狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『マリヴロンと少女/宮沢賢治』です。
文字数2500字ほどの童話。
狐人的読書時間は約7分。
宮沢賢治の宗教観と芸術観。
マリヴロンと少女のように、
皆さんには尊敬できる人がいますか?
誰かを尊敬できるひとになりたいですか?
誰かに尊敬してもらえるひとになりたいですか?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
崖やほりには、銀のすすきの穂が風に波立っている。城あとの丘、めくらぶどうの藪のそば、一人の少女が楽譜を持ってため息をついていると、今夜市庁ホールで歌う声楽家・マリヴロン女史が、みんなを逃れてやってくる。少女・ギルダは化石のようにかたくなり、マリヴロン女史はここにも人のいたことを意外に思いながら会釈する。二人は並んで虹の空を見る。
「マリヴロン先生。どうか、私の尊敬をお受けください。私は明日アフリカへ行く牧師の娘でございます」
「あなたはあちらへ行って立派なお仕事をなさるでしょう。それは私などよりはるかに尊い仕事です。私などはほんの十分か十五分か、声の響きのあるうちの命です」
「違います! 先生はこの世界を、人々をもっときれいに、立派になさるお方です!」
「私もそうありたいと望みます。しかし、正しく清く働く人は一つの大きな芸術を時間の後ろにつくるのです。あの鳥をごらんなさい。鳥の後ろにできる軌跡を誰も見ないかもしれませんが、私はそれを見るのです。同じように私たちもみなそのあとに一つの世界をつくっています。それこそがあらゆる人々の至高の芸術なのです」
「けれどあなたは高く光ります。すべてがあなたを褒め称えます。私は誰にも知られず朽ちていくばかり……」
「あなたも私も同じです。私を輝かすものはあなたを輝かし、私への褒め言葉はあなたにも贈られるものです」
「私を教えてください! 私を連れて行ってください!」
「私はいつでもあなたと一緒におりますよ。ごきげんよう」
鳥がすこしばかり調子はずれの歌を歌った。
狐人的読書感想
どこかで読んだことあるぞ、と思ったら、それは『めくらぶどうと虹』で、『マリヴロンと少女』はこの『めくらぶどうと虹』をバージョンアップ(改稿)したものとのことです。
以前に書いた『めくらぶどうと虹』の読書感想を読み直してみると、このとき僕が感じたものは、宮沢賢治さんのキリスト教や仏教に対する宗教観みたいなもので、この宗教観は『マリヴロンと少女』にもたしかに引き継がれているように思います。
「あなたも私も同じです。私を輝かすものはあなたを輝かし、私への褒め言葉はあなたにも贈られるものです」とマリヴロン先生がおっしゃっているところからは、やはり滅びぬもののない「万物の平等性」みたいなことを思わされてしまいます。
『マリヴロンと少女』では、「めくらぶどう=少女・ギルダ」、「虹=声楽家・マリヴロン先生」と『めくらぶどうと虹』から配役が置き換わっており、ストーリーラインはほぼ同じもののように感じましたが、宮沢賢治さんの「宗教観」のほかにもうひとつ重要なテーマとして、宮沢賢治さんの「芸術観」というものが加わっているように思えます。
それがもっともよく表れていると感じたのは、あらすじでいうところの以下のマリヴロン先生のお言葉です。
「私もそうありたいと望みます。しかし、正しく清く働く人は一つの大きな芸術を時間の後ろにつくるのです。あの鳥をごらんなさい。鳥の後ろにできる軌跡を誰も見ないかもしれませんが、私はそれを見るのです。同じように私たちもみなそのあとに一つの世界をつくっています。それこそがあらゆる人々の至高の芸術なのです」
これは「マリヴロン先生の声楽という芸術よりも、鳥の飛んでいくあとにできる軌跡(すなわち日常生活)のほうがよほど尊いものである」というようなことをいっているように僕には思えました。
芸術というと大げさに聞こえてしまうかもしれませんが、たとえばこれにマンガやアニメや音楽や動画などを含んでみると実感しやすいかもしれません。
「三度の飯より○○が好き」とはよく言われますが、実際にはごはんを食べないわけにはいかず、しかしマンガやアニメや音楽や動画など、すなわち芸術はなくても生きていくための支障とはなり得ず――そこに芸術というものの限界がある、というようなことが綴られているふうに感じました。
とはいえ僕らは、娯楽のためにも心の教養のためにも芸術というものを求めないわけにはいかず、なのでたとえ調子はずれの歌だとしても、鳥に歌うことを許さない鑑賞者のエゴが、ラストの一文には表れているように思えたのですが、いかがでしょうか?
