聖母マリアの子ども/グリム童話=罪を認め、悔い改める者は許される、現実社会はそうでもないです。

狐人的あいさつ

コンにちは。狐人コジン 七十四夏木ナナトシナツキです。

読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?

そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。

聖母マリアの子ども-グリム童話-イメージ

今回は『聖母マリアの子ども/グリム童話』です。

文字数4000字ほどのグリム童話。
狐人的読書時間は約13分。

三歳の娘を手放す貧しい親の気持ち。
「見るな」の試練を与える聖母マリアの気持ち。
天国の十三番目の扉を開いたマリーエンキントの気持ち。

設定や出てくるワードが創作向け。

未読の方はこの機会にぜひご一読ください。

狐人的あらすじ

木こりの夫婦は貧しかった。三歳になる娘の食べ物さえ手に入れられない状況だった。ある朝、木こりが森で仕事をしていると、聖母マリアが現れて言った。「あなたの子供を私のところへつかわしなさい」。木こりはその言葉に従った。娘は天国へと連れて行かれ、お菓子を食べ、甘いミルクを飲み、金でできた服を着て、天使たちと遊んだ。娘は何不自由なく育った。

娘が十四歳になったある日、聖母マリアは娘に言った。「私は長い旅に出ます。私が帰るまで、あなたに天国の十三の扉の鍵を管理してほしいのです。ただし、十二の扉は開けてかまいませんが、十三番目の扉だけは決して開けないように」。「お言葉に従います」と娘は約束した。

十二の部屋にはそれぞれ一人の使徒が座っていて、娘と天使たちに喜びを与えてくれた。娘は十三番目の扉も開けたくて開けたくてたまらなかった。とうとう天使たちのいない隙にその扉を開けてしまった。中には三位一体が座っていた。その光に触れた娘の指は金になった。

旅から帰ってきた聖母マリアは娘に尋ねた。「十三番目の扉は開けていませんね?」。「はい」。聖母マリアは二回目、三回目と確認したが、娘の答えは変わらなかった。子どもが罪を犯したことを知った聖母マリアは、娘を荒野の真ん中に追放した。

荒野はいばらの壁に閉ざされており、逃げ出すことは不可能だった。娘はほらのある老木を家とし、木の根や木の実、野イチゴなどを食べて暮らした。惨めな生活だった。天国でどれだけ幸せだったかを思った。

それから数年経ったある日、鹿狩りをしていた王様が娘を見つけた。長い金髪の娘はとても美しかった。王様が何を訊いても、娘は口が利けなかった。王様は娘を自分の城へ連れて帰り、結婚した。

一年後、お妃は男の子を産んだ。すると聖母マリアが現れて尋ねた。「もしも罪を認めるならば、あなたの口を利けるようにしてあげましょう」。お妃は罪を認めなかった。聖母マリアはお妃の子どもを天国へと連れて行った。

二年目も、三年目も同じことが繰り返され、「お妃は人喰いだ」との噂が立ち、そのたびにお妃を庇い続けてきた王様も、ついに周囲の声を抑えることができなくなった。

お妃は裁判の結果、火あぶりの刑に処されることになった。お妃は嘘をつき、意地になっていたことを後悔し、ついに自分の罪を認めた。すると空から雨が降り注ぎ、火は瞬く間に消え去った。

お妃の前に、聖母マリアが現れて言った。「罪を認め、悔い改める者は許されるのです」。こうして、聖母マリアは子どもたちをお妃に返し、口を利けるようにしてやり、幸福な一生を約束した。

狐人的読書感想

聖母マリアの子ども-グリム童話-狐人的読書感想-イメージ

罪を認め、悔い改める者は許されるのです――現実には許されない犯罪や不正というものが多々あるかとは思いますが、少なくとも罪を犯した者にはその罪を認め、心から悔い改める気持ちが必要ですよね。

最近のニュースなどを見ていると、聖母マリアの子どものように、嘘をつき、意地になって不正を隠そうとする人も多いように感じますが、どうでしょうね?

「記憶にございません」――嘘とまでは言えないにしても、真実を隠しているような発言をよく耳にしますが、その嘘を暴くのは容易なことではなく、まさに「悪魔の証明」という言葉を連想させます。

『聖母マリアの子ども』では、娘は最後の最後に自分のついた嘘を認め、その罪をゆるされましたが、はたして現実ではどうでしょう?

僕が想像するに、現実社会においては罪を認めても認めなくても、それがまったく許されるということはあり得ず、むしろ罪を隠したほうが、与えられる罰は罪を認めるよりも軽くすみ、あるいはまったく罰を受けることなくすむ、ということのほうが多いような気がします。

その意味で、この物語のメインの教訓となるであろう「罪を認め、悔い改める者は許される」は、人が真心を持って生きることの重要性を謳っている、人間にとってとても大切なことをいっている、とは思うのですが、現実とかけ離れた「神聖なる教え」(理想論)、という趣が強いような印象を受けます(ひねくれものの感想、という感じを受けます……)。

――などといろいろなことが想像(妄想?)できるグリム童話です。以下も順番に、僕の想像(妄想?)したことを綴っておきたいと思います。

まずモチーフの一つを挙げて、これは「子捨て」の物語である、ということができますよね。同じくグリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』を彷彿とさせる導入部分です(木こり、子捨て)。

貧しくて、子供を食べさせることができない、そんなとき、子供を引き取って育ててくれるという人が現れたとしたら……、親としても子供としても想像するのがつらく、悩ましい事柄ではないでしょうか?

