狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『牛をつないだ椿の木/新美南吉』です。
文字数14000字ほどの童話。
狐人的読書時間は約26分。
利己主義と利他主義。
叱らない、叱られない社会。
マーケティング戦略とクラウドファンディング。
理想と現実の矛盾。
家族とごはん食べてますか?
大人が読むべき童話です。
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
椿の木の根元に、人力曳きの海蔵さんは人力車を置いて、牛曳きの利助さんは牛をつないだ。二人が山に入って清水を飲んで戻ってくると、地主の老人がかんかんに怒っていた。利助さんの牛が椿の葉を全部食べてしまったのだ。
地主は利助さんをさんざん叱って去っていった。海蔵さんは、大人が大人に叱られるのは情けないことだろう、と利助さんの気持ちをくんだ。あの清水がもっと道に近かったら……。
海蔵さんが知り合いの井戸掘りに訊いたところ、あの椿の木の辺りに井戸を掘るには三十円が必要だという。海蔵さんが一人ですぐにどうにかできる金額ではなかった。
道端に井戸があればみんなが助かるはずだ。海蔵さんは山林で儲けている利助さんに相談してみた。しかし利助さんは、みんなの井戸に自分だけがお金を払う意味がのみこめない、と言って断った。
つぎに海蔵さんは、椿の木に札付きの箱を吊るして募金を募ってみた。しかし誰もお金を入れてはくれなかった。海蔵さんは悟った。結局人は頼りにならない、自分一人の力でなさねばならない。
翌日から海蔵さんは好物を我慢して、お金を節約し始めた。
それから二年が経って、海蔵さんはどうにか三十円を貯めたが、新たな問題に直面していた。あの地主の老人が井戸を掘る許可を与えてくれないのだ。海蔵さんは病気のお見舞いがてら、何度も頼みに行ったがダメだった。
そんな海蔵さんを、地主の息子があわれに思い、自分の代になれば井戸を掘らせてあげましょうと申し出てくれた。夕飯時、海蔵さんは大喜びでそのことをお母さんに話した。
するとお母さんは海蔵さんに言った。自分の仕事のことばかり考えて、人の亡くなるのを待ち望むなんて、悪い心になった。海蔵さんは胸を突かれた思いがした。お母さんのいうとおりだった。
翌朝早く、海蔵さんは再び地主の家を訪ねた。そして地主に自分が悪い心であったことを打ち明け、両手をついて謝った。地主は海蔵さんの真心に感心して、井戸を掘ることを許してくれた。そればかりか、足りない費用を負担しようと申し出てくれた。
こうして井戸は完成した。
椿の木の近くの、新しい井戸の前で行列が止まった。学校帰りの小さな子供が二人、水を飲んでいるのを見て先頭の一人がにこにこ笑った。海蔵さんだった。
こんな小さな仕事でも、人のためになることを残すことができた。もう思い残すことはない。海蔵さんはそれを自慢したい気持ちもあったが、そんなことは誰にも言わないで戦争に行った。そして二度と帰ってはこなかった。
いま、道に疲れた人々は、椿の木かげの井戸の水で元気をとりもどしては、また道を進んでいく――
狐人的読書感想
新美南吉さんの作品といえば、小学校や中学校の国語の教科書教材として取り上げられることも多く、『牛をつないだ椿の木』についても「小学生、中学生のとき教科書で読んだ」という声をネットではよく見かけます。
『牛をつないだ椿の木』は大人になってから読むとまた違った味わいがあって、「子供ではなく大人が読むべき童話だ」という意見もあって、これには僕も頷かされるところです。
というのも、冒頭から「これは大人だからこそ思わされるところなんじゃないかなあ?」と感じた部分があったからです。
『大人が大人に叱りとばされるというのは、情けないこと』というところなのですが、これは叱られる本人としても当然のこと、周りで見ている人にとってもそれぞれに「情けないこと」と思えることですよね。
想像するだけでも、大人になってから叱られるというのは、いかにもきついものがありますが、しかし「叱られているうちが華」というような言葉もあるように、それは「情けないこと」ではなくて「ありがたいこと」だと捉えるべきなのかもしれません。
大人になるにつれて人の言うことをすなおに聞けなくなってくる、というようなことも聞きますが、大人になっても人の忠告をすなおに聞き入れる姿勢というのは忘れたくないものだと思わされます。
反対に、最近では学校や会社で、先生や上司・先輩が生徒や後輩社員を叱れなくなってきている、といったような話も聞きます。
虐待やパワハラだといわれてしまうのを恐れて、あるいは人間関係での面倒な衝突や摩擦を避けたいという心理が作用して、叱れない、または叱られない世の中に、最近はなってきているような気がしています。
叱らない、叱られない社会といってみれば、なんとなく穏やかな感じがして、いい社会のようにも思えるのですが、それはイコールで完璧な社会を指しているわけじゃなくて、「成長のない社会」を示しているように感じています。
叱る側は虐待やパワハラではなくて、相手の成長を願い、また促すような叱り方をしなければならないのでしょうし、叱られる側もそういった叱る人の気持ちをくんで、真摯な姿勢で話を聞かなければなりませんよね。
僕はこの思いをいつまでも持ち続けていたいと願うのですが、正直人間関係の面倒ごとは避けたいなあ、という気持ちが強く、叱る側の姿勢については自分がそうなっている姿が想像しがたいところがあります。
叱られる側の立場としては、ふてくされた態度を取ってしまい、叱ってくれている人を不愉快な気分にさせてしまっているな、と感じることがあるので、そこはぜひにでも直したいところであります。
さて、井戸を掘るには三十円のお金がかかるということで、現在では十円玉三枚、何が買えるかなあ、といった感じですが、当時は大金だったようですね。
海蔵さんが井戸の相談を持ちかけたとき、利助さんが「みんなの井戸に自分だけがお金を払う意味がのみこめない」と言ったのには、恥ずかしながら僕も同じことを思ってしまいました。
しかしながら人には多かれ少なかれ、「自分だけが損をするのは許せない」という気持ちがあるのではないでしょうか? 利助さんの上の発言も、この当然の気持ちの表れだとはいえないでしょうか?