マンガの休載にがっかりして、どこか非難してしまう自分の心のうちを思わされたところですが、マンガ家の方だって頑張っていい作品をつくろうとしているのだから、応援こそすれ非難などはもってのほかなのかなあ、みたいな。ただ、継続して作品を楽しむためにお金を払っているのだと考えてしまうと、そこには作者が鑑賞者に対して作品を提供し続ける責任というものも発生してくるのかなあ、とか思えば、一概には語れないことのようにも感じられてきて、非難する人を非難できないようにも思えてくるのです。その作品を愛するがゆえに非難してしまうという側面もあるのでしょうし……。
芸術をマンガに例えたのは多少無理があったかもしれませんが(いや、そんなことはない!)、尊敬するがゆえに、がっかりさせられたときの失望が大きい、というのもまたいえることかもしれませんね。
ところで、少女・ギルダが声楽家・マリヴロン先生を尊敬しているように、みなさんには尊敬できる人がいるでしょうか?
両親や兄姉や祖父母や学校の先生や好きな小説家やマンガ家やアニメ・映画監督や俳優・女優やアイドル・モデルや歌手やスポーツ選手やYouTuberや、などなど。
その人に教えてもらうためなら、ついていくためなら、どんなことでもできる、というような、本当に尊敬する人というのがいらっしゃるでしょうか?
正直に言うと、僕には尊敬できる人というのはいないように思っています。もちろん周囲の人やクリエイターの人やテレビで見るような人に、感謝や賞賛の気持ちを抱くことはあるのですが、その気持ちは尊敬とまではいえないような気がします。
恥ずかしながら、以前はそれを「自分が尊敬に値する人がいないからだ」などとなぜか上から目線に思っていたこともあるのですが、いまは「自分がその人を尊敬できるほどに、その人あるいはその人がかかわるものごとに深い関心を抱いていないから」尊敬できる人がいないのではなかろうか、と考えるようになりました。
このことは、自分がいい人間関係を作れないのは、周りにいい人間がいないからではなくて、自分が魅力的ないい人間ではないからなのでは、という考えにも通じるところがあるように思います。
すなわち、自分に尊敬できる人間がいないのは、自分自身が尊敬できる人間ではないからだ、ということがいえるのではないか、ということなのです。
何か熱中できるものを見つけて、誰かを尊敬できるひとになって、あわよくば誰かに尊敬してもらえるひとになりたいものですが、それがとても難しく感じてしまうのは、はたして僕だけ?
読書感想まとめ
宮沢賢治さんの宗教観と芸術観。
誰かを尊敬できるひとに、誰かに尊敬してもらえるひとに、私はなりたい。
狐人的読書メモ
――あるいは何かに熱中するのも誰かを尊敬するのもじつに簡単なことで、誰かに尊敬してもらうことだけが難しいのかもしれない。とはいえ、尊敬は狂信にもつながる感情のように思う。誰かや何かに依存することは尊敬とは違うのだと思うが、尊敬しているから狂信しているのだと勘違いしてしまうように思う。そんなことさえ考えないからこその狂信といえば、やはり尊敬と狂信は違うもののようにも思うのだがしかし……。
・『マリヴロンと少女/宮沢賢治』の概要
初出不明。生前未発表作。『めくらぶどうと虹』の改稿作。宮沢賢治の宗教観と芸術観。あまり触れなかったが多作同様に自然描写も美しい。
以上、『マリヴロンと少女/宮沢賢治』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
(▼こちらもぜひぜひお願いします!▼)
【140字の小説クイズ!元ネタのタイトルな~んだ?】
※オリジナル小説は、【狐人小説】へ。
※日々のつれづれは、【狐人日記】へ。
※ネット小説雑学等、【狐人雑学】へ。
※おすすめの小説の、【読書感想】へ。
※4択クイズ回答は、【4択回答】へ。
コメント