狐人的あいさつ
コンにちは。狐人 七十四夏木です。
読書していて、
「ちょっと気になったこと」
ありませんか?
そんな感じの狐人的な読書メモと感想を綴ります。
今回は『のんきな患者/梶井基次郎』です。
文字数18000字ほどの短編小説。
狐人的読書時間は約54分。
のんきな患者は自分の病気に鈍感です。
病気の不安と苦痛。
もしも重病になったとき、周りのひとたちに感謝できますか?
病気になっても前向きに生きる、心を鍛える読書しませんか?
未読の方はこの機会にぜひご一読ください。
狐人的あらすじ
のんきな患者、吉田は結核を患っている。咳が出ると苦しかったが、いまでは咳をする体力や筋力さえなくなってしまった。流行性感冒(インフルエンザ)だと思ってなかなか医者にかからなかったのは、いかにものんきだったかもしれない。
咳などの病状もさることながら、病人にとってたまらないのは不安である。自分はどんな病気なのか、原因はなんであろうか、考えれば考えるほど苦痛は増すばかりであった。
病気のときに頼れるひとのあることは幸いである。吉田にとってそれは母親だった。が、たまにはこのことさえ病人の苦痛になるときがある。何かを頼むのは心苦しいし、自分の苦しさをわかってもらえないとイライラしてしまうからだ。
昼にも夜にも、いつ眠れるかわからないというのも病人の苦しみのひとつだった。ある晩部屋に猫が入ってきて、吉田の寝床にもぐりこもうとした。猫にとってそれは吉田が元気だったときの習慣で、病気になってからは部屋に入れないよう気を遣っていたのだが――吉田が拒むと猫は寝床の上へあがって丸くなった。吉田は呼吸困難になって、精いっぱいの力で猫を投げ飛ばしてしまった。
吉田は咳をすると「ヒルカニヤの虎」という言葉を思い浮かべた。それがなんなのかはよくわからなかった。咳をする、身体を動かす力はない、しかし頭は揺れる、「自己の残像」を感じる。
二週間ほどで咳は出なくなった。すると眠れぬ晩には快楽を求めるような気持ちになるときもあった。それは床の脇の火鉢の裾に忘れ置かれた煙草だ。煙草を眺めていると、春の夜のような気持がする。が、それを吸ってしまえばまた恐ろしい咳の苦しみがやってくる。そんなところに煙草を置きっぱなしにする母親を怒る気持ちと、この春の夜を奪われたくないという対立するふたつの気持ちがある。
ある日吉田は、前の家の近所にあった雑貨屋の娘が、やはり肺の病で亡くなったことを知らされた。吉田には娘のことよりも、その世話をしていた母親である婆さんのことが印象に残っていたが、その婆さんも娘の亡くなる少し前に亡くなっていた。
首くくりの縄、肺病で亡くなった人間の脳みその黒焼き、ネズミの仔の黒焼きなど、吉田の耳にはじつに多くの民間療法が伝わってきた。はては宗教の勧誘まであった。吉田はそういったものを冷静に観察していたが、それによって自分が重病人であることを知って驚く。
統計によれば、肺結核で亡くなった者百人のうち、九十人以上は極貧者で、上流階級の者はそのなかの一人にも足りないという。十分な手当てが受けられなければ、その九十人は人生のゴールへ急いでいるということになる。それらには老若男女がいる。
病気というものは、行軍のように弱くそれに耐えられない者を除外してくれることはなく、強い者も弱い者も無理矢理に引きずっていくものなのである。
狐人的読書感想
梶井基次郎さんご自身が肺結核で早逝されている事実もあって、他の作品と同様に、あるいはそれら以上にこの病気が重要なテーマとされているため、また肺結核でお亡くなりになる著者最後のまとまった小説ということもあって、病人の心情というものが非常にリアルに描かれています。
風邪だとか貧血だとか、ちょっとした体調不良にさえなったことのない、というひとはいないのではないかと思いますが、その意味で吉田の不安には共感できるところがあります。
なかなか熱が下がらなかったり、かつてない痛みが襲ってきたりすると、これは何か悪い病気なんじゃないか、と疑い始めてしまい、だんだん不安になってきます。人間の想像力が不安を生み出し、その不安がさらに想像力を働かせてより大きな不安を呼ぶ、というのは人間感情の負のサイクルのひとつですよね。
しかし、実際命にかかわるような重病にかかる、となってくると、そのようなひとは一般的には健康であるひとの数よりは少ないかと思われて、その意味では驚きや新鮮さを持って病気のひとの心理を読むことができます(この驚きや新鮮さを感じられるということは幸せなことだとも思えます。普段意識することはあまりないですが、健康に感謝しなければならないところでしょう)。
昼と夜のいつ眠れるかわからない苦痛というのもまた、健常人がなかなか経験することのない苦しみでしょうし、猫が自分の寝床にやってくる件も、健康であれば愛おしさを覚えるシチュエーションですが、肺結核を患っている患者にとっては、それが胸の上に乗っただけで呼吸困難に陥ってしまうような重大事で、思わず投げ飛ばしてしまったのも猫がかわいそうではありますが、仕方のない行いだったように思えますし、またそれほどまでに衰弱してしまう病気というものの恐ろしさを、疑似的にではありますが実感させられてしまいます。
僕は、お腹が空いているときにひとに食べ物を分けてあげることができるだろうか(いや、きっとできないかもしれない)、イライラしているときにひとにやさしく接することができるだろうか(いや、きっとできないかもしれない)、ということをよく考えるのですが、健康だからこそ心にゆとりをもってなにごとにも接せられる、というところもまたあると思いました(もちろん前述のとおり、健康でもうまくいかないこともあるわけではあるのですが)。
もうひとつ、梶井基次郎さんは「お母さんへの想い」みたいなことを作中によく描かれているような印象を持ちます。今回の場合は、甘えを含んだ疎ましさであったり、やはり母親にしか感じ得ない親しみであったり、申し訳ないような気遣いであったりするのですが。
健康であることのありがたさ同様に、病気のときにそばにいてくれるひとのありがたさというのは、そのときになってみないとなかなか感じられないことのように思います。
まあ、吉田のように病気からくる自分の不安や苦痛をわかってもらえなくてイライラするということもあって、重病の場合はこの傾向がより顕著になって、あるいは世話をしてもらえることが当たり前になっていて、なかなか素直に感謝の気持ちを表すことはできないかもしれませんが、誰でも根底にはお母さんへの感謝の気持ちがあるのではないかな、という気がしました。
お母さんばかりでなくて、家族、恋人、友人、知人――自分の周囲にいてくれる人たちへの感謝の気持ちというものは、普段なかなか意識する機会も少ないのではないでしょうか?