親としてはやはり子供の幸せを第一に考えるのではなかろうか、と僕は想像します。様々な事情で、子供を立派に育て上げることがもはや不可能だと悟ったとき、どんな親でも子供を手放す選択をするように思います。もちろん、心の底には「食い扶持を減らしたい」という打算もあるかもしれませんが、親と一緒に果てることが子供の幸せだ、と考える親は少ないように思うのです。

では子としてはどうでしょう? たとえこのままではともに飢え果てる運命なのだとしても、親と一緒にいることを望むでしょうか? 天国に行けば何不自由ない生活ができるのだと知れば、僕はそちらを選んでしまうように想像します。それは親に対してとてもうしろめたいことのように思います。だからあとでその選択を悔いることがあるような気がします。だけどもし、娘と同じような状況に僕が置かれたとしたら、「たとえ飢え果てることになろうと最期まで親と一緒に……」と言えるだろうか……、正直そう言える自信はありません。

言い訳が許されるのならば、親には子を養う責任があって、それを果たせなければ子がどのような選択をしようが、それを責めることはできないでしょう。それでも貧しさの理由の全部が全部親のせいではなかったとしたら、木こりのように一生懸命働いていても貧しいのだという状況を変えられないのだとしたら、親を捨ててすなおに天国に行くことを選んだ自分を、のちにきっと後悔するようにも思うし、しかしそうしなければ後悔さえもできないことを思えば……、自分も働いてみんなで一緒に生き残るんだ、というのもなんだか理想論という気がするし……、何がよくて何が悪いのか、答えの出せない問いのように感じてしまいます。

だから、もし自分が親であれば、子供の心の重荷にならないように、他人に子供を渡すことがその子の幸せになるのであれば、あるいは子供に恨まれたとしてもそれを選択できるようになりたいし、もし自分が子供であれば、親の気持ちを理解して行動できるよう心がけたいし、とか思うのですが、……しかしこれ、親子の関係性、状況、引き取り手の人格などなどあらゆるパターンが想定できて、なかなか想像が難しいところですね。

つぎにもうひとつモチーフを挙げると、これは「見るなのタブー」の物語である、ということで、こちらのほうがメインモチーフだということができるかもしれません。

聖母マリアが天国の十三の扉の鍵を娘に渡して、決して十三番目の扉を開けてはなりません、というくだりですが、これは世界各地の民話や神話において類型のパターンが確認されているモチーフですが、日本だと『舌切り雀』、「浦島太郎』、『鶴の恩返し』などが有名でしょうか。

「見てはいけません」と言われるとついつい見たくなってしまうのは、心理学用語で「カリギュラ効果」とかいうのですが、しかし聖母マリアはなぜそのようなことをなさるのでしょう、とか考えてしまうのは僕だけ?

なんらかの試練だったのか……、ひょっとして天国での成人年齢は十四歳で、親離れ子離れの儀式だったのでは、ということも考えられるでしょうか……、あるいは仮に十三番目の扉の中を見てしまったとしても、娘がもし嘘をつかなければ、聖母マリアははじめから娘が地上で幸せに暮らせるよう取り計らうつもりだったのだけれど、予想外に娘が強情だったためにそうもできなくなっただとか……、ここもいろいろと想像できるところですね(僕だけ?)。

じつは、娘がどうしてここまで強情に嘘を言うのか、というところにも興味を持ちました。はじめは「悪いことをしたのを隠したい」、「一度嘘をついたらもう後には引けない」という子供っぽい気持ちや意地でわかるのですが、天国を追放されて、荒野でみじめな生活を送り、「失ってはじめて天国での生活のありがたみ」を知った娘が、なぜまた再び嘘をついたのか、というところにはちょっと違和感を覚えました。

ひょっとしたら、自分が天国で幸せに暮らした経験から、自分の子供たちも天国で暮らしたほうが幸せに違いないと思い込んでしまい、あえて嘘を言うことで、聖母マリアに子供たちを天国に連れて行ってもらおうとしたのでは……、とか深読みしてみたのですが、ラストを見るにそういうことではなかったみたいですね(汗)

だけどこの着想は、創作においていいものになりそうな気がします。ぜひ何かに活かしたいと思いました(忘れないように!)。

読書感想まとめ

聖母マリアの子ども-グリム童話-読書感想まとめ-イメージ

宗教的には「罪を認め、悔い改める者は許される」。しかし現実的には「罪を隠し、シラを切り通した」ほうがその者の受ける罰は軽くなる。

――ような気がしました。

狐人的読書メモ

まとまりなく長くなってしまった……(反省?)。ところで、聖母マリアといえば処女懐胎を思い浮かべる。以前『女神/太宰治』の読書感想でも書いたが、男性を形成するY染色体の数は三億年前と比較して明らかに減少しているという。ミツバチなどの生態を思えば、メスのみで子孫を残すことは未来には可能となるかもしれず、そうなると五百万年後の人類社会は女性のみの世界になっているかもしれず、という話もあながちSFだけの世界ではないのかもしれない。

・『聖母マリアの子ども/グリム童話』の概要。

KHM 3。ドイツ語で『マリーエンキント』(『ゼノサーガ』というゲームに登場している言葉でもあるらしい、当然モチーフはグリム童話であろうが)。禁忌を破った報いをテーマにした運命譚。キリスト教らしくエデンの園(リンゴ)の原罪を思わせるグリム童話である。

以上、『聖母マリアの子ども/グリム童話』の狐人的な読書メモと感想でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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