(という自己弁護でしょうか?)
このあたりも、ビジネスシーンを思わせるといった意味において、大人が読むべき童話だと感じました。
「損して得取れ」という言葉があります。
たとえば、まずは無料の試供品やサービスを与えて顧客を得るといったマーケティング戦略が、この言葉に該当するかと思います。
利助さんもあるいはみんなのための井戸の資金を提供して、そのことを喧伝すれば、「じゃあいつもお世話になっている井戸を作った利助さんのほうに仕事をお願いしようかな」と、仕事の受注が増えたかもしれませよね。
そして海蔵さんはそのように利助さんを説得すれば、利助さんのお金でもっと早くに井戸を作れたかもしれません。現在ではネットで不特定多数の出資者を募るクラウドファンディングなどもありますが、やはりプロモーション、プレゼンテーションの力というのは必要なように思います。
もちろん、海蔵さんが一人でがんばって、自分を犠牲にしてみんなのために行動したのはとても尊い行いだとは感じるのですが、自分を犠牲にして全体のために働く利他行動というものは、どうにもうさんくさいような気持ちもして、そんなことを考えてしまうのは、ひょっとしてひねくれものの僕だけ?
では、最後は子供の読むべき部分もちょっとだけ。
学校教育でおもに取り上げられるのは、おそらくは海蔵さんが目的のために悪い心になってしまったシーンかと思われます。
たとえどんな大義があったとしても、そのために誰かの亡くなることを望んでしまってはたしかによくないですよね。
道徳教育の教材としてぴったりの題材だと感じました。
ただ現実には、やはりそんな理想ばかりなはずもなく、誰か特定の個人を排してでも絶対多数の幸福を望む、というのが確固たる現実としてあって、理想と現実の矛盾を説明するのは大人にもむずかしく思われます(では、やはり大人の読むべき童話ということになってしまいますが)。
ひとつ強く印象に残ったのは、そんな悪い心になっていた海蔵さんをお母さんがたしなめた場面です。
前述したように、叱れなくなっているのは何も学校の先生や会社の上司・先輩ばかりではなくて、家庭の親にもいえることなのではないでしょうか?
自分が叱られずに育ったから叱り方がわからない、友達親子の場合はその関係を壊すのが怖いなど、理由はいくつか考えられるでしょうが、海蔵さんのお母さんの親としての在り方は立派なものだと感じました。
ところで、海蔵さんとお母さんは毎晩夕食のときにその日あったできごとを話し合っていて、仲良し親子というか、すてきな親子だなあ、とか思ったのですが、みなさんの家ではいかがでしょうか?
最近は、共働きや塾などの影響もあってか、こうした風景は僕には想像しにくいように思われるのですが、どうでしょうね?
僕はちょっとうらやましくなるようなシーンでした。
読書感想まとめ
叱れない、叱られない社会。「損して得取れ」というマーケティング戦略。理想と現実の矛盾をどうやって子供に説明するのか。などなど大人が読むべき童話です。
狐人的読書メモ
海蔵さんにも井戸を自慢したい気持ちはあった。
人は誰しも他人に評価されたいという願望を持つ。しかし自慢話はその願望を見透かされるために、他人から真の評価をされるのは難しくなる(坂口安吾『三十歳』でも思った)。
しかし海蔵さんは自慢をせず、ただただ人の喜ぶ姿を見てにこにこしていた。人としてのすばらしい在り方だと思う。結局のところ人は命を終えればあとには何も残らない。のちに生きる人のための何かを残せる人間はたしかに偉大だ(宮沢賢治『虔十公園林』でも思った)。
作中の時代は明治時代の中期、当時の小学校の先生、警察官の初任給が8~9円だったというから、人力曳きの海蔵さんの給料はやはり安かったのだろうと想像できる(当時一円の価値については国木田独歩『二少女』の読書感想に少し書いている)。
・『牛をつないだ椿の木/新美南吉』の概要
1943年(昭和18年)『少国民文化』にて初出。童話集『牛をつないだ椿の木』に収録された同名表題作。新美南吉最晩年の作品。結核のため、おそらくは自分の最期を意識していたのであろう著者の思いが感じられる。
以上、『牛をつないだ椿の木/新美南吉』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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