病気になればそれを実感できるのかといえば、実際に自分が苦しいときにそれが可能かどうかと問われてみれば、答えに窮するところがあります。
そういった点では、疑似的に病人の心情を体感できる『のんきな患者』の読書は、周囲のひとたちへの感謝も含めて、自分を見つめ直すいい機会を与えてくれるもののように思いました。
そして自分が本当に命にかかわるような病気になってしまったとき、ただ悲しみに暮れて、荒れてしまったり、自暴自棄にならないためにも、このような読書体験は意味のあるものだと感じました。最近でいうと住野よるさんの『君の膵臓をたべたい』の読書を思い出しました。余命が少ないとわかっていても、前向きに明るく感謝を忘れずに生きられるだろうか、みたいな。
まさに『あらゆる残酷な空想に耐えておけ。現実は突然無慈悲になるものだから』ですね。
とはいえ、いくら心の準備をしておいても、現実を目の前にして理想通りに行動できるとは限らないわけではありますが……(しかし読書によって心を鍛えておくというのはひとつ読書の利点ですよね。何もしないよりはいいはずなはず?)。
『のんきな患者』の「のんき」という部分については、評論家の方々の間でも解釈が分かれるそうです。
吉田は自分の病状が悪化していく一方である、ということには気がついていますが、命にかかわるというところからはおそらく無意識的に距離を置いているような印象を受けました。
なので自分の顔色を見て重病人扱いしてくる周りのひとの反応に戸惑ったり、効果のほどの疑わしい民間療法や宗教への勧誘を客観的に捉えることができているわけなのですが、実際重病になったとき、こんなふうに冷静でいられるのかなあ、というところにはやはり疑問を持ちました。
案外諦めの境地みたいな心境になれるのかもしれませんし、もっと悲観して感情的な言動をしてしまうようにも思います。このあたりは梶井基次郎さんはあくまでそうだった(少なくともそうであった時期があった)ということであって、多分に個人差が出るところなのかもしれませんが、もしも自分が重病になったとき、どのようになってしまうのかというのは考えさせられるところでした(きっと見苦しいことになってしまうような気がしてしまいましたが)。
『のんきな患者』には「のんきな患者」でいられなくなるところまで書く、といった続編の構想があったらしく、ぜひ読んでみたく思いましたが、冒頭でもご紹介したように、この作品が梶井基次郎さんの最後の作品となっています。惜しまれます(中島敦さんの『わが西遊記』、太宰治さんの『グッド・バイ』、芥川龍之介の『大導寺信輔の半生』のように)。
読書感想まとめ
命にかかわる病気になれば、自暴自棄になってしまい、周囲のひとたちへの感謝を忘れて、前向きに生きることは難しくなってしまうのではないでしょうか? 読書によって心を鍛えておくことが、あるいはそのようなことから救ってくれる場合もあるかもしれません。
狐人的読書メモ
「ヒルカニヤの虎」のような、意味のない言葉がそのひとの頭の中にだけ残っている、というのはあるような気がする。一般的なことなのか否か気になるところだ。病気では貧しい者が真っ先に命を落とす、というのは真理という気がする。とはいえ人生の終わりは皆に平等にやってくる。生まれたときにすでに与えられている結果。それがこの世でただひとつの平等なのかもしれない。
・『のんきな患者/梶井基次郎』の概要
1932年(昭和7年)1月『中央公論』初出。公に発表された梶井基次郎の最後の小説。有名すぎる同人作家として有名な梶井基次郎だが、はじめて商用の文芸雑誌にてまともな原稿料を得た小説でもあるらしい。
以上、『のんきな患者/梶井基次郎』の狐人的な読書メモと感想でした。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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