。「悪とは弱さなのか?」というのはもう少しつきつめて考えてみたいテーマです。
「君には悪魔の素質があるから、普通の悪には驚かないのさ。大悪漢から見れば、この世の人たちは、みんな甘くて弱虫だろうよ」
しかし、対する先輩の答えはバッサリでしたね。
まさに強者の弁だという気がして、僕はあまり共感できなかったのですが、だけど言っていることは間違っていないように感じていて、共感できなかったのは僕にも「悪魔の素質があるから」なのかもしれません。
オチはいつもながら見事なものだと感じました。
人は知らぬうちに人の心を傷つけてしまうことがありますよね。
こちらはよかれと思ってやったことでも、相手は全然違うふうに捉えていて――人と接することの難しさを思います。
最後、「後日談は無い」となっていましたが、「私」が再び女性を訪ねて、あるいは手紙を書いて、誤解が解けて、これからもよい関係が築けていけたらいいのにな、などとifの後日談を単純に想像しました。
それは、些細なことですれ違い、誤解をまねいて人間関係を壊してしまったことのある自分に対しての、反省や願いであるのかもしれません。
人間誰しも、間違ったことを言ってしまったり、それで相手の心を傷つけてしまうこともありますが、それに気がつければ、お互い話し合って、また関係を修復することもできるはずなんですよね。
なぜか、それができなかったり、難しく感じてしまう自分がいます。
いろいろと教えられるところの多い小説だと思いました。
読書感想まとめ
おもしろい、しかし、狐人的に教えられることの多い小説でした。
狐人的読書メモ
『デイアボロス、ベリアル、ベルゼブル、悪鬼の首、この世の君、この世の神、訴うるもの、試むる者、悪しき者、人殺、虚偽の父、亡す者、敵、大なる竜、古き蛇、等である』
――たくさんあるサタンの二つ名に興味を持つ。
・『誰/太宰治』の概要
1941年(昭和16年)『知性』(12月号)にて初出。サタンについての知識は、雑誌『聖書知識』(1941年9月号)に掲載された塚本虎二の評論が基になっている。また、「借金申込みの手紙」は太宰が5つ年上の親友、山岸外史に送ったものがほぼそのまま使われているとのこと。サタン、弱さとは悪か、人間関係について。
以上、『誰/太宰治』